22 夜明けを待ちながら語らいました
彼は食べ残った動物の足先を鋏角と触肢で挟んで投げ捨てた。獲物を喰い腹が満たされれば腹の具合と同じ様に満足感にも満たされるのが常だと言うのに、苛立ちがつのる。その原因は間違いなく上がらなくなった前脚だろう。
いっそ動かないか、ちぎれて無くなってしまえば良いのだが、なまじまだそこにあり、意志によって動かせるものだから、無意識に動かそうとしてしまうのだ。その度に痛みを伴い、彼を苛立たせた。
前脚の片方が動かなくなる直前、あの人間たちと戦ったことを思い出す。人間と会ったのは初めてだったが、負ける気はしなかった。大きめの人間ですら、彼の半分も無いのだ。集団で襲われると言う経験も初めてだったが、そんな小さな人間たちが束になってまとわり付いてきても、物の数ではない。
逃げられた時には、腹の減っていない時の狩りに失敗した、と言う程度の認識だった。しかしその直後に、前脚の片方が不具となっていることに気が付き、傷を負わされていた事を認識した。毛の白い小さな人間が何かを投げつけてきたのを覚えている。あのチビが何かをしたのだろう。
あのチビにも逃げられている。森の奥の方へ逃げたようだったが、まだ森のなかに居るだろうか? 居るならば探し出してやる。居なければ? 追い立ててやるのだ。あのチビには脚に負わされた怪我の責任を取らせなければならない。脚を怪我しているからと言って彼を下に見るものなどこの森には居ないだろう。だが、あのチビを放置することは彼の怒りが許さなかった。
――ダギ、ドゴシュシェダシュ……
彼は獲物を探すために、また歩き出す。次は絶対に逃しはしないし、喰いそこねたりなどしない。
――――
木々の葉を打つ雨音が少し強くなり、ユーマは背中が少し寒く感じ、目を覚ます。薄く開けた目線の先で、ミュリーナが火に薪を焚べていた。背中が寒かったのは、意識を失う時までは傍に居たミュリーナが離れたからだろうかと考える。
辺りはまだ暗く夜の雨が気温を更に下げている。ミュリーナが火を強くしているのはそのためだろう。目が覚めた時にもミュリーナが傍に居てくれたら良かったのにと寝ぼけた意識で甘えたことを考えるが、もちろん口には出さず考えるだけにとどめておく。
「ミュリーナ、おはようございます」
「あ、ユーマちゃん起きた?」
手に持っていた薪を適当に焚き火に放り込み、ミュリーナはユーマの隣に戻ってくる。離れていて戻ってきたと言ってもその距離はほんの一歩ほどだ。目を覚ました時に密着していなかったなどと文句を口にしよう物なら我儘を通り越してただの難癖だろう。
「薪、足りましたか?」
「うん、私が寝てる間にユーマちゃんが集めてくれたので朝まで十分だったね」
もちろん足りるつもりで集めていたが、追加で薪を探すとなると大変だろう。普通であれば暗い中で探すというだけでも大変だが、今は雨で落ちている物などは全部湿ってしまっているだろう。
「ミュリーナ、さっきは、ごめんなさい」
少し寝て落ちつき意識がはっきりしてきたユーマは、寝る前の自分の対応を思い出して後悔する。ミュリーナにしてみれば自分のことを聞かれたから、今度はユーマの事を聞いたといった程度の自然な流れだっただろう。なのに、自分から振った話題を、自分に振られなおした途端に拒絶してしまった。
こういうところは昔から変わっていない。そう思うとユーマ自身は自分のコミュニケーション能力を疑わざるを得ない。
「んー? なにが?」
ミュリーナはそんな目覚めの悪いユーマを抱き寄せ、自分の膝の上にユーマの上半身を転がして遊ぶ。ユーマが何のことを言っているのかわからないと言った体だが、その様に振る舞っているだけだろう。
