第十二話 ラケッティア、自律にこだわる。
この世界の食文化がときどき分からなくなることがある。
アンチョビをつくる習慣はないが、カラスミをつくる習慣はあって、しかもカラスミをすりおろすためのおろし金すら発明されている。
どう考えても、カラスミのほうがつくるのは面倒なんだがなあ。
まあ、このへんの話は文化人類学の話になるんだろう。
なんてことを考えながら、鎌で雑草をせっせと刈る。
ギルド屋敷の庭は草ぼうぼうでひどい有様だ。
きれいにしようしようと思っていて、つい後回しにしてしまったのだが、以前、管理もできないくせに庭を持つやつはアメーバ以下だと啖呵を切った手前、やはりやらねばならぬかと思い、始めた。
それにこれから夏になる。
酷暑のなかで草刈りするよりは今やったほうがいいだろう。
草を刈るのが単純な作業なもんだから、つい、これからこのギルドをどんなふうに育てるかを考えてしまう。
そこで思い浮かぶのは殺人株式会社だ。
1930年代のアメリカに実在した暗殺組織で顧客はイタリア系マフィアやユダヤ系マフィア。社員である殺し屋にはサラリーと特別ボーナスを払っていた。
マーダー・インクの殺し屋たちはブルックリンのキャンディ・ストアを本部に二十四時間年中無休で殺しを請け負い、カタギや警官を殺さない、麻薬に手を出さない、依頼はビジネスとして割り切るなど徹底したプロ意識で自分にルールを課していたので、顧客は安心して殺しを任せることができた。
その殺し屋としてのストイックさはこの会社の代表取締役社長ともいうべき伝説の殺し屋ニコラス・“リトル・ニッキー”・レンジリーの態度そのものだ。
マフィアものの本にレンジリーの逮捕時の写真が載っていたが、細身で温和な顔つきの服の趣味のいい小男で、このはにかんだ笑みを警察のカメラマンに向ける男が1930年から40年にかけての大物ギャング殺し全てにかかわっていたなど、まったく信じられないほどだ。
だが、事実だ。
コニー・アイランドのレストランでジョー・マッセリアの胃袋に十五発の銃弾をお見舞いし、ニューアークのレストランでステーキとフライドポテトを待っていたダッチ・シュルツの幹部三人を頭に一発ずつ撃ち込み、トイレで用を足していたボスのシュルツにもきっちり二発撃ち込んだ。
もし、殺し屋に誇りというものがあるなら、レンジリーは間違いなく誇り高き殺し屋だった。
当時のギャングたちのあいだで流行った走行中の自動車から機関銃の弾をバラまき、関係のない民間人ごと標的を薙ぎ倒すようなやり方を三流以下の仕事と蔑んだし、1931年9月10日、マンハッタンの高層ビルで大ボス、サルヴァトーレ・マランツァーノを殺害したとき、レンジリーは報酬を受け取らなかった。
というのも、当初の計画は刑事に変装したレンジリー率いる暗殺チームがナイフだけでマランツァーノを仕留める予定だったのに、手下の一人がマランツァーノと取っ組み合いになりナイフを奪われたため、やむを得ず銃を使った。
そして、手違いがあったということでレンジリーは報酬を受け取ろうとはしなかった。
そんなプロ意識の塊みたいなレンジリーがマーダー・インクの社長に選ばれるのも当然だ。
レンジリーはマフィアたちからの要請で理想の暗殺組織をつくった。
精鋭の殺し屋軍団。
どのファミリーにも肩入れしない中立性。
殺しをビジネスと割り切るメンタル。
マーダー・インクはその活動した十年のあいだにマフィアたちの頭痛のタネを次々と葬った。
犠牲者の数、およそ五百人。
だが、かなしいかな。
マーダー・インクはその活動を1940年に終える。
会社を解散させたのは、他ならぬレンジリーだった。
マーダー・インクも末期になると、社員の数が増えすぎて、殺し屋の質が落ちた。
個人的な復讐や痴情のもつれのために社員が使われるようになり、また麻薬ビジネスを副業にする社員も出てきた。
ひどいやつになると、自分がヤク中になり、レンジリーが自分で手を下さなければならないこともあったようだ。
問題はまだある。
顧客であるイタリア系マフィアやユダヤ系マフィアたちも自分の子分をマーダー・インク内部に巣食わせて、会社を乗っ取ろうとし出して、内部抗争まで起きていた。
プロ意識。中立性。メンタル。
マーダー・インクを最強の暗殺組織たらしめていたものが失われると、レンジリーは手塩にかけて育てたマーダー・インクを解散させた。
それだけではなく、自分の理想を汚した社員と顧客全員を警察にタレ込み、電気椅子送りにした。
こうしてニコラス・“リトル・ニッキー”・レンジリーは伝説の殺し屋と恥ずべき裏切り者の二つの名前で暗黒街の歴史に永遠に刻まれることになった。
レンジリー自体はどうなったかというと、公判を控え、警官が厳重に警備していたホテルの部屋から消えてしまった。
レンジリーの部屋には警官が五人もいたのにだ。
異世界に転生したのかもしれないが、実際はどうやら、ニューヨーク・マフィアの大物、フランク・コステロが警官一人につき五万ドル(今の日本円で一億円に相当する)で買収し、部屋に殺し屋が入ってくるのを見て見ぬふりをさせたらしい。
そして、レンジリーは風呂場で生きたままバラバラにされて、カバンに隠されて、外に運び出され、ハドソン川に捨てられた。
レンジリー失踪事件は迷宮入り。世間はこの背信の殺し屋をあっという間に忘れ去る。
失踪の一か月後、日本軍が真珠湾を攻撃したからだ。
――†――†――†――
おれはアサシンじゃないけど、リトル・ニッキー・レンジリーの在り方は法に背を向けて生きることは、それ以上に自分自身の規律に縛られることなのだと教えられる。
法にも自分の規律にも背を向けた人間はただの暴君であり、ヘドロほどの価値もない。
だからな、来栖ミツル。
今日中に庭の雑草を全部引っこ抜くという、今朝自分自身に課した規律を守るのだ。
でねえと、ヘドロ以下だぞ。
でも、終わんねえよ!
