百十一話
「……見ての通り、だが。ユキが言っているのは、そういうことじゃないんだろうな。」
ユキに言われた、俺が本当に俺であるのか、という問いは、一瞬だが俺の動揺を誘うに足る言葉だった。
織田さん達にまた新たに受け入れられ、そしてカエデに全てを受け止められたという自負から、何処か安心していたというのもあるかもしれない。
高鳴る鼓動が落ち着きを取り戻してからユキを見れば、揺れる瞳をこちらに向ける彼女はそんな俺の様子を不安げに見つめていた。
「……警察署で先輩と再会した時、少し、おかしいなって、思ってはいたんです。でもそれは、パンデミックが起きたからなんだって思ってました。」
ユキはあの時俺に、なんだか冷たい、と言っていた。
異世界から帰還してすぐこんな世界になっていて、ユキは死んでいても仕方がないと思っていたこと。
この世界に蔓延るゾンビ共は向こうの世界ではさほど脅威ではなかったこと。
きっとそんな俺の考えが態度に出ていたのだろう。
それでも彼女は、ただ俺が生きていることを喜んでくれていた。
対して俺は、どうだったのだろう。
そんな隠し事を誤魔化すために、出鱈目な話を並べていた。
「先輩が力を隠したかったのは、分かります。私もきっと、そんな力を持っていたら、どうすればいいのか、分からないと思いますから。でも……」
ならばユキの言うそれは、俺の精神性を指してのことなのだろう。
人を殺しそれをどうとも思わない、以前の世界であれば、いやこの世界においても異常と言っていいその思想。
言い淀んだ様子のユキのその言葉の先を聞かず、俺は口を開く。
「……毎日、何かしら殺していた。モンスターと呼ばれるものならばまだいい、動物を殺すのと変わらん。だが、それが魔族となればその姿形は人間と大して変わらない。そしてこの間も言ったが、依頼で人間の賊の類を殺すことだってあった。魔族に与した人間や、別の国の人間とやりあったこともあったな……そんな日々が続けば、少しくらい壊れちまうさ。」
俺が俺であるのか。
織田さんもカエデも、そのような問いを俺に投げかけたりはしなかった。
彼女からそんな疑問が生まれたのは、ユキが、いやユキだけが、以前の俺を知っているからだ。
「……ユキの言う通り、俺はユキの知っている俺じゃないだろうな。」
「先輩……」
力を手にしているとかそういうことではなく、その内面の話。
自分は以前とは違うと改めて自覚させられ、最近それを意識せずにいた俺は少しだけ、心を揺さぶられた。
壁に寄りかかって一瞬だけ床に視線を落とすと、ユキの視線を感じる。
顔を上げれば、何処か寂しげな瞳が俺を射抜いていた。
「……先輩は、不出来な私をなんだかんだ言いながらいつも気にかけてくれる、優しい人でした。」
「教育係だったんだ、当たり前だろ。」
「研修期間が終わっても、よくしてくれてたじゃないですか。」
「仕事の後輩だ、当然だろう。」
そんな俺が、こんな風に壊れてしまうなんて、とでも言いたいのだろうか。
なおも俺に突き付けられた視線が、そう訴えているかのようだった。
「……俺も、こっちに戻ってきてすぐは、そうだな。"普通"でありたいと思っていた。」
そもそも異世界からこちらに戻ってきたこと自体、そんな日本では考えられないような日常に嫌気がさしていたからだ。
この力も精神性も、それら全てを白紙に戻し、前のごくありふれた、普通とも平凡とも呼べる生活に戻りたかった。
「だがな、どうも今の世界ではそうはいかないらしい。ここにきた略奪者共や、カエデを襲った奴の一味。あんな奴らがのさばる今の世界で、以前の俺のままでいるのはどうにも無理があったんだ。」
「……そうだったんです、ね。」
俺の言葉を聞いて、ユキは俺からついと視線を外した。
どこか遠くを見るような瞳で悲しげな顔をするユキは、何を考えているのかそのまましばらく黙ってしまった。
ユキにしてみれば、しかしそんな俺だからこそ先日の略奪者の襲撃をあっさりと撃退できたのも理解出来るのだろう。
しばしの沈黙の後、顔を上げてユキが静かに口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「先輩はさっき私のこと、仕事の後輩だって言いましたよね。じゃあ、今は、どうですか?」
「今?」
「もう、会社も仕事も、そんなもの無くなってしまって、こんな世界になってしまって……」
「変わらんさ。ユキは大事な後輩だ。」
「だっ……ふ、ふぅん、そうなんですね。」
「……?」
そう言うとユキは唇を尖らせて、頭を抱える。
そのまま髪がボサボサになるまで何度か自分の頭を撫でると、その手で目を覆った。
しばらくその格好のままユキは立ち尽くし、その後に乱れた髪をちょいちょいと直してから顔を上げると、呆れたような表情で俺を見た。
「はぁ……先輩って、そういうとこ、ありますよね。」
「ん?」
「別になんでもないです……」
ジト目、とでも言えるように俺を睨むと、深呼吸をするようにユキは大きなため息をつく。
「あぁ、もう……先輩は今、私のこと、だっ……大事だって、言ってくれましたよね?」
「あぁ。」
「……じゃあ、これからは隠し事とかしないって、約束出来ますか?」
ユキのその言葉は隠し事をしていた俺を許す、というものと同義なのだろう。
力が明らかになるのを恐れていた過去の俺の気持ちを汲んで、理解しようとしてくれている。
そしてそれは、今の俺に歩み寄ろうとしているのだ。
「……あぁ。もう全部曝け出したんだ。隠し事なんてしないさ。」
「それなら、もう、いいです……私も、本当は頭では理解しているんです。きっと、今の世界では先輩がさっき言った"普通"がもう違ってしまっているかもしれないってこと。確かに先輩は私の知っている先輩じゃないかもしれません。でも、それは特別におかしいとかそういうことじゃないんだって。いえ、むしろ、やっぱり先輩は先輩だって、分かった気がします。」
「……普通が変わってしまっているのは俺もそう思うんだが……後半は、何を言ってる?」
「別にー。なんでもないですよーだ。」
ユキはそう言ってふくれっ面を晒してから、言葉を続ける。
「……でも、良かったです、今こうして話せて。きっと先輩は、カエデちゃんが大丈夫そうなら、近いうちまたここを一人で出て行ったりするんだろうなって思ってたんです。だからその前に、ちゃんと話しておきたかったんです。まだ少しだけ、気持ちの整理はついていないですけど。」
ふぅ、と一つ息を吐いて、ユキは俺を見上げた。
ついさっきまでの震えたような瞳から一変して、真っ直ぐに俺の目を見据えた視線が突き刺さる。
言葉尻とは裏腹に、憑き物が落ちたかのようなその表情で、ユキは俺へと小指を向けた。
「もう、黙って出て行くのとか、無しですよ?出て行ったらちゃんと戻ってきてください。隠し事もしないで下さい。何かあったら相談してくださいね、私は先輩の大事な後輩なんですから。あと、他にも何か、もう、全部、約束してください。」
「なんだ、それは……」
指切りなど何を子供っぽいことを、と思いながら、ユキのその支離滅裂な言葉に苦笑する。
だが不思議と、その言葉は心地が良かった。
「……まあ、でも、分かったよ、約束するさ。」
なおも自信満々とでも言える表情で小指を立てるユキに押し負け、俺は小さく笑って、その細い指に自らの小指を絡めた。




