百八話
「カエデも、少し休んだらどうだ?」
ユキ達が部屋を出て行ったのを見送りドアを閉めてから、椅子に座り気を落としたように目を伏せるカエデにそう声をかける。
ユキに言った、また後で、という言葉が果たして実現できるのかと、そんなことを思っているのだろうか。
「あっ……」
その手を取り立ち上がらせると、カエデが小さく声を出した。
先程までユキとシュウが座っていた、部屋の入り口側にあるソファへと彼女を移動させる。
とさりと力無くそこへと座るカエデが、俺を見上げた。
その瞳は、以前俺を見ていた目と同じようで、そこに畏怖の感情を抱いてはいないように見えた。
「……俺のことが、怖くないのか?」
それを見て、不意にそんな言葉が口をついた。
織田さんとの話し合いの場で全てを告白した時も、カエデは何処か俺を慮っているような様子だった。
カエデはその質問に一度目をパチクリさせると、少しだけ首を傾げた。
「怖く、ありませんよ?どうしてですか?」
「さっきも言ったが、俺は人を殺し、それを何とも思っていない。そしてこの体に宿る力は、人など素手で簡単に殺せてしまう。」
拳を一度握り、軽く開いて、その手のひらを見る。
この力は明らかにこの世界においては異常、それは疑いようのない事実で、そしてそれが畏怖の対象になるのは仕方がないと俺は思っている。
しかしその開いた手の上に、そっと重なる手の感触があった。
「……アザミさんが、理由もなくその力を振るうことはないって、私は分かっていますから。」
体温の違いか、触れるカエデの手が随分と温かく感じる。
きゅうと包み込むように、その小さな手が俺の手を握った。
「確かに人を殺すことに何も感情を抱かないのは、普通の人には無理かもしれません。そして、そんな人を怖いと思うのは、当然のことだとも思います……今日ここを襲った人達は、自分の欲望のために人を殺すことを何とも思っていない人達でした。あそこで隠れているときに、私はそれが、凄く怖かったんです。」
顔を上げてじっと俺の瞳を見つめて、カエデは言葉を続ける。
「でも、アザミさんは違うじゃないですか。私達を守るために、その力を使って、そして仕方なく殺めただけじゃないですか。だから……私は怖いなんて、そんなこと、思いませんよ。」
「……そうか。」
少しだけ、勘違いしていたのかもしれない。
必要以上に、逆に俺自身がこの力とこの精神性を怖れていた、と言うべきなのだろうか。
いや、或いは以前のような平和な世の中であればまた話は違ったのかもしれないが。
ともあれ、俺が危惧していたようにはカエデは俺に畏怖の感情を抱いてはいないようだった。
それは胸が熱くなるほど嬉しいことで、そしてそんな気持ちを抱いてしまったことが随分と照れ臭くなって、俺は小さく笑った。
そんな俺の様子を見てか、カエデは頭に疑問符が浮かんだような顔をして、そして俺につられるように笑みを向けた。
「その力でここの皆に危害を加えるとか、アザミさんがそんなことしないって、分かってますから。それに私は、アザミさんのこと……えっと、信じてます、から。」
俺の気持ちが伝播したのか、カエデがほんの少しその頬を染めた。
「あっ、でも。私が感染者になってしまったら、ちゃんと、殺して、下さいね?」
「あぁ、分かっている。」
ペロリと少しだけその唇の間から舌を出して悪戯っぽく笑う彼女を見て、優しく微笑みかける。
今自分の置かれている状況でそんな冗談じみたことを言える彼女を、健気だと思った。
「……少し、横になったらどうだ。」
続けてそう言葉を投げかければ、カエデは一度唇を尖らせる。
そして逡巡ののちに、ソファへとその身体を横たえた。
俺のズボンを、くい、と摘みながら。
その様子にまたも小さく笑ってから優しくその手を一度離れさせると、オフィスチェアーを持ってきてソファの側に置く。
「心配しなくても、近くにいる。」
「……はい。」
俺がその椅子に腰掛けるのをみて、カエデはほっとしたような顔を見せた。
そのまま、しばらく無言の時が流れた。
じぃ、とカエデが俺へと視線を向けているのがわかる。
見つめ合うのもきまずく、目を逸らしても、それでもカエデの視線が俺に突き刺さっていた。
「あー……眠っても、大丈夫だぞ?」
そんな空間に耐えきれなくなり俺がそう声を掛ければ、カエデは首を横に振った。
「そんな、眠れ、ないですよ……」
「だが少しくらい眠っておいたほうがいいだろう。ユキもだったが、酷く疲れた顔をしているぞ。」
「……眠るのは、少し、怖いんです。」
俺から視線をついと外して床を見るカエデが言葉を続けた。
「もう次の瞬間には、私が私として目を覚まさないかもしれない。そう思うと、怖いんですよ……」
彼女が噛まれてから本来であればゾンビ化するくらいの時間は経った。
傷も一応治ってはいるが、しかし噛み痕は綺麗さっぱりと消えているわけではなく、未だ僅かな線をその細い腕に残していた。
そんな状態では、カエデがそう思うのも無理もない話だった。
俺ですら、果たしてどうなるのかはわからないのだから。
「それに……たとえ目を覚ましても、またあの日みたいに、アザミさんがいなくなっていたら、どうしようって。」
「それはもう大丈夫だ、ちゃんと近くにいるさ。」
「ふふ、分かってますよ。冗談です。」
カエデがまたも少し無理をしたような笑顔を浮かべて俺を見る。
そんな顔をしながらも不安に揺れるその瞳から、目が離せなかった。
「……こうしていると、ホームセンターにいた頃みたいです。」
俺を見つめたまま、ぽつりとカエデが呟く。
カエデが言っているのは、彼女が風邪を引いた時のことだろう。
あの時カエデは、俺が外に出ていかないかを不安がり、側にいてくれと頼んできていた。
こうして横になるカエデの傍に座って、彼女が眠るまで話をしたものだった。
「……アザミさん。」
「ん?」
「アザミさんはあの時、きっと、私のために避難所を探してくれていたんですよね。」
「……そうだな。」
最初は助けてしまった責任を取るために、安全な場所へとせめて届けようという気持ちからだった。
だがそのうちに、両親が死んでしまい、一人孤独になった彼女にまた人との触れ合いを作ってやりたいと思った。
「でも、私は……アザミさんさえいてくれれば、それで、良かったんです。」
そう語るカエデの瞳はいつの間にか潤んでいて、横になっている彼女のその目の端から、つう、と僅かに涙がこぼれた。
「だから私、アザミさんがいなくなった時、本当に、凄く悲しかったんですよ……?」
「それは……すまん。」
「いいんです。責めてるわけじゃないんです。私が言いたいのは……だから、今は、凄く嬉しいってことなんです。」
「……嬉しい?」
「はい。アザミさんが、私が感染者になったら殺してくれるって、言ってくれたから。それなら、今は……また一緒に、いてくれるってことですよね?」
……そうか、あんな残酷な話を前にして浮かべたあの笑顔は、そういうことだったのか。
瞳を潤ませ、頬を染めてそう気持ちを吐露する彼女の涙を指で拭って、その頭に手を置く。
「……そうだな。約束するさ。」
ん、と小さく声を出して、カエデがあの時と同じような笑顔を浮かべた。




