百三話
三人は、部屋の隅の方に少し間を空けて座っていた。
ユキは、子供を後ろから抱えながら。
カエデは、その足元に拳銃を置いて膝を抱えながら。
ホームセンターにいた時にあげた服を着たカエデの腕の部分が不自然に破れ、そこから血が流れているのを見て俺は目を細めた。
三人からのとびきりの敵意の含んだ視線が突き刺さり、カエデは俺の姿を見るなりすぐさま足元の拳銃を拾い上げる。
その銃口をこちらに向けようとして、しかしすぐにカエデはその敵意を無くし、またユキからも敵意がいつのまにか消え失せていた。
「アザミ、さん……?」
「せん、ぱい……?」
外が明るくなってきているとはいえ、光の殆ど届かないこの部屋では俺の姿などそう見えない上、顔はヘルメットで認識出来ないはずだろうに、何故分かったのだろうかと僅かに動揺する。
そうカエデとユキが同時に声を出すのに応じ、俺はヘルメットを脱いだ。
「……久し振りだな。」
そう声を掛けては、ユキと子供から少し離れて座るカエデへとゆっくりと近付いた。
危害を加えようとしていると思ったのか、子供が俺に敵意の視線を向けてくるが、大丈夫だから、とユキが制するかのようにぎゅうと子供を後ろから抱きしめていた。
「アザミさん、やっぱり、生きていたんですね……」
痛みからか苦悶の表情を浮かべながらも、潤んだ瞳で少し恨めしげに俺を見上げるカエデの言葉に、俺はついと視線を外し、その傷ついた腕を見る。
肉のえぐれたそれはどう見ても鋭利な刃物で切れたなどというものではなく、まさに咬み傷そのものだった。
「……取り敢えず、略奪者共は殆ど片付いた、そっちの心配はしなくてもいい。」
「か、片付いたって、先輩……」
「それより……噛まれたのか?」
混乱した様子のユキの言葉を遮って、俺は痛々しく腕を抑えるカエデの手首を取り聞く。
息を荒くするカエデは、唇を噛んでこくりと小さく頷いた。
「せ、先輩……カエデちゃんは、私を、庇って……」
罪悪感からなのか今にも泣きそうなユキの顔を見れば、その震えを誤魔化すかのようにユキはまたも目の前の子供を後ろから強く抱きしめた。
入り口にある頭を撃たれた警察官の死体、カエデの目の前にある拳銃、それらを合わせて、なんとなく事情を察した。
「アザミさんに貰った服、ダメにしちゃいました……」
「いい、そんなの、気にするな。」
服の破れた部分をくしゃりともう片方の手で握りしめ、その先にある腕の傷を見つめながら、カエデは口を開く。
「……アザミさん。私、感染者を殺すことが、できましたよ?褒めて、くれますか?」
その腕の痛みも、胸の中の痛みも、ゾンビに噛まれてしまったという絶望感も、その全部をまるきり無視して、無理矢理な笑顔をその顔にまとって、カエデはそう俺に問うてきた。
俺はホームセンターでカエデにいつかゾンビを殺せるようになれと言っていた。
しかしその初めてが、知った顔、普段世話になっている警察官だったカエデのことを考えると、酷く胸が痛む。
あげく、その腕を噛まれてしまったとあっては。
「ユキと子供を守ったのか……よく、頑張ったな。」
自然と、革手袋を外して俺はカエデの頭に手を置いていた。
瞬間、ぶわりと栓が抜けたかのようにカエデの目から涙が溢れる。
「わ、たし、噛まれてしまいました……」
カエデは膝を抱えて、足元にある拳銃を見た。
そこから自分の腕へついと視線を流すと、静かに言葉を続ける。
「私、知らなかったんです。お母さんも、こんなに、痛かったんだなって……お母さんも、きっと、こんな、気持ちだったんだろうなって。」
カエデはぼろぼろと涙を零して、それを拭うように膝にその顔を押し付けた。
パンデミック初日に噛まれたカエデの母親。
彼女はもしものために、家族を自分から守るために、一人更衣室に篭った。
自分が果たしてどうなるかわからない状況で、痛む腕を携えたまま孤独に過ごした時間は辛く苦しいものだっただろう。
或いはテレビの中継で、自分が変わってしまうことに確信めいたものを感じていたかもしれない。
今のカエデはそれと同じ、いや、むしろはっきりと自分が変わり果ててしまうのだと確信している。
残された僅かな時間、それを待つカエデの心中はいかほどのものか。
側にいたユキも子供も、言葉を発さなかった。
それは先にある絶望を想ってのことだろう。
ゾンビに噛まれたものは、ゾンビになる。
今のこの世界での、非情なるルール。
そのことを想えば、すでに噛まれたカエデに掛ける言葉など見つからないのも無理はない。
励ましの言葉も、助けられたという感謝の言葉でさえ、口から出すのははばかられるだろう。
「……アザミさん、ひとつ、お願いしても、いいですか?」
ふいに、俯いていた顔を上げて、赤く腫れた瞳をカエデは俺へと向ける。
何か決意を秘めたようなその瞳を受けて、俺はじっとそれを見つめ返した。
「本当は、二つ、お願いしたかったんですけど。もう、頭は、撫でて、貰ったので……」
目の端から少しだけ零れた涙を人差し指で軽く拭うと、カエデは少し照れ臭そうに笑う。
その悲哀を含んだ笑顔に、俺はもう一度カエデの頭に手を置いた。
「……なんだ、言ってみろ。」
またその瞳から涙が溢れるが、しかしカエデは噛まれていない方の腕でそれを拭うと、今度は涙を堪えているのか、口をへの字にしながら俺を見つめ返てきた。
はっきりと、その強い眼差しを向けながら、カエデは口を開く。
「私のこと……殺してくれますか?」
その言葉に、どくんと心臓が大きく脈を打つ。
「私は、感染者になりたくないです……でも、自分で命を絶つこともできない。本当にどうしようもなく、弱くて、ダメな子なんです……」
先程拳銃に向けられた視線、その意味を俺はその言葉でやっと理解した。
そしてその言葉は、或いは母親を殺した俺に殺されることで、そこに何か望みといえぬ望みのようなものを見出した結果なのかもしれなかった。
ホームセンターに居た頃、カエデは何度やってもゾンビを殺せなかった。
今のこの世界においては、まさしく適応していない、カエデの言うどうしようもなく弱くてダメな存在だったといってもいい。
しかし今はもう違う。
カエデは二人を守るために、ゾンビに立ち向かい殺した。
そして、自分の死を受け入れる覚悟があった。
「……そうか、分かった。」
俺がそれを承諾するとは思わなかったのだろう、カエデはその顔に一瞬驚いた表情を浮かべるが、しかしすぐににこりと笑った。
そこに不安のようなものはなく、何処か嬉しささえ感じさせるような表情を浮かべている。
俺はそんなカエデを前にして立ち上がると、手に魔力を込めた。




