第三十九話 ラケッティア、たぶん記憶に残らない。
着替えてから、ドアを開けて外に出ると、例の案内係に出くわした。
「え?」
「おう。お前か。出かけるぞ。仕度しろ。四十秒で準備しな」
「あの、それ――」
「一、二、三、四、五、四十! よし行くぞ!」
「いえ、それ――」
「どこに行くかってんだろ? 司法取引に使う審理を買い集めに行く」
「だから、その服――」
「なんだよ、服がどうした?」
「それって、女の子の服ですよね? というか、少女暗殺者専門店に飾ってあったやつですよね?」
「そうだな」
「それって――」
「なんだよ、それって、それって、って」
「いや、だって、女の子用のアサシンウェアを着てるんですよ?」
「それがどうかしたか?」
「いえ、なんていうか――変じゃありません?」
「別に」
「いまのあなたの目が、その黒目が、ぐしゃぐしゃの線で渦巻みたいになってますよ?」
「だから?」
「ええー」
「とにかくプレーヴェのとこに行くぞ。休日もへちまもない。ラケッティアには休日なんてないんだからな」
――†――†――†――
「まだ精神錯乱による責任能力の欠如を訴える段階ではないと思うがね」
「おれの精神は明晰だ。実にクリアだよ」
おれはプレーヴェが床から積み上げ、ちょうどいい高さになっている書類の上に座った。
「彼はどうしてしまったのだね?」
「分からなくて困ってるんです。しかも、司法取引したいと言っていて」
「まだ起訴内容も分かっていないのに?」
「そうじゃないんだ、オットセイ」
おれは華麗に立ち上がる。
「おれが売り買いするんだ。司法制度を。判決を」
「司法取引所は街中の市場みたいだが、よそものを受け付けるような場所じゃあない。それも被告だなんて」
「関係ねえ。商売敵はみんな潰す」
「ええー」
「とにかく司法取引向けの結審してなくて被告欠席状態の小さな裁判を買える場所に案内してくれよ」
「判事たちは賄賂は通じない」
「それについては考えがある。それよりさっきも言った結審できてないザコ裁判を手に入れるんだ」
――†――†――†――
この城の司法制度では裁判官はひでえ暮らしを強いられているが、そのなかでもあまり重要な訴訟を任されない三流判事たちはそれよりもひどい下の下の暮らしをしている。
司法取引屋はこの手の判事から訴訟を二束三文買い取っているわけだ。
「プレーヴェ! きみの依頼人はどうなってるんだ?」
この素っ頓狂な声を上げているのはフランシスコ・デ・フェル判事。
寝起きする場所がもはや法廷ではなく、石炭貯蔵小屋という涙が出る三下である。
おれは石炭袋によりかかろうとするが、思ったより固くてひどくとがっているのでよりかかるのはやめにして、手を後ろにして、散歩するみたいにうろうろ歩きながら説明することにした。
「なあ、判事さん。現行の制度は司法取引屋があんたたちから裁判を買い取って、それを他の裁判の被告たちに自白させて、裁判を片づけているわけだが、売った裁判はあんたたちの手を離れるのか?」
「完全に離れる。判事の名は名ばかりなんだ。そういうふうに裁判を売るとき、判例を調べて、適正な量刑を書き、判事不在時代理裁判官制度の執行書にもサインする」
「その制度ってのは分かりやすく言うと?」
「司法取引屋をその裁判一度限りの代理裁判官に任命するという制度だ。これは裁判官が暗殺任務で長期間、島を離れなければいけないときに使う制度だが、現在は司法取引に使われている」
「おれに判事不在時代理裁判官制度は必要ない。自白するやつのお膳立てができたら、あんたに返すよ。判決はあんたの名前であんた自身がやればいい。あの『静粛に』ってやるときにぶったたく木槌、持ってるんだろ?」
