第三話 ラケッティア、さまよえる印刷屋。
赤ワイン通りがロデリク・デ・レオン街に注ぎ込むあたりを杯を意味する〈ゴブレット〉と呼ぶ。
あの人間バンザイ主義者ドン・ウンベルト・デステ伯爵が陣取る妖精取引所があり、それに学生街の南端と接しているから、剣術学校や居酒屋、本屋などがある。
雪降る冬の真っ昼間も構わぬ様子で、学問よりお針子娘とのロマンスに現を抜かす学生たちがあちこちで掃除機みたいな音を鳴らしながら、キスしている。
カルデロンに教えられた住所に行ってみると、派手な鋳鉄細工の看板が道まで飛び出し、念入りにタレを塗って焼いたらしいアヒルの丸焼きが店のなかに何百とぶらさがっていた。
おれは印刷業界は門外漢だけど、アヒルの丸焼きが印刷に必要ないことくらいは分かる。
店の暖簾、というよりアヒルをくぐると、燃える松の上で串刺しになったアヒルをくるくるまわしている老人に、
「ここはアドリアン・フストって男が印刷所をやってたと思うんだけど」
とたずねる。老人は蝿でも避けるみたいに手をふって、奥のほうを指差した。
アヒル屋は間口が五メートルくらいしかない。
が、非常に奥行きのある建物で、泥まじりの雪に足跡だらけの狭い中庭を二つ通り過ぎた先に古い平屋があった。
ここが印刷所なら、印刷技師アドリアン・フストは相当きわどいものを刷っているのだろう。
緑に塗られた両開き扉を開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。
人がいる――それも結構な人数がいるのは声がきこえるので分かるが、建物には窓がないので、なかの様子は分からない。
「おーい。開けろー」
おれが扉をドンドン叩くとドアの向こうにいる誰かさんがこたえてくれる。
「なんだ、誰だ?」
「おれだよ」
「誰だって?」
「だから、おれだよ、おれおれ」
「誰だよ? お前なんか知らねえぞ」
「なーに薄情なこと言っちゃってんの。おれだよ。この声、聞き覚えがあるだろう?」
「ねえよ、んなもん。誰だ、お前」
「扉を開けて確かめりゃいい」
「駄目だ。お前が誰か分からねえ」
「それを調べるために開けりゃいいだろうが。そうすりゃ、おれが誰だか分かるだろ?」
「それもそうだな――ん、待て、こりゃあ引っかけ問題だな。おい、ドアの向こうのトンマ、お前が誰だか知らねえが、やっぱりこのドアを開けるわけにはいかねえ」
交渉終了。
おれおれ詐欺失敗。
全国のおじいちゃんおばあちゃんごめんなさい。
「さーて、どうしたもんかなあ」
めごっ、ばりばり、ごちん。
ディアナがつかつか前に出て、ドアを蹴破った音だ。
ドアの向こうに立っていたトンマは板にもろに頭をぶつけて、ぶっ倒れ、なかでは大騒ぎになった。
おれが踏み込んだころにはボロは着ているがヤクザには見えない男が二人、大きなたんこぶこさえて倒れていて、残りの数名は部屋の隅に追いつめられていた。
ディアナはそいつらの前で足を肩幅に開いて、剣を抜き、逃げたら、胴から横薙ぎに真っ二つにするつもりでいる。
しかし、この印刷所。印刷機がない。
煤で汚れた低い天井からぶら下がるランタン。その床に投げ出されたとぼしい光のなかで銀貨や銅貨がきらきら光り、手垢のついたトランプがバラバラに飛び散っている。
このまま女騎士にして稀代のポルノ作家を男たちとにらめっこさせていてもしょうがないので、おれはエヘンと咳をし、
「このなかにアドリアン・フストはいるか?」
「フスト? フストだと!?」
壁に追いつめられたなかの頭らしいやつが叫んだ。
「てめえら、あの疫病神の差し金だってのか! くそったれめ!」
背はかなり低いが、肩が錨みたいに持ちあがっていて、短いが牛みたいに太い首は真っ赤――怒れる毛細血管に真っ赤な血がガンガン流れこんだせいだろう。
短く刈られた髪と顎鬚に縁取られた顔面は各パーツが斜めに傾いでいる、いかにも拳闘士上がりのチンピラだ。
おれは、まあまあ、となだめる。
「おれはフストの差し金なんかじゃない。むしろフストを探しに来たんだ。ここはやつの印刷所だろ?」
「てめえ、馬鹿か? 見りゃ分かるだろうが! どこに印刷機があるんだよ!」
「じゃあ、ここはフストの印刷所じゃないってか?」
「そうだ」
「なして?」
「フストってのは印刷屋としては凄腕でも、カードやサイコロについては生まれついての負け犬だってことよ。やつの店はおれへの博打の借金金貨五十枚のカタに分捕った。ここはもう印刷所じゃねえ。賭場だ」
「フストはどこにいる?」
「さあな。カネが尽きてなきゃ、〈銀行〉にいるんじゃねえのか? 分かったら、とっとと失せろよ。くそっ、ドアぶっ壊しやがって。フストって野郎は本物の疫病神だよ!」
――†――†――†――
カラヴァルヴァの西部にある商業地区。
そのなかでもサンタ・カタリナ大通りには教会や塔、銀行が並んでいる。
たいていの銀行はテラコッタ瓦をオツムに頂き、赤、青、黄色の漆喰で仕上げられたカラフルな二階建てで、二階に屋根付きのベランダがあり、こんな季節でなきゃ、花を植えた鉢が飾られるとか。
カジノと言っても、ラスベガスからは程遠いが、色の多様さとその微妙な安っぽさが1920年ごろの上海風に見えるのはなかなかオツじゃないか。
あちこちの銀行でフストの行方をたずねていくうちに分かったことだが、フストはなかなかの有名人だった。
あだ名もたくさん頂戴している。
素寒貧のフスト。疫病神のフスト。ミスター・スカ。負け犬マン。世界で一番ブラックジャックが弱い男。世界で唯一ロイヤルストレートフラッシュを持っていても負ける男。などなど。
なかにはフストの名前に貧乏神の不吉な御姿を見出した賭博屋たちが、女神の印を指で切ったり、魔除けの呪文を唱えたりしたが、困ったのはいきなり怒り狂った男だった。
「がぁぁぁ!」
「おひゃあ!」
「あ、すまん。驚かせたか」
「あ、いえ」
「フストの野郎の名前が上がったんで、つい頭に血が昇っちまったぜ」
「そんなにひどいの?」
「やつと組んでファイブアップやってみ? ダブル牌はみんな死に牌になるし、何度やっても端の合計が五の倍数にならねえ。得点なんてどうあがいてもとれねえから、昨日今日ドミノを始めた青二才が相手でも負けちまうんだ」
「そのフストだけど、今、どこにいるか分かる?」
「借金取りにバラバラにされてなきゃ、まだミラモンテス銀行のポーカーテーブルで粘ってるはずだ」
――†――†――†――
何度も言うが、カジノは入場料を取るべきではない。
そんなテラ銭まがいの小遣い稼ぎをやっているうちは半丁博打のボロ神社以上のものにはなれない。
ミラモンテス銀行でも銀貨一枚取られた。
がらんとした大部屋。埃だらけの鉄製シャンデリア。無愛想な両替娘。
イドと煙草のヤニ臭いなか、鎧戸越しの正午の光に背中を切り刻まれながら、負け犬ギャンブラーたちは手札のクイーンの無機質な微笑が心からの笑顔になるかもしれないと思いながら、寝不足気味のぎょろっとした目ん玉で怪光線をカードに注いでいる。
フストがどこにいるのかはすぐに分かる。
このなかで一番惨めなギャンブラーがフストだ。
「あんた、フストだな?」
「はあ?」
「印刷屋のアドリアン・フストだろ?」
「おれはメンデルだ。索具職人のアルフレド・メンデルだよ」
あれえ?
