百三十二話 那須川恒之3
世界が変わってしまってから幾度となく聞いた、低くくぐもった呻き声とは違う、咆哮とも言えるような声が車の外から響く。
それに釣られるように、感染者の集団は自分達という餌に食らいつこうと接近して来ていた。
車体の横腹へと衝撃を与えた感染者はおぞましい叫び声を上げながら、尚もワゴンの窓を何度も叩いてくる。
……車を走らせているのに、だ。
「くっ……」
徐行より多少早い程度のスピードでは、この感染者から逃れるのは不可能に思えた。
先程。
空を見上げていた感染者が唐突にこちらを向いて、ぞくりと背筋に悪寒が走ったのも束の間、あろうことかあの感染者はこちらへと"走り寄って"きたのだった。
咄嗟にハンドルを切ったのは、我ながらよくやったと思う。
あのまま真っ直ぐにフロントガラスに突っ込まれたのでは、割れていてもおかしくはなかった。
「ちっ……大通りを抜けろっ!」
「はいっ!」
青年達に囲まれていた時ですらあんなに冷静だった柳木さんが、一つ舌打ちをしてそう声を荒げた。
無理もない。
前方に見える感染者の数も決して少なくはなく、またその中にも何体かこちらへと走ってくる感染者の姿があるのだから。
放置された車もあり思うように進めない中、無理矢理アクセルを踏みさらにスピードを上げる。
それでも、走る感染者からは殆ど距離が取れない。
サイドミラーに一瞬だけ視線を送れば、いつの間にか車へと肉薄する感染者の数は、ゆうに10を超えていた。
まずい、まずい、まずい。
このままでは追いつかれてしまう。
やつらはどこまで追ってくる?
あの交差点を曲がったとして、その先は?
そこはちゃんと通れるようになっているのか?
……そもそも、あの感染者達は、一体、なんなんだ!?
「しまっ……!」
がこん、と道路に転がる死体を踏んだ音がして、僅かな浮遊感。
次いで、車体の真横から激しい衝突音がして、さらにぐるりと視界が回った。
「きゃあ!」
後部座席から悲鳴が上がるとともに、コンクリートと金属のぶつかる激しい音が辺りに響く。
ザリザリと少しばかり地面を滑って、自分達の乗るワゴンは交差点のど真ん中で停止した。
その車体を、横倒しにしながら。
「っ……!」
フロントガラスから見える90度回転した視界は絶望的だった。
多数の感染者が今にもこの窓をぶち破らんと涎を垂らしながら近づいて来ていた。
後ろからもすぐにやつらがやってくるだろう。
最悪だ。
最悪だ最悪だ最悪だ。
この状況は、"完全に詰んでいる"。
自分は、なんてミスを……
間近に迫った感染者を前に、車内にいる全員への謝っても謝りきれない感情に思考が支配され、絶望感に打ちひしがれ始めたその時だった。
「……この停め方は、"悪くはない"な」
ぼそりと、後部座席からそう声が聞こえた。
「っおにーさん!?」
すぐさまがらりと音がして、それが今は天井となっているワゴンのスライドドアを開けた音だと気付いた。
柳木さんはそこに片手を掛けると、もう片方の手には刀を持って、ふわりと外へと飛び出した。
「柳木さん、無茶だ!」
自分の呼びかけに返ってきたのは、荒々しくドアを閉める音。
その瞬間、つい先程聞こえた、感染者がフロントガラスを叩く音が消えていた。
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「サクラっ!リアガラスからの視界を通らないようにしろっ!」
自分は一体、何を見せられているのだろうか。
柳木さんがスライドドアを閉めた直後、フロントガラスに張り付いていた感染者は全て、事切れていた。
一瞬だった。
天井となった車体の側面から前方へと降りる時間、そんなものすら無かったかのように、振り向いた時にはもうそこは感染者の血に塗れていた。
「カーテンできっちり塞げ!ゾンビから中を見られないようにするんだ、いいな!」
そう叫んだ柳木さんが迫る感染者を蹴れば、まるでサッカーボールでも蹴ったかのように吹き飛び、その後ろにいた他の感染者を巻き込んでいく。
「わ、わかりましたっ!」
サクラさんがそう返事をした瞬間、目の前の柳木さんの姿が消えた。
かと思えば、後方からドンと大きな音がして、またすぐに柳木さんが姿を現す。
冗談のような光景に一瞬気を取られていたが、はっとなり頭上にいるナノハちゃんのシートベルトを外し抱き抱え、体を自由にさせる。
後部座席の方を見れば、狭苦しい中少女達も体勢を立て直したようだった。
再び視線を前方に移せば、そこから先はもう、まるで現実感のない光景がひたすらに続いていくだけだった。
走り寄る多数の感染者を目にもとまらぬ刀捌きで屠り。
それによって出来た積み重なった死体を邪魔だと言わんばかりに蹴飛ばせば、遥か遠くに吹き飛び。
姿が消えたかと思えばまたすぐに現れ、時に明滅するかのように何度も柳木さんの姿がブレた。
思い返せば、柳木さんが青年達を殺したあの時。
緊迫感からの見間違いではないかと思っていたあれは、決してそんなものではなかったのだ。
あれは見たまんま本当に瞬間移動したのであって、あの場にいた全員を殺した技量は、達人技などという"生温い"ものではなく、それを超越した何か。
その証拠に、柳木さんが外に出てから車体は殆ど衝撃を受けていない。
外に感染者はまだあんなに沢山いるのに。
きっと柳木さんはこのワゴンの360度全てを守り切っているのだ。
「……」
誰も、声を出せなかった。
ただ目の前の光景に息を呑み、ごくりと喉を鳴らす音だけが何度も車内にこだました。
どれだけの時間が経ったのだろう。
一瞬とも、永遠とも思える時間だった。
だがおそらくは、きっと30分にも、いやともすれば10分にも満たない時間だったのかもしれない。
返り血に塗れながらも涼しい顔をした柳木さんが一度刀を振るい、びしゃりとそこに付いた血を落とした時には、全てが、終わっていた。