※この雑草ども、抜いてるそばから生えてくるんじゃねえのかってくらいしぶとい。
ツィーヌに除草剤をつくらせてもいいが、それをやると土壌が死ぬ。
おれはこの庭にトマトを植えたいんだよ。
マフィアのお菓子といえばカノーリであり、マフィアの家庭菜園といえばトマトなんだよ。
あと、ネタばれになるから言わないけど、ゴッドファーザーでもトマト畑は重要なシーンに出てくるんだよ。
だから、妥協はできないんだよ。
でも、終わんねえんだよ!
※に戻る。
ところで、おれの不毛な無限ループ開拓事業をさっきからじっと見ているやつがいる。
赤い髪の剣士で、意志の強そうなイケメン。
齢はおれと変わんないようだが、なんの用だろう?
人間が繁茂する雑草に苦しめられるのを見るのが趣味なのだろうか。
だとすると、結構なご趣味をお持ちですね。
おれは草刈り鎌を放り出すと、赤毛の剣士のほうへてくてく歩いていく。
おれが近づいてくると、剣士はひどくバツの悪そうな顔をし出した。
「あの、何か用ですか?」
「いや。ここにクルスという人は住んでないか?」
「おれがそうですけど」
「きみがクルス?」
なんだろう。めっちゃ難しい謎々を出されて悩む柴犬みたいな顔してるぞ。
しばらくして、相手はまた質問してきた。
「きみにおじいさんはいるのか?」
これは難しい質問だ。いるにはいる。
ただし、日本にいる。
くたばってなきゃ、今ごろゲートボール大会でナンパしてるはずだ。
でも、こっちにはいない。これをどう説明したものか?
「いませんけど」
まあ、こう言っておくのが妥当だな。
会わせてくれって言われたら、会わせられないんだから。
「いないのか?」
「うん。いない」
「じゃあ、大叔父や叔父、あるいは父親でクルスという男はいないか?」
「いませんね」
すると、イケメンくんは少しうつむき、
「すまなかった。立ち入ったことをきいて。おれの勘違いのようだ」
うん、勘違いしてる。
イケメンさん、あんた、おれのこと、天涯孤独だと思ってるでしょ?
