第二十九話 忍者、ムショ送り。
えいや、そー。ほいや、そー。
声をあわせてオールを漕ぐのは元ガレー船の漕役囚だ。
ガレー船で模範囚と認められ、囚人を運ぶ手漕ぎボートの漕役へと切り替えられた。
一日じゅうオールを漕ぎ、眠りながら食事するガレー船に比べれば、この労役は天国のようだ。
えいや、そー。ほいや、そー。
手と足に鉄のかせをはめられたトキマルは手漕ぎボートの艫に座り、漕ぎ手たちを見ている。
ガレー船で生き残った筋肉の塊が人間の皮の下で盛り上がり、血管を浮かび上がらせる。
退屈な光景。思わずあくびが出る。
えいや、そー。ほいや、そー。
灰色粘土の曇り空。早朝の霞の向こうに輪郭が見えてきた。
要塞。尖塔。渡り廊下。処刑場。囚人を突き落とすための崖。
「本当は特別法院付属監獄っていうんだ」
トキマルの前に座るディルランド人の典獄が説明する。
「セント・アルバート要塞じゃなくてな。だが、誰が気にする? 外の連中にとっちゃ、そこから悪党が出てこないこと、自分がそこに入らないことが大事なんであって、名前なんてどうだっていいんだよ。ところで、お前、おれに預けておくカネはあるか」
「あるわけねーでしょ。全部取り上げられたよ」
「そいつはまずいなあ。監獄のなかじゃ何もかもがカネ次第だ。食い物、酒、面会、女、牢屋の鍵。カネさえ積めば、監獄長官がお前の肩を揉んでくれる。だが、カネがないと……」
典獄は手に持った乗馬鞭でブーツの胴をぴしゃりと打った。
「大変だ。何一つ自由にはならないし、お前を守ってくれるやつは一人もいない」
「長く入ってるつもりはない」
「みんなそう言うんだ、小僧。みんなな」
波が穿った洞窟のなかの桟橋へ縄を投げ、トキマルと典獄がボートを降りる。
裸足のまま監獄へつながる冷たい階段を上り、谷を結ぶ吊り橋を渡り、首吊り縄にまとわりつくボロ切れが潮風になぶられる。
潮風が霧の壁に亀裂を生み、多くの悪党の終の棲み処が姿を見せる。
霧に囲まれたセント・アルバート監獄は岩から切り出したような厳しい輪郭の要塞だった。
(弩砲、弓兵、崖に風。……ここから脱獄すんのは骨が折れるな)
ましてや、忍びでもアサシンでもないエルネストを連れて脱獄など成功の見込みがない。
「我ながらマヌケなハナシ。白米と味噌汁に釣りあげられるとか、ありえない」
大きな石畳の橋が跳ね上げ扉につながっていた。
門の左右には巨大な石造松明が鉄の輪にかかり、霧が渦を巻いている。
通された丸い部屋には酒と薪の燃える匂いがした。
暖炉のそばで顔を赤くした監獄士官が一人、赤ワインの入った白鑞の壺を手にトキマルをじっと睨む。
典獄は机に座った初期相手に引き渡し状から署名をもらい、トキマルの身柄を正式に監獄へと移していた。
「おい、典獄。このチビは何をした?」
暖炉のそばの監獄士官が大声でたずねた。
典獄はトキマルがガルムディア帝国軍の士官に重傷を負わせた現行犯で捕まったことを説明した。
その地に伏す犬のような口調から判断するに、どうやら相手はやろうと思えばディルランド人の小役人にしこたま面倒事をこさえることができる身分にあるらしい。
監獄士官は暖炉を離れて、トキマルと鼻がぶつかるくらい近い距離でにらみ合った。
息が酒臭く、うるんだ目、湿った口髭、美男だったのだろうが、酒が過ぎて頬の肉がやや垂れ気味になっている。
「こんなガキに重傷負わされるようなやつは帝国士官とは言えんな」
「再現してやろうか?」
「なに?」
すでにトキマルは上体をそらせて、しなる棒のようにたわませて、額を監獄士官の整った形の高い鼻にぶつけていた。
――†――†――†――
懲罰房と呼ばれる部屋で逆さ吊りにされながら、トキマルは考えた。
威張り腐る馬鹿とこびる犬にあふれ、カネで全てが賄える世界。
賄賂まみれの外と大差はない。
ただ――、
逆さまになったまま、堪えたふうも見せず、トキマルは口角をかすかに上向かせる。
この力とカネに支配された世界の縮図で、忍びの技と術がどれだけ通用するか。
それを知るのが楽しみだ。
それに、あの監獄士官――確か、ナウド大尉といった、あいつと暗く人気のない道で出くわす機会にもいつか恵まれるだろう。
この監獄、思ったよりも面白いかもしれない。