ユーマを抱いて遊ぶミュリーナの行為は、犬か猫か、愛玩動物のような扱いにも感じるがユーマは大人しくされるがままにさせる。なかったことにしてくれていたとしても、負い目は消えないのだ。ユーマ自身で遊ぶことでミュリーナの慰みになるなら、そのくらいは甘んじて受けておくべきだろう。
「日が出たら、私たちは歩きますか?」
「うーん。朝になっても雨止みそうにないし、みんなが迎えに来るまでそのまま待つのが正解かなぁ」
ユーマは目線を森の木々により狭くなっている空に向ける。雨の量がとりわけ多いわけではないが、強くなったり弱くなったりを繰り返しつつ、いつまでも続いている。流石にユーマの視力でも雨雲の様子までははっきりとはわからないが、昨日と同じならば日の出の方向すら判然としない厚い雲が雨を降らせているはずだ。
時間を計るものがないので日の出までの時間もはっきりとはわからないが、エドガスたちを待つばかりとなると、まだまだ暫くは何もすることがない。気掛かりがあるとすれば変異体に見つからないかということだろう。
蜘蛛は光を好みも嫌いもしないので火そのものに引き寄せられたりはしないが、頭がいいので焚き火の近くに獲物が居ると思えば寄ってくることもある。変異体もその様に考える可能性もあるだろう。石や木を組んで竈を作り不必要に火の灯りが漏れないようにはしているが、それでもこの暗い森の中では焚き火の光は目立つに違いない。
とはいえ、焚き火を消してしまうのも難しいのだ。雨の降る夜の森はそれなりに寒く、死にはしないかもしれないが体調を崩しかねない。木陰にいるおかげで雨からはある程度守られているが、それでも時々雨垂れを起こしてぽつぽつと雨が落ちてくる。そうして濡れる服も、濡れるよりも乾くほうが早いのは焚き火のおかげだった。
「変異体が見つけたら、逃げないといけないです」
ユーマはミュリーナのちょっかいに、ちょっかいを返すように形ばかりの抵抗をしつつ変異体に見つかった場合の打ち合わせをする。幸いにして今いる辺りは木々の間隔が狭く、変異体は身を縮めてやっと歩けるような場所だ。逃げるなら人間側のほうが有利だろう。
だがしつこく追われた場合は厄介だ。広い方へ逃げれば変異体に追いやすくしてしまうが、木々の間隔が狭い方へ逃げ続ければ結局は森から出られず、森の奥へ、奥へと進んでしまうだろう。
「上手く逃げようとしたら、魔術で足止めとかかなぁ」
「でも昨日の足止めは、逃げられました」
「うん。一時的にならともかく、完全に動けなくするっていうのは無理っぽい」
とは言え、足止め自体は有効な手段だ。一時的にでも足止めできるのであれば逃げる隙は十分に作れる。
「ところでユーマちゃんはネコなのかな?」
「え?いえ。吸血鬼ですよ?」
「ううん。そういう意味じゃなくて」
たしかに先程からちょっかいを掛けてくるミュリーナの手をユーマが手で、てしてしと払い除けてはいるが、その様子をジャレている猫に例えられなくもない。と、そこまで考えた所でミュリーナの様子がおかしいことにユーマは気がつく。おかしいというか、自制が効かなくなっている時の顔だ。
「ミュリーナ、ええと、もう少しだけ我慢しましょう?」
ミュリーナは子供が駄々をこねるようにいやいやと首を振る。ミュリーナにとってはユーマが寝る前にした、すぎた話を持ち出してきたのでユーマが気にしないようにと別のことで気を紛らわせようと特に考えなしにユーマを抱き寄せちょっかいを出しただけだった。やることがないから碌でもない事を考えるのだ。ならば何かやることを作ってやれば良い。
