第三十二話 ラケッティア、夫婦善哉。
エレベーターよ。
汝、帰天の女神たちよ。
崇高なる空を征く部屋たちよ。
創造物の霊長たる人類が、創造主の寵愛を受けてつくりし、文明の粋よ。
アルキメデスが縄と滑車で床を動かさんとして以来、人類は汝を賜わんと天に願い、エリチャ・オーチスが蒸気の力を借りて、それを成し遂げて以来、足の萎えた老婆にさえ、バベルの塔を越える建造物の展望を与えたもうた。
エレベーターよ。
汝らは人類が神の恩寵を受けし証である。
もし、神が人を憎まんと欲すれば、何故エレベーターが創られたのか?
ああ、エレベーターよ。エレベーターよ……。
――†――†――†――
「ひー、ひー」
六十八階だよ。六十八階。
なんで〈掟の星〉を救済するのに六十八階の高さが必要なんだよ?
「さあ、ここだ。ここに掟の守護神がいる」
「ひー、ひー」
ここに来るまでいろいろなことが分かったらしい。
たとえば、外で見かけたゲロゲロなミュータントは〈掟の星〉の支配者たちが滅亡世界に順応する新人類になろうとしたなれの果てで、救済とはおそらく支配者とその三族にとっての救済であること、そして、それを可能とする科学力を掟の守護神から得ようとしたこと。なぜならば、この星の最初の移住者でもある掟の守護神とは非常に優れた科学者であったのだ。
「オーナー、本当に見ていないのか? あの培養水槽のなかで生きていた哀れな人間のなれの果てを」
「ひー、ひー」
「ふん。自分たちだけ助かろうという浅ましい知恵だ」
「ひー、ひー」
「ひー、ひー、ふー。はっぴ~バ~スデ~だや。ベイビーのブラッダ」
「ひー、ひー」
「さあ、廃墟ウォークの最大イベント。〈掟の星〉救済センター、総合管理エリアだ。用意はいいかね? んー?」
「ひー、ひー」
なんで、こいつらは六十八階も階段昇って平然としてられるんだ?
なんかズルしてたか? いや、おれと同じで普通に階段を昇っていた。
ということは分かった。
こいつらは人間じゃないんだ! ミュータントなんだ! 日野日出志のホラー漫画に出てくるみたいに!
「オーナー、いちおう言っておくと、おれたちも多少は疲れている。ただ、表に出していないだけだ」
「ひー、ひー。ぜえぜえ。ひー、ひー。ぜえぜえ」
「ああ、そうだな。そうかもしれない」
「……ヨハネ。なんて言っているのか分かるのか?」
「だいたい分かるが、口語訳は難しい。オーナーの話にはマフィアのたとえ話が重層構造で組み合わさっているから」
体じゅう乳酸地獄で明日来るはずの筋肉痛が三時間と経過しないうちにやってきて、乳酸どもが『おい。この運動不足野郎。どこからいたぶってやろうか?』『左足からやってみようぜ』『利き腕は最後に残しておけよ。ケツ掻くために必要だからな』と審議を開始している。
神さま。もし、いるのなら、そして、異世界人であるおれに授けてくれるなら、大賢者の魔力も伝説の剣豪の剣スキルもいりません。ハーレムもいりません。エレベーターをください。できれば、シンドラーじゃなくてオーチス・エレベーター・カンパニーのやつ、ゴッドファーザー・パート1の最後の洗礼式のシーンでクレメンザがショットガンをぶっ放したときの手で鎧戸を開けるやつがいいです。
「諸君。ぐずぐずしているヒマはないぞ。百万年の歴史が諸君らを見守っているのだ」
そして、六十八階分の下り階段が待っているのだ。
最上階の部屋は天井が全部吹き飛んで、雪が狂ったように飛び回っている。
そして、その奥にいた。掟の守護神。
白衣姿で肩には鬼火みたいな女房がくっついて、人を殺せとささやいている。