だーかーらー、じいちゃんも晴幸伯父さんも、親父もみんな元気でやってるの。
ただし、日本で。
結局、謎の少年剣士は変な誤解を抱いたまま行ってしまったが、家族のことを説明するのがこんなに難しいと思ったことはない。
どこにでもいるごく普通の家族だったんだが。
「そのかわりに新しい家族があります、って教えることもできるのです!」
その日の夕食の席でアレンカが誇らしげに言った。
「まあ、そういう言い方もできるわね」
「じゃあ、家族らしく家族の手伝いをして、草むしりに参加してくれ」
「それとこれとは話が別よ」
「できることなら、フェアファックス商会からお呼びがかかる前に庭にトマトの苗を植えたい」
「そんなにうまくいくかなあ」
食堂の扉が開き、エルネストが姿を見せた。
「先にやってるよ。カラスミのカナッペ、食う?」
「いただくよ。お望みの書類の第二陣ができあがった。これからどうするんだい?」
「役所に提出する。書類は全部でどのくらいある?」
「荷馬車五台分くらいかな」
「それだけあれば上々だな」
マリスが不思議そうな顔をしてたずねる。
「マスター、どうしてこれで税金を払わずに済むの?」
「鍵になるのは官僚の哀しい性だ。ある官僚が税金をとある団体――この場合はおれたちだけど、おれたちから菓子税を取り立てようとする。そこで、その官僚が最初に見るのは、役所に提出された書類だ。
なんの細工もしなければ、そこにある書類には金貨一万枚分の菓子材料をおれが仕入れたって記録がストレートに残る。税務署はおれのもとにきて、税金を払えと言う。
ところが、今回の場合、事情が違う。官僚が最初の書類を見る。金貨一万枚分の菓子材料は確かにストーンウェイク菓子職人ギルドが仕入れた。だけど、菓子職人ギルドはその菓子材料を二つに分割し、ペーパーカンパニーAとペーパーカンパニーBに振り分けた。菓子税を支払う義務は材料を小売店に卸した時点で発生する。だから、税務署はペーパーカンパニーA、Bが菓子材料を小売に卸したか調べるけど、そのうちAはCという金融業者から自分の菓子材料を担保に金を借りていて、Bは船会社Dと取引して、菓子材料を他国の倉庫に預けた。
これの意味、分かるか?」
エルネスト以外は全然分からないとこたえた。
「そう、分からないんだよ。税務署の役人たちでさえ、菓子材料がどこにあって、どの会社が権利を持っていて、どの会社が菓子税の納税義務があるのか分からないんだよ。それを調べるにはエルネストが大量につくり、役所に提出した書類を全て見なければいけない。それが荷馬車五台分もある。
しかも、どれもこれもペーパーカンパニーだから、所在を突き止めたと思っても、そんな会社は存在しないから、今度は開業に関する書類を誰が出したか調べなきゃいけない。エルネスト、全部まともに調べるとしたら、どのくらいかかる?」
「十七年と五か月」
「十七年と五か月だ。しかも、それだけの時間をかけても、行きつくのはストーンウェイク菓子職人ギルド本部があるスープ窟〈悪魔の闇鍋〉だ。そこで十七年と五か月前に誰が菓子職人ギルドを買い取ったか聞き込みをしても、返ってくるこたえは『知るか、ボケ』くらいのものだ。誰も覚えてはいない」
「あうう。アレンカには難しいのです……」
「端的に言えば、今度のラケッティアリングで入るカネは金貨八千枚」
ブッ!
マリスとツィーヌが飲んでいた果汁を吹き出した。
「き、金貨八千枚?」
「いろんな諸経費をさっぴくと、九千枚残る。で、千枚はエルネストに――遠慮すんなって、それだけの仕事したんだから。で、残ったのが八千枚の金貨だ」
「マ、マスターってやっぱりすごい」
「だけどな、ツィーヌ。この手はもうたぶん使えない。国も卸しじゃなくて小売店から税金を徴収しようとするだろうし、そもそも菓子税がなくなるかもしれない。カノーリの人気が予想以上で宮廷でも食べられてるって話だ。それで国王は菓子税をなくして、製菓業界はもちろんのこと、菓子の材料である小麦や卵、ミルクをつくる業界にもハッパをかけるつもりらしい。額は大きいが、一度だけでは本物のラケッティアリングとは言えない。また、新しいのを考えないとなあ」
「それで考えつくんだから、すごいところだよ。マスター、もっとえばっていいと思うぞ」
「おれもそう思うけど、それはこの金貨八千枚でできるラケッティアリングを思いついたときのためにとっておく――ん、なんだ? アレンカ、手なんか伸ばして?」
「マスター。ちょっと前にきてほしいのです」
「こうか?」
アレンカの手はおれの頭にぴたりとくっついた。
そして、ゆっくり左右に動かす。
ん? これは俗に言う――、
「いいこいいこなのです。マスター」
やっぱり。
「でも、マスター。最近あんまり寝てないのです。だから、寝てほしいのです」
「これ、お前らの差し金だろ? おれは赤ちゃんか?」
「さあ、どうだろう?」
「心配されるうちが花よ」
「マスター、顔が赤い……」
で、とエルネストがたずねる。
「今夜はゆっくり休むのかい?」
「こんなふうにされたら、大人しく寝るしかない。ただ、あんたもしっかり休んでくれよな。徹夜してんの知ってるんだから」
「もちろん、休むとも。と、思うと、ふああ。早速あくびが出てきた」
自分の部屋でベッドの上に倒れ込むと寝巻に着替える前から睡魔が降りてきた。
カノーリで仕組んだ脱税はうまく機能したし、ヴァレンティとフライデイにはなかなかいい印象を与えられた。ナンバーズも好調で手堅い固定収入源になっている。
で、あとはフェアファックス商会だけど、相手はどう出てくるもんだろう?
それにしても……金貨八千枚……うまく行きすぎ……足をすくわれないよう、せいぜい……気をつけ…………ZZZ…………。