そのはずだったのだが膝の上に転がって、成すがままにちょっかいを掛けられたり、あるいは明らかに形だけの抵抗で、ミュリーナのいたずらに嫌がる素振りを見せないユーマが愛おしくてたまらなくなってしまったのだ。ユーマが話したがらなかったことを汲んで無かったことにすることも出来るミュリーナは、己の欲には抑えが効かなくなる。
さっきまでユーマがミュリーナに甘えていた様な感じだったのだが、いつの間にかミュリーナがユーマに甘えようとしている構図に案外、相互依存的な関係が出来つつあるのかもしれないとユーマは考える。ともあれここでミュリーナの欲望を暴走させてやるわけにもいかない。それを見ているものはいないであろうが、無警戒の所で変異体に見つかってはたまらない。
「ミュリーナ、無事に帰りましょう。それまで我慢をください」
涙目になって悔しそうにしているミュリーナを見て、ユーマはいつだったかのヒルダの言葉を思い出す。そして最初からミュリーナは、ずっと我慢しているのかもしれないと思い直す。我慢した上で溢れ出したのが今の状態なのだとしたら、その上で我慢しろというのは酷かもしれない。
「ミュリーナ、起こしてください」
ユーマは少し甘え過ぎかとも思う仕草で、ミュリーナに両腕を差し出す。ユーマの甘えた仕草にミュリーナは即座に反応してユーマを抱き起こす。腕を差し出しているがそれは起こしてほしいという意思表示であって実際に腕を引っ張るわけではない。ユーマの上半身の下に腕を回してミュリーナはユーマを抱き起こす。そうして起き上がると必然的にユーマとミュリーナの顔が近くなる。
「ミュリーナ、今はこれだけです」
顔が最も近くなる時に、軽くミュリーナの口にキスをする。
「ミュリーナは我慢しています。ごめんなさい。でも、今はこれで、我慢をください。」
軽いキスだけでミュリーナに我慢してもらうのは、それでもやはり酷だろう。でもそれで少しでもミュリーナの気が紛れれば良いとユーマは思った。しかし、せっかく抱き起こされたユーマは次の瞬間には再びミュリーナに押し倒されていた。一度許した口はミュリーナの口によって塞がれ、息が続かなくなると息継ぎのためだけに口を離し、それは何度も何度も続けられ貪られていた。
――――
「……ミュリーナは、酷いです」
「えぇ! キスして良いってユーマちゃん言ったじゃん!」
ユーマはもちろんそんな事は言っていない。一度キスをして、今は“これ”で我慢してほしいと願ったのだ。ただ、ミュリーナは“これ”をキスで我慢してくれと捉えてしまったのだ。だからミュリーナは思いの丈を思い切りぶつけ、満足するまでユーマとのキスを堪能してしまった。
口をふさがれているおかげで、ユーマはミュリーナを止めることも叶わず、蹂躙されてしまっていた。ミュリーナでなければ突き飛ばしてでも止めていただろう。最後には抵抗する気力もなく、ミュリーナが自然と止めるまでキスを許してしまった。
開放されたユーマは、いつまでも寝転がっていてはまた襲われそうな気がして早めに起き上がり、口元に手を当てる。ミュリーナがあまりに激しくしたからだろう、唇でも切ったのか口の中に血の味がした。唇を舐めて確かめるがそれほど強い味はしない。あまりに薄くて、物足りない味だった。
そこまで考えて、ユーマは一度その思考を止める。物足りない味とはなんだろうと首を傾げ、答えを求めたのか対面に座っているミュリーナに視線を移すと、ミュリーナの口元に血が滲んでいるのが見えた。唇を切ったのはユーマではなくミュリーナだったのだ。
「ミュリーナ、血が出てます」
「あ、うん。ごめん。ちょっと切っちゃったみたい」
ミュリーナは指で唇を拭ってみると、もう唇からの出血は殆ど無かった。拭った指の方が血が多くついているくらいだ。血を拭った指が丁度ユーマの目の前にあったので、ユーマは何となくそのミュリーナの手をとって、血のついた指を口に運び咥えていた。口の中に残っていた血の味よりも、より濃い血の味が舌に乗り、血の味が広がった唾液を舌の上を通すように飲み込む。
