第三十二話 ラケッティア、船とアホウドリ。
右手に海岸を見ながら、船は南へ向かっている。
大きな白い鳥が船の上を悠然と飛んでいる。
「ウーム」
曇りかけた空の下、くすみ始めた塩辛い流れが船の横っ腹をじゃぶじゃぶ洗うのをききながら、記憶がパーになることについて考えてみる。
酒で記憶がパーになったのなら分かる。
しかし、ブラコン・シスコン自慢耐久レースに付き合わされて、記憶がパーになったのなら、まだ情状酌量の余地があるのではないか?
いや、四人娘が帰ってきたとき、殺ってきましたと言われたときのおれの引きっぷりはなんと表現したものだろう。
言葉に困るな。もっと現文を真面目にやっときゃよかった。
しかし、確かに夢のなかで誰かがしつこくおれに何かをせがみ、やってもいいかときかれた覚えがある。
おれは眠くて、何をきかれても、うんうんとこたえていたが、それが実は暗殺指令だったのだから、驚きだ。
おれが異端審問にかけられるかもときいて、四人はやられる前にやる決心をつけ、その承諾を取りにおれに会いにきたらしい。
四人の話ではおれは目を開けていたから起きているものだろと思ったらしいが、どうだろう? お前、寝るとき目を開けたままなのかとか、そんなこと知り合いや親から言われた覚えはない。
しかし、災い転じてなんとやらだ。
いま、おれが乗っている船はカラヴァルヴァに向かっている。
ロンドネ王国の都市の一つで、土地は温暖で、トマトやナスが八百屋で普通に売っていて、オリーブオイルもある。拝金主義がまかり通り、退廃的な人々はお楽しみとあぶく銭を求めて、にぎやかにやっているらしい。
で、手持ちのカネが宝石にして金貨六千枚。
ダンジョンから上がるカネも居場所を教えれば、為替で届くようになる。
縄張りを一から作り直すわけだが、どうしてなかなか楽しみだ。
マイケル・コルレオーネだって一度はシチリアに逃げているのだから、こうして温暖な土地へ移動するもの悪くない――、
「マスター、見て見てなのです!」
アレンカが興奮しておれを呼び寄せる。
見ると、大きな鳥が舷側すれすれに飛んでいる。
「マスター、あの鳥はなんて名前なのですか?」
「さあな、アホウドリじゃねえかな」
ボードレールも詠ってら。無気力な船旅の友だって。
「アホウ? この鳥はアホなのですか? じゃあ、バカドリもいるのですか?」
「そっちはきいたことはないな。でも、バカ貝って貝はいる」
「じゃあ、アホ貝もいるのですか?」
「いや、いないと思う」
「むー、アレンカにはちょっと難しいのです」
「安心しろ、おれにも難しい」
「そうなのですか」
「そうなのだ」
「……」
「……」
「マスター?」
「ん?」
「ごめんなさいなのです」
「どうした、急に」
「アレンカたちが殺さなければ、あのダンジョンから逃げることもなかったのです」
「なんだ、そんなこと気にしてたのか? おれがやってもいいって命令したんだろ? じゃあ、自己責任だ」
「もう絶対にマスターが眠いときに命令をもらいにいかないのです」
「まあ、そうしてもらえれば助かるか。ところで、何か知らせに甲板まで来たんじゃないのか?」
「あっ、そうだったのです。エルネストがすごいのです。すごくかっこいいトランプの切り方をミジンコさんでも分かるくらい優しく教えてくれるのです。マスターも行きませんか?」
「行く行く。それ、すっげー、興味ある」
船尾側のキャビンから船の中甲板へと降りる。
ふと、ふりむくと、扉に切り取られた青い空のなかで一羽のアホウドリが優美に風を切っているのが見えた。
リュデンゲルツ地方 クルスの八百長ダンジョン編〈了〉