「ひとつ、ぜえぜえ、ひとつ言わせて。……ぜえぜえ、ひーひー……。やいこら、掟の守護神! お前が百万年前、どんだけかわいそうな目にあったか知らんが、いまのおれのほうが百万倍かわいそうだぞ! テメー、六十八階も登らせやがって。六十八階やぞ!? スカイツリーよりも高いじゃねえか! いや、スカイツリーは言い過ぎか。とにかく、体育の通信表万年1のやつに六十八階も階段昇らせるような真似して、テメー恥ずかしくねえのかよ! ……アッ、ヤバい!」
掟の守護神がこちらを睨みつけると、そこいらじゅうに転がっている瓦礫や実験器具の残骸が浮かび始めて、これ全部てめえにぶつけてやるよ状態になってきた。
「い、いやあ、そうは言っても、やっぱ、うん、かわいそうなのはそっちのほうだわ。うん、好きで一緒になった恋女房だもんね。つらいよねー。だから、その物騒な念力しまって――」
肩の女房が激しく燃え上がり、浮かび上がった瓦礫全部がすっ飛んでくる。
マジか。こんなところで人生終わるのかと思い、これまでの人生の出来事が走馬灯のように蘇ったのだが、砲丸投げで全国大会に出場したり、だるまに目玉を描く作業を延々とやり続けたり、ヨーロッパの山奥のお城でゆで卵を超お上品に食べたりと、明らかにおれの人生にない出来事が脳裏によぎりまくったので、走馬灯にまで見限られるとはおれもいよいよ年貢の納めどきらしいと本格的に死を覚悟した。
だが、瓦礫は飛んでくることなく、宙で凍りつき、掟の守護神は目に見えて動揺をしていた。
廃墟ウォーカーがスタスタと掟の守護神のほうへ歩いていく。
「まったくアルバート。きみときたら、どこの馬の骨とも分からない怨霊を自分の妻と間違えるとは」
掟の守護神は目に見えて、動揺していた。
「この浮気者。ほら、とっとと失せろ。泥棒猫」
廃墟ウォーカーは掟の守護神の肩にのっかった鬼火を手でつかむと、それをしっかり握った腕をぐるぐる振り回し、十分な勢いがついたと思ったところで、雪の落ちる空目がけて、投げ飛ばした。
気づけば、廃墟ウォーカーの体は淡い光を放つ半透明になっていた。
「グヴェンドリン。本当にきみなのか?」
「そうだよ。きみのたったひとりの女房殿さ」
「僕はもうきみには会えないと思っていた。だけど――」
「いいさ。あの変な鬼火をわたしだと思ったことは不問に処す。それより、ほら、彼らに何か言うことがあるんじゃないか?」
掟の守護神は丁寧にこれまでの敵対行動を詫びると、早速防空システムを切ってくれた。
つまり、それはシップがここまで飛んできてくれる。六十八階降りなくて済むということだ。やっほう。
「でも、分からないな。なんで、廃墟ウォーカーは自分でここに行かなかったんだ」
「この部屋に入るためにはニクマル・グループのCEOのパスが必要だったのだ。だが、それは生身の人間じゃないと付与されない」
「ああ、あの、テレビ局の、ビビビってやつ」
「そういうことだ。黙っていて済まなかった」
「いいって。六十八階降りずに済むなら、何でも許しちゃうよ」
廃墟ウォーカーことグヴェンドリンはアルバートに囮の宇宙船を飛ばすように言った。
それで帝国軍のあの巨大爆撃機を引きつけ、次の星に行く手助けをしてくれることになった。
「フレイアで失敗するのはこの星だけで十分だ。帝国のしようとしていることは間違いなく、ろくな結果を生み出さない。刻印にはわたしたちの力を封じ込めた。何かあったら、使ってくれ」
「まあ、こっちは助けたい仲間がいるから助けに行くってだけだ。その途上で帝国をへこませるってだけ。でも、ありがとう。夫婦ともども末永く幸せにな」