何の変哲もない、血の味だ。わずかに感じる塩味と強い鉄の味。生臭いはずの血が、濃い果汁を飲んだときのような濃厚な爽やかさを感じ、胃に落ちたはずの血を含んだ唾液はそのまま身体を突き抜けるような感覚と味わいを感じさせる。これがミュリーナの味なのだと深く身体に染みていく。
実に旨いが、しかしまだ足りない。なにより、命から離れた血では満たされることはない。
「ゆ、ユーマちゃん?」
「ふぁっ! ご、ごめんなさい!」
名前を呼ばれて正気を取り戻し、慌ててユーマは咥えていたミュリーナの指を口から離した。そして自分がしていたことに気が付き動揺する。初めて他人の血を舐め、文字通り正気を無くしていたとしか思えなかった。
「わ、わた、私、いま、変なことを……」
「ユーマちゃん落ち着いて」
「私、いま、吸血鬼みたいなことを……」
「大丈夫だから、ユーマちゃんは吸血鬼でしょ?」
そうミュリーナに言い聞かせられて、今のユーマは吸血鬼だったのだと思い出す。日光に焼かれるが、肌を曝さないでいることで日中でも生活ができ、怪我をしても異常なほど早く治る。吸血鬼といえばそのとおりだが逆にそれ以外にはそれらしいところもなく、ユーマも実のところは今までは実感していなかったのかもしれない。
「……はい、そうでした。」
普段は血を舐めたいと思ったりしたことはない。だが、さっきは自然と血を求めていた。さっきの行動や、考え方が吸血衝動というものだったのだろうかとユーマは思い返す。血を舐めたことで正気を失ったのか、あるいは本能に目覚めたのならば、気をつければ済むことだ。
他者の血を舐めるような事態はそうそう起きるものではない。ただそれが、はじめての事だったのでユーマは動揺してしまったにすぎない。吸血鬼が吸血鬼らしい行動を取るのは正常なことだ。そう考えることでユーマは何とか感情の起伏を抑えた。ミュリーナの手を握る自分の手はまだ少し震えていたが、それでいくらか冷静になることができた。
「ミュリーナ。やっぱり、吸血鬼は怖いですね」
そう言ったユーマをミュリーナは抱き抱える。
「私は大丈夫だからね。ユーマちゃん」
ミュリーナがそう言ってくれるだけで、ミュリーナの腕の中でユーマの震えが止まる。不安は拭えずとも冷静さは取り戻していたユーマだったが、残っていたその不安もミュリーナが忘れさせてくれた。
「……ミュリーナはすごいですね」
「そりゃあそうよ。自分の――くらい安心させてやらなくちゃね」
なんとなく今ミュリーナが、ユーマにとって重要なことを言った気がしたが、ミュリーナの体温を感じるほうがそれより優先してしまい、言葉の意味を確認するのを怠ってしまう。また後で聞けば良いと考え、ミュリーナの胸に沈み込んだ。ミュリーナほど苛烈ではないにしても、我慢しているのはユーマも同じなのだ。
「あ、まわりがちょっと見えるようになってきてる。日が明けたんだね」
ミュリーナの言う通り、ユーマにとっては焚き火のまわり以外はモノクロームだった世界が色づき始めている。空に目を向けてみても重く暗い灰色であることは変わりがない。思った通り、日が明けても太陽が出る方向はよく分からなかった。
「そろそろエドたちも出発する頃じゃないかな」
「じゃあ、また煙を、ええと狼煙をあげます」
誤字報告を頂いております。報告ありがとうございます。助かっています。
ユーマの台詞である82行目:「ミュリーナ、無事に帰りましょう。それまで我慢をください」
につきましては誤字ではなく表現となりますので修正はいたしません。




