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20 はやく逃げましょう!

 頭上を飛び越えられ、粉砕された氷の破片を盾で防いだエドガスは、背後に響いた地響きに振り返ると、弾き飛ばされたミュリーナが見えた。そして、ミュリーナにゆっくりと近寄る変異体に、鉈を振り上げて走り込むユーマを見て驚く。今まで蜘蛛に対して近寄ることも出来なかった、そして聞き分けがよく言われた通り常に後方で控えていた女の子が、鉈を振り上げて変異体へ走り込んだのだ。


 ユーマは両手で振り上げた鉈を走ってきた勢いのまま振り下ろす。だがエドガスやケアリオの剣や槍ですら外骨格を削る程度なのだ。当然、ユーマの鉈も外骨格に弾かれてしまう。しかし、弾かれた鉈を振り上げ再び振り下ろす。


「よせ! ユーマ!」


 ユーマが再び鉈を振り下ろした頃、立ち直ったエドガスが慌てて叫ぶ。ユーマの攻撃は変異体へ傷を負わせてはいない。変異体は叫んだエドガスの方へ一度身体を向けるが、しかし何度も前脚を鉈で叩きつけるユーマに意識を向け、叩きつけられている前脚でユーマを払いのける。変異体にとって、ごく軽く。


「かふっ!」


 ユーマは変異体の前脚に腹から肩口を強かに打ち付けられ、ミュリーナと同じ様に地面を転がる。腹と肺の前面にあたる胸部を同時に殴られ、一瞬息ができなくなるが、それでも鉈を手放していない。だが、地面に転がったまま咳き込み悶てしまう。もとより動かない物よりも動く獲物に興味をしめす蜘蛛と同じく、変異体の興味がユーマに移ってしまっていた。


 変異体はユーマに向き直り、前脚をつかって器用にユーマを引き寄せると、顎の近くに備えた歩脚を小さくしたような二本の触肢でユーマを持ち上げる。蜘蛛にとって前脚が腕なら触肢は指のようなものだ。歩脚よりは小さいとは言え、歩脚がユーマの脚よりも太いのなら、触肢はユーマの腕ほどもある。指の代わりとは言えユーマを持ち上げるには十分だ。


 蜘蛛はさらに上顎に鋏角という触腕を持っている。歩脚や触肢とは形も違い毛が生え、触腕でありながら顎そのものでもあり、鋭い爪に毒を持つ。顎の前まで持ち上げられ、その顎や鋏角が動くのを目の前で見せられると、流石に忘れていた恐怖が再びユーマの背中を這い上がってくる。


――ラギラシュ……ボラレ……


 眼の前で鋏角が震えると、あの鳴き声が目の前から聞こえる。顎や喉からではない。口の外にある鋏角こそが、変異体の発声器官なのだった。



「「ぅおおおおおおおっ!」」


 ユーマに鋏角が迫ろうかという時、変異体の同じ横方向から二人の男の声が重なり、二人同時で全力の体当たりにより変異体の身体を揺さぶった。変異体が揺れ、引っ掛けるようにユーマを持ち上げていた触肢から、ユーマの身体が外れてユーマは地面に落ちる。狙いを誤った鋏角の爪はユーマのジャケットを僅かに引き裂く程度にとどまった。


「立てユーマぁ!」

「そのまま下がれ!」


 言われるまでもなかった。落としたユーマに再び前脚を伸ばそうとする変異体に、ユーマは思わずまだ手に持っていた鉈を変異体に叩きつけるように投げ付け、弾けるように走って変異体から離れる。目指す先はミュリーナのもとだ。ミュリーナはユーマの前に弾き飛ばされて倒れたまま動かないでいた。ユーマが離れると直ぐに変異体はまた新たにまとわり付いてくるエドガス、ケアリオへと向き直った。


「ミュリーナ!」


 ユーマはミュリーナの元にたどり着くと、ミュリーナの背中から両脇に自分の腕を差し入れミュリーナの片腕を両手でもって後退するように引きずる。ミュリーナは小柄だが、そのミュリーナよりも背の低いユーマにとってミュリーナは決して軽くはない。意識の混濁したミュリーナを運ぶのは重労働だ。


 ミュリーナの体重が錘とならなければ後ろに倒れてしまうほどユーマは体重を後ろにかけ、脚を突っ張るようにしてミュリーナをなんとか手近な茂みの方へと引きずり込む。


「ミュリーナ! 大丈夫ですか!」

「ん、う……きもちわるい……」


 ミュリーナはユーマに運ばれている途中で気が付いたようだった。茂みに囲まれた場所でユーマに助け起こされて上体を起こす。もしかすると本来ならまだ安静にしているべきなのかもしれないが、今はそれを状況が許してはくれない。