「持ってはいるが、こんなことしてきみにどんな得がある?」
「そんな、人を異常者みたいに見るなよ」
「だが、その服装は――」
「司法取引屋たちは自分が裁判官の代わりをやって、その数で名を売り、顔を売り、商売につなげるが、おれにはそんなもんは必要ないし、それどころか、司法制度で名を上げるなんて絶対にごめんだ。おれはマフィアなんだよ。マフィアがケーサツの真似事するなんて最低だ」
「まったくよく分からないが、きみに審理を売れば、わたしは三流から二・七流くらいの判事になれるかもしれないってことか?」
「そんなとこ」
「きみの得は?」
「司法制度をコケにして、いい気分になれる」
「ええー」
「人間ってのは、この自然界で唯一、無駄なことしても生きていられる動物だ。つまり、無駄なことしない人間は人間としての義務を放棄しているってことだ。だろ? とにかく、ちっとでも野心のあるカーペット判事におれがいい条件で裁判を買い取ってると言い散らかしてくれ。あとはこっちで何とかするから」
――†――†――†――
「それで何をするつもりなのかね?」
「司法取引するんだよ、オットセイ」
「オットセイ、どうしてわしはオットセイなのかね?」
「トドでセイウチだからだ?」
「いや、疑問風に語尾を上げられても困る」
「おい! カーペットマスター!」
「案内係とカーペットマスターってどちらが社会的立場が上なんですか?」
「カーペットが家のどこに位置するか考えろ?」
「床か。あんまり高くなさそうですね。でも、まあ、地下室よりは上か」
「地下室には洗濯機がある。洗濯機に組合の代表の首を切り落として放り込めば、この世は意のままだ。だが、今は――」
おれの手元には訴訟番号八八八番のB三と審理番号一二三〇九のTT、それに九九三の九K六がある。
それに訴訟番号五七W番CCと審理番号〇〇四番の〇〇A、訴訟番号二九〇〇九六番もある。
訴訟番号と審理番号は別に違いはない。
役所仕事ってのはそういうもんだ。
ところで、司法取引市場の傾向を説明しておこう。
よい子のパンダのみんなも知っての通り、司法取引を行えば、司法取引屋は取引分の裁判の臨時裁判官になり、スムーズに審理を進めたということで名と顔を売れ、それがまた次の仕事にかかってくる。
だから、連中はひとりの被告にふたつか三つの裁判での自白、ひどい場合なら七つの裁判で自白させられる。
ただ、この城の司法はどこか変で、こうして取引して禁固刑を食らっても、すぐに牢屋にぶち込まれるわけではない。
娑婆に戻ることはできる。ただ、実刑を食らったという事実がついてまわるので、まったくきれいな体とは言えない。この宙ぶらりん状態が体に悪い。
しかし、悲しいかな。
被告たちは一刻も早く、この霧みたいな裁判から逃れたくて、取引屋の言いなりになっていて、取引屋はまったくの殿様商売をしている。
おれは一対一の等価交換をこの取引にねじ込む。
ひとつの裁判にひとつの自白。
「あのぉ」
今もひとりの被告がやってきた。
「司法取引、やってますか?」
「はい、もちろん! 訴訟と審理、どちらの番号がご希望で?」
「どちらでも。というか、きみはマスコット・キャラクターかと思っていたよ」
「なんで?」
「この世の中の不条理の象徴みたいな」
「いえいえ、おれは代表取締役みたいなもんで」
「じゃあ、僕の裁判を司法取引で破棄してもらえますか?」
「はい、もちろん」
「刑はどのくらい?」
「どのくらいか知らないけど、執行猶予が間違いなくつきます。そういう契約で裁判を買ってるんで」
「きみが裁判官じゃないのかい?」
「代理裁判官制度はなくて、本物の裁判官があなたにジャストフィットな執行猶予付き判決を選んでくれます。本物の裁判官と司法取引できるのはうちだけです」