ちびでハゲで残った髪の毛がぴたりと頭皮に貼りつき、しょぼしょぼした眼をぱちくりしながら、自信なさげにカードを扱う姿はまさに〈世界で唯一ロイヤルストレートフラッシュを持っていても負ける男〉なのだが。
あー、でも、テーブルをちらっと見たら、人違いなのが分かった。
高く積まれた銀貨の塔が十五余り、この男の前にある。
そして、いま、エースとキングのツーペアで胴元を負かし、十六個目の銀貨の塔を築こうとしている。
「なんだよ、頭領。人違いかよ」
「うるへー。じゃあ、この部屋で二番目にみじめなギャンブラーを探せ。きっとそいつがフストに違いな――」
と、言いかけたところで、ぐいぐいと誰かがおれのコートの裾を引っぱった。
振り向くとジルヴァが、一番日当たりのいいテーブルを指差す。
「マスター、あれ……」
そこにいたのは湘南あたりで波乗りしてそうなあんちゃんふうの正統派イケメン(異端派のイケメンが何なのか知らんけど)。
褐色の肌に白に近いブロンドの癖のある髪を後ろで束ねている。
あんまり堂々としているので勝っているのかと思ったら、今、最後の銅貨を一枚放り出して、オケラにされたところだった。
店をとられ、最後の財産も取られたわりにはあまりに堂々としていて、正気を疑いたくなったが、いや、考えてみれば、こやつ、ロンゲのイケメンではないか。
クルス・ファミリーの家訓その一。ロンゲのイケメンはヤバい。
「あんた、アドリアン・フストか」
フストはこっちをふり返り、
「ああ。まだ、それ、おれの名前だ」
「まだ?」
「これから、名前を質屋にブチ殺しに行くんだ」
「名前なんて買い取ってくれるのか?」
「買い取ってくれないと、おれはアドリアン・フストのままだし、たぶんおれの墓碑にもその名前が刻まれる」
おれはディアナの描いたエロ・カードを一枚取り出して見せた。
「ワオ、すげえおっぱい。でも、残念。おれ、いまカネ持ってないんだよ」
「あんたに売ろうってんじゃなくて、あんたなら刷れるかをききたいんだ」
フストはカードを手に取ると、じっと睨みつけた。
あとできいたら、色の異なる境目を見ていたそうだ。
多色刷りの大量生産となると、色のメリハリが命だという。
そこらに出回っている三色カードみたいに色が滲むような安物は刷らないということだ。
なるほど。
アドリアン・フストはへっぽこギャンブラーだが、印刷屋としては一流だ。
「刷れないことはない。錬金術師の腕のいいやつをひとり知ってるから、そいつにインクの錬成を手伝わせれば刷れる。機械もあるしな。いや、あった。公営質屋にブチ殺した。さっきのコインはそのときもらったやつの最後の一枚」
「じゃあ、それを請け出しに行こう。カネはこっち持ち。それにインクをつくる錬金術師のこともききたい」
「そりゃ、無理だ。おれ、ここに借りがある」
ディーラーにいくらかたずねると、金貨二十七枚とこたえたので、ディーラーのチップも含めて、金貨二十八枚を支払った。
「へええ、カネ離れのいいこって」
「おれのポルノ・ビジネスに一枚噛めば、同じくらいカネ離れがよくなる」
「まあ、おれの借りを払ってくれたし、正直、定期的な収入は必要だもんな」
そのまま、フストを連れて、カジノを出ようとしたら、鋭い声をかけられた。
カジノの用心棒ふうのゴリラが三人、のっしのっしとやってくる。
「その客は帰りたがってないぜ」
「もう少し遊ばせてやれよ」
「でなきゃ、金貨十枚払いな」
「なして?」
「そいつはこれから二時間でそれだけのカネをスる予定なんだよ」
「ちょっと待って。待ってくださいね。うーん。おたくら、なに、まだスってもいないカネを払えって言うの?」
「呑み込みがはやいな。その通り」
「はやく払えよ」
「でねえと、痛い目見るぜ」
「いいとも。払おう。ただし、そっちがおれに金貨百枚払うならの話だけど。というのも、おれ、ここのカジノでそれだけのカネを巻き上げる予定だったんでね」
ゴリラが飛びかかる。
ひゃあ、とたまげた声を上げたが、ゴリラのほうはジャングルじゅうのメスゴリラにきこえそうなくらいの悲鳴を上げた。
見れば、ゴリラの両手を長さ十五センチくらいの鉄の針がぶっすり貫いている。
ゴリラは他のゴリラに針を抜いてくれと頼むが、果たせるかな、他の二頭も同じ目に遭っていたのでどうしようもない。
見れば、ジルヴァの指のあいだに同じ針が挟んである。針はまだまだあるらしい。
「次は、目をやる……」
こんなふうに言われて、おれたちを足止めしようとするやつはいない。
じゃ、さいならー、とおれは急ぎ気味にジルヴァを扉のほうへ押しながら、カジノを出ようとした。
そのとき、ドアがハンマーでぶち破られ、乱入した男たちが叫んだ。
「治安裁判所だ! 大人しくお縄につけ!」