「ユーマ! ミュリーナは大丈夫か!?」


 エドガスの声と、続いて変異体の鳴き声が聞こえてくる。エドガスが叫んだ問いには、ユーマではなくミュリーナ自身が答えた。


「……何とか!魔術は無理だけどなんとか動けるよ!」

「よし! 一旦退くぞ! ヒルダ、足を止めろ!」

「わかった!」


 実際のところヒルダの魔術が一瞬遅れれば、ミュリーナは少なくとも大怪我をおっていただろう。その後ユーマが変異体の注意を反らした事でもミュリーナは命拾いしている。そしてエドガスとケアリオが偶然に同時の体当たりを成功させていなければ、今度は注意を引いたユーマがどうなっていたかわからない。


 事前に変異体の戦力を知っていればもう少し別の立ち回りもあっただろうが、現在の状況は厳しい。しかし今撤退するならば被害らしい被害は殆ど無いだろう。ミュリーナが戦力としては外れてしまったが、それは一時的なものだ。逆にこれ以上続ければ被害は間違いなく大きくなる。


土塊よ! 捕らえよ(・・  ・・・・)!」


 エドガスとケアリオが交互に変異体の気を引き、時間を稼ぐ中、ヒルダの魔術が完成する。地面が動き、土が何本もの腕となって変異体に掴みかかる。土の腕が変異体の歩脚を掴み、何本かの土の腕は狙いを外して空を切るが、空に伸びた腕を倒して変異体を抱き込もうとする。腕たちはそのまま変異体を地面へと引きずり込もうとするが、巨大な変異体の脚を飲み込むのがやっとだ。


「よし! 逃げるぞ、全力で走れ!」


 ユーマとミュリーナは逃げ込んだ茂みからさらに森の中へと、エドガスとケアリオ、ヒルダは広場から手近な森の中へと駆け込む。戦闘のどさくさに紛れて変異体を挟み込むような形になってしまったユーマたちとエドガスたち其々が、別方向に逃げ出す形となってしまった。


 だが、今は変異体から離れることが重要だ。特に、まだ意識を取り戻したばかりでふらつくミュリーナは、全力と言ってもそこまで速度は出せず、木にぶつからないように、地面の凹凸に足を取られないように走るのがやっとだった。



 ヒルダが離れ動かなくなった泥の腕を壊しながら、変異体が自由を取り戻した頃には変異体と、冒険者たちとの戦いの跡だけが残っていた。泥の腕は土塊へと戻り、氷の柱は根本の部分がまだ残っているが、粉砕された上部は既に無く、残った部分もすぐに溶けてしまうだろう。


 変異体があたりを見回しても、近くに動くものはない。何かを考えているのか、しばらく動かないでいた変異体は、また獲物を探すために広場を離れようとする。その時、変異体は前脚の片方が持ち上がらないことに気がついた。無理に動かそうとしても痛みがあり、それでもなお動かそうとしても何かに引っかかるように止まってしまう。


 生まれて始めて、身体の一部が満足に動かないという事態に、変異体の感情を移す目が色を変える。しかし前脚が一本が上がらないくらいでは餌を捕まえるのに支障はない。大きく持ち上げられないだけで歩く程度には十分に使えるし、変異体の健常な脚はまだ七本もあるのだ。それよりも、獲物を探さなければならない。邪魔なモノは排除し、喰らわなければならないのだ。身体が大きくなる毎に次第に腹持ちが悪くなってきている。



 基本が蜘蛛である変異体からは歩脚の付け根は見えない位置だったが、変異体の前脚が動かない原因はその前脚の付け根にあった。歩脚と頭胸部との隙間にある柔らかい部分に鉈が引っ掛かり、それを無理に動かしたせいで前脚へと食い込んでいた。その鉈が脚につかえて前脚が上に上がらなくなっていたのだ。



 ――――



「ごめん、ユーマちゃん。ちょっとストップ……吐きそう」

「大丈夫ですか?ミュリーナ」


 ふらふらと走るミュリーナの代りに、辺りを伺いながらミュリーナの手を引いて走っているユーマに声をかけて立ち止まる。幸い辺りに獣も大蜘蛛の姿も見えない。変異体はエドガスたちが足止めしてくれていたし、距離も十分にとっただろう。ひとまずの危険は無いように見えた。


「少し、休めば、大丈夫だと思う」

「はい。座りましょう。私も少し疲れました」


 座り込むミュリーナの隣に寄り添うようにユーマが座ると、ミュリーナが頭をユーマの方に預けてくる。冒険者としても格下であるユーマにはミュリーナのために出来ることは少ない。だから小さなことであってもミュリーナに頼られることが嬉しかった。


 一緒になって座り込み、息を整える。ユーマにとって身体の方は大したことはない。前脚で殴られた部分はもう痛みもないし、鋏角の爪も服を少し裂いただけで怪我はない。だが疲れているのは精神の方だろう。ミュリーナが襲われて思わず飛び出してしまったが、今をして思えば無謀もいいところだった。そしてあれほど巨大な蜘蛛が、一度は自分を捕まえていたのだと思うと身体が震える。


 逃げることだけを考えて走っている間はまだ良かったが、こうして休憩のために身体を止めると、目の前で動く変異体の顎と、目の前で聞いた変異体の鳴き声を思い出さずにはいられなかった。。


「ユーマちゃんも大丈夫?ちょっと震えてる」

「……大丈夫です。少し休みましょう」


 強がっているのは伝わってしまうだろうけれども、大丈夫だと強がるしか無い。少なくとも泣いてもう無理だと叫びだすほど打ちのめされてはいないし、ミュリーナの前でそんな醜態を晒したくはない。既に泣いているところも、格好悪いところも見られているかもしれないが、もう出来る限りは見せたくないのだ。


「ミュリーナの調子はどうですか? さっき、魔法が使えないと言いました」

「うん、ちょっと目が回っちゃって集中できない。休んで、落ち着けば大丈夫だけど、もうちょっとかかりそう」


 魔術には強い集中力が必要になる。ちょっとした怪我であれば自分を癒やすために魔術を使うことも出来るが、変異体に弾かれた時に頭を打ったのか、ミュリーナの視界が揺れ動き平衡感覚が上手く機能していない。無理に使っても失敗するか魔力が暴走しそうで、とても魔術を使える状態ではなかった。


「少し休んだら、エドたちと合流して、そろそろ時間的に村に戻る感じかな?」

「逃げるのに夢中になって、エドガスたちと別れてしまいました」


 目を閉じていないとミュリーナは視界と平衡感覚の乖離で余計に気分が悪くなりそうだった。ユーマが一緒に居てくれているのが嬉しい。それだけでも心の支えとなるし、それだけでなく変異体から逃げるのを手伝ってくれていた。


 変異体の攻撃の後の記憶がないが、気が付いた時にはユーマに運ばれていたし、エドガスが撤退を決めた後も、余裕のないミュリーナに代わりに警戒もしてくれていたようだ。目を閉じてユーマの肩に頭をあずけたミュリーナは考えをまとめようとする。


 逃げることを優先したためエドガスたちと逆方向に逃げてしまったが、それは仕方がない。ミュリーナ自身も逃げる方向など気にする余裕はなかった。しかし連絡が取れそうにない。連絡を取るには魔術が使える程度には回復する必要がある。


 回復するのを待つよりも、先に村に向かったほうがいいかもしれない。途中で連絡が取れればそれでもいいし、連絡がそのまま取れなくても村にたどり着けば合流できるだろう。



「ユーマちゃん……」

「はい」


 そこまで考えて、ユーマに村に戻ろうと言おうとして違和感に気がつく。ユーマに頭をあずけはしていたが、ユーマの声が上の方から聞こえてくる。閉じていた目がやけに重い。いや、そもそも自分は今どんな姿勢をしていただろうか?


「ユーマちゃん!?」

「わわっ! は、はい!」


 思わず大声を出して目をあけ、ユーマの声が聞こえた上の方を見れば、ユーマがすぐ近く上から覗き込んでいる。ユーマの懐で大声を出した所為でユーマを驚かせてしまった。


「ミュリーナ、起きましたか?」

「うっそ! 私寝てた!?」


 どうやらミュリーナはいつの間にか意識を失い、つい今までユーマの膝を枕にして眠り込んでいたらしい。回りはすっかり暗くなり、ユーマが火を焚いたらしく、すぐ近くで焚き火が燃えている。


「はい。座ってすぐに寝ました」

「起こしてくれてよかったのに……」

「ミュリーナには、休息が必要でした」


 確かに休んで回復する必要があったが、まさか暗くなるまで寝る必要はなかったのだ。暗くなってしまったら、もう森の中を歩くべきではなく、村に戻るのは諦めるしかない。


「それに、ミュリーナを起こしても、村には戻れないです」

「うん? 何かあったの?」

「私たちは森で迷いました。村がどこにあるのかわからないです」

「……え、えぇ……」


 森が村の南に広がっているのだから、村は北の方にあるはずだ。しかし、方位を確認するための磁石を持っているのは後援を担当としているヒルダと、予備として持っていたリーダーのエドガスだ。磁石を持っていないユーマとミュリーナは方位の確認ができない。ここしばらく天気も悪かったため、太陽や星の位置での方位の確認もできなかった。


 森で迷って夜になってしまったというのに、ミュリーナから見てユーマはずいぶんと落ち着いて見えたが、実のところミュリーナが寝ている間に迷ったことに気が付いて、十分に慌てた後に諦めの境地に達しただけである。


「マーリドに黙って外で寝泊まりするので、きっと怒られます。ミュリーナも一緒に怒られてください」


 人間、諦めた後は肝が据わるものであるらしい。迷ったことに冗談を言える程度にユーマは落ち着いていた。もちろんユーマが一人ではなかったことも落ち着ける要因になっていた。


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