「じゃあ、ひとつ、やってもらおうかな」
「では、ご指名とご職業、それに審理番号または訴訟番号をお願いいたします」
「アルフォンス・シュトゥ。家具職人。訴訟番号九〇二Qの七番です」
「担当の判事は?」
「ザンクトビクトル判事です」
おれはメモを手帳から引きちぎり、さっきそこで銅貨五枚で買ったボロボロのコルクボードに刺した。
「じゃあ、ちょっくら行ってきます。オットセイ! カーペットマスター! ついてこい!」
――†――†――†――
ザンクトビクトル判事は自分の法廷の隅で毛布をかぶって寝ていた。
リボンを結んだローファーで軽く蹴とばすと、寝ぐせのついた口ヒゲが姿をあらわした。
「誰だ、人が気持ち悪く寝てるところを」
「おれだよ」
「おれじゃわからん」
「わかるはずなんだけどな。マイヤー・J判事から話は言ってるだろ?」
「なに? なんだって?」
「マイヤー・J判事」
「そんな判事きいたことがない」
「それはおれの知ったことじゃない」
ザンクトビクトル判事は半身を起こして、傍聴席にのせておいた眼鏡を手に取った。
「いったい、お前はどこの病院から脱走してきた? それとも今日はカーニバルか?」
「あんたにいい知らせを持ってきた」
おれはアルフォンス・シュトゥの審理番号〇〇四番の〇〇Aに関する有罪承諾書を見せた。
「なんだ、これは?」
「アルフォンス・シュトゥは審理番号〇〇四番の〇〇Aで自身の有罪を認めて、訴訟番号九〇二Qの七番――というのは、あんたが担当の裁判だが、この訴訟番号九〇二Qの七番での罪には問われないことになった」
「なに? おい、そいつを見せてみろ。……なんだ、司法取引屋か。判事不在時代理裁判官制度をそっちがきいたことがないのは、わしの知ったことじゃないがな、この判事不在時代理裁判官に任じられるための申請書が出されていないのだから、お前は審理番号〇〇四番の〇〇Aに自分で判決を申し渡すことができない。お前はこの裁判において、何者でもない。ゼロだ。宇宙の塵も同じだ。審理番号〇〇四番の〇〇Aはまだ結審していない。つまり、司法取引は成り立っていない。だから、わしの訴訟番号九〇二Qの七番もまた終わらないのだ」
「オットセイ、見せてやれ」
プレーヴェがザンクトビクトル判事に渡したのは三流から二・七流へと飛翔を企むフランシスコ・デ・フェル判事の判決文の写しだ。
「審理番号〇〇四番の〇〇Aに代理裁判官はいない。これを担当するの今も昔もフランシスコ・デ・フェル判事だ。代理裁判官ではなく、本物の裁判官が、この通り、執行猶予付きの判決を出している。既に別の裁判で刑が確定している被告を扱う気力と時間をあんたが訴訟番号九〇二Qの七番のために無駄にしたいというなら、どうぞ。それが嫌なら、取引といきましょうや」
――†――†――†――
「おい、お前! この変態野郎!」
司法取引所の中庭にやってきたら、この呼び方。
その司法取引屋が肩が盛り上がっていて、司法取引を持ち掛ける側よりも持ちかけられる側がお似合いの大男だった。
「何か用でっか?」
「誰にことわって、商売してる!」
「誰にもことわってない。己の才覚でちっこい裁判を買って、そいつで違法な司法取引をしてる」
「ここには新入りは入れねえ」
「それじゃ、最初の司法取引屋はどうやって司法取引をしたんだ? だって、そいつは初めて司法取引をするんだから、それって新入りだよな」
「揚げ足を取るんじゃねえ!」
「んなこと言ったって、司法取引なんて揚げ足取りの連続噴射みたいなもんでしょ? なにせ、その取引で懲役が三十年になるか七年で済むかがかかってる。契約書をろくに読まないでアプリをインストールするようