オルコット伯爵領
オルコット伯爵領は王都から通常の馬車で3日ほどの距離がある。主な産業は農業で、気候が穏やかな上に水の問題も起こりにくい場所のため安定して豊かだ。領地の一部には低い山が含まれており、狭くもないが大きすぎない程度の森もある。森の恵みは豊かで、領民たちもそれなりの生活をしていた。
領主の館を中心に栄えた街はそこそこの賑わいを見せているが、王都とは違いのんびりだ。
レジーナは社交界にデビューするまでこの土地で育ってきたため、やはりこちらにいると気持ちが穏やかになる。
数日前に領地に入ったレジーナは大きく寝台で伸びをした。カーテンに遮られているが朝の光に今日も晴れだと自然と笑みがこぼれる。
「おはようございます」
レジーナの動いた音が聞こえたのか、扉がノックされ侍女のステラが入ってきた。ステラはレジーナとフィオナが幼い頃からいる古参の侍女だ。母親と同世代で、母のレイチェルが死んだ後もよく面倒を見てもらっている。
「おはよう。今日もいい天気ね」
レジーナが笑顔で告げれば、ステラも笑みを浮かべた。大きな窓に近づきカーテンを開ける。キラキラした眩しい日の光が部屋の中へと広がった。ステラによって少しだけ窓が開けられ、新しい空気が入り込む。
「やっぱり領地は気持ちがいいわ」
爽やかな朝な空気に気持ちがレジーナは嬉しくなる。色々と悩んでいたことが嘘のようだ。レジーナはこの領地が大好きで、やはりここから離れたくないなと思う。
気分よく寝台から降りると、ステラに促されてドレッサーの前に座る。ステラがレジーナの栗色の髪にブラシを当てた。ゆっくりと優しくブラシを動かし、絡まった髪を丁寧に梳かしていく。
「そろそろ仕事しようかしら」
「もう少しゆっくりしてください。顔色がまだ悪いです」
ステラはため息交じりにレジーナを窘めた。レジーナはまじまじと鏡の中の自分を見つめた。ステラが言うほど、顔色が悪いわけではないと思うのだ。
いつもよりも白い感じがするが、それは王都に行ってから日の光を浴びることが少なかっただけである。領地に入れば、外回りをするので日傘を差していてもどうしても焼けてしまうのだ。
「こんなものじゃない? 外で日に浴びていた方が健康的になるかも」
「あまり日に浴びると、そばかすが増えます。それに顔色の悪さは日焼けの問題でもありません」
ぴしゃりと言われて、レジーナは肩をすくめた。
「この領地でお嬢さまを綺麗なお嬢さまとみている人はおりませんよ。たまにはゆっくりと体を休めたって誰も文句は言いません」
「ステラ」
「それにその憂い顔でうろつかれたら、若い男どもが浮足立ちます」
憂い顔、と言われてレジーナは自分の顔を触ってみた。
「疲れている感じ?」
「違います。男を引き寄せる陰りです」
「……はい?」
「まるで恋している乙女のようです」
恋している、と言われて唖然とした。ゆるゆると後ろを振り返る。ステラは特に揶揄っているわけでもなく、いつもと変わらない表情だ。
「どうしてそんな風に思ったの?」
「ここ数日、暗い表情をしてため息をついているところを目撃されております。よほどのことがあったのだろうと皆が心配しています」
「それがどうして恋だと?」
ますますわからず問いを重ねる。ステラはため息をついた。
「恋している自覚はないのですね。だから余計に危うい美しさがあるのかもしれません」
「恋はしていないから」
ふとランドルフの顔が脳裏にちらついたが、慌てて消した。フィオナは好きになることはいいことだと言っていたけど、今の状況で好きだなんて言葉にしたらすぐにでも婚姻が結ばれてしまう。
心の整理もできないまま、婚姻に持ち込まれるのは避けたい。ランドルフ本人に問題がなくとも、まだダリアのこともある。レジーナには問題を抱えたまま、彼の手を取る勇気はなかった。
「お嬢さま、わたしにまで嘘をつかなくともよいのです。お嬢さまが恋するなんて、こんな喜ばしい日はありません」
「……そう」
喜ぶステラに水を差すことができず、曖昧に微笑んだ。
王都は王都で噂が回っていて付き合いが面倒であったが、領地は領地で別の意味で疲れそうだとため息をついた。
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領地での生活はゆったりと過ぎていく。あまりにも仕事を詰めすぎるとステラをはじめとした使用人たちが煩いので、散歩がてらに領地を見回る程度だ。領地といえどもそれなりの広さがある。決めておいた視察場所を優先的に回っていた。
ある程度は報告を受けていたのと、方針はすでに伝えてあったので困ったようなことはない。実際に現地を見る程度の最終確認なのだ。
幸いなことにそれぞれの町や村に置いている代表たちは気持ちのいい性格の者が多く、年若いレジーナにも協力的だ。レジーナが後継者になった経緯を知っているせいなのか、幼いころから成長を見ているせいなのか。保護者的なところも否めないが、比較的うまくやっている。
予定していた最後の視察を終えて、今後の希望や方針を代表たちに聞いた。代表たちも自分たちの暮らしに反映されるため、真剣にレジーナと話し合う。やはり書類ではわからないようなこともあり、こうして顔を合わせて話すことも大事だ。
「それでは次は改良された農業器具を持ってくるわね」
「よろしくお願いします」
レジーナは領地に来る前に研究者のアーベルから今後の予定をもらっていた。今回は間に合わなかったが、次は改良された器具を持ってくるつもりだ。レジーナ自身が使ってもよくわからないので、こうして代表たちにお願いした。
「それにしてもお嬢さまはよく研究者に約束を取り付けましたね」
年配の、レジーナの親と同じ世代の代表が面白そうに言う。レジーナが右も左もわからない時から親切にしてくれたおじさんだ。代表の中でも一番発言権があり、レジーナが領地について色々と彼から教わった。恰幅がよくいつも笑みを浮かべているので、嫌味に聞こえない。
「噂では話を聞いてくれると言っていたから。色々な人に紹介してもらってたどり着いたの」
一番初めに改良の話を聞いたのは、ある貴族夫人からだ。彼女もよく知っているわけではないが、夫の友人が話していたと言うのを教えてもらったのを機に調べた。貴族夫人や令嬢が農作業用の器具に興味があるわけではないので情報を集めるのが本当に大変だった。接点のない貴族には夜会で顔を繋いで、ようやくあの場を設けたのだ。
同時にランドルフの顔を思い出す。あれほどうまくいったのは彼がいたからというのは無視できない。ただそのことは言うことはできなかった。
「それにしてもお綺麗になりましたなぁ」
「本当に。そろそろいい人でもできましたか?」
話し合いも終わり、雑談に移行したようだ。代表たちが口々にレジーナに探りを入れる。レジーナは引きつった笑いを浮かべた。
「ひ、秘密です……」
辛うじてそれだけを言って、代表たちから逃げることにした。適当に断りを入れて、会議室を出る。
慌てて部屋を出たレジーナに使用人が小走りで寄ってきた。彼はやや息を乱してレジーナを呼び止める。
「お嬢さま」
「どうしたの?」
「お客様がいらしていますので、屋敷の方へお戻りを」
「お客?」
会議中に急ぎの連絡をもらったようだった。レジーナは客に心当たりがなかったが、礼を言って屋敷へ戻ることにする。
「約束はなかったわよね?」
いつも一緒に行動している侍女に確認すれば、彼女も不思議そうに頷いた。
「はい。予定ではありませんでしたが……」
隣接する貴族の挨拶かとも思ったが、その場合は先触れが来るはずだ。乗り込んでくるような付き合いのある貴族はいない。王都にいる知り合いも遠すぎて、約束もなく訪問しないはずだ。
「誰かしら?」
そんな暢気なことを言いながら、馬車に乗り屋敷へと戻った。
屋敷につくと身支度もそこそこに、客人の待つ応接室に急ぐ。応接室に入れば、レジーナは唖然とした。
「……どうしてここに?」
「会いたかったからに決まっている」
応接室でゆったりと足を組み、お茶を楽しんでいたのはランドルフだった。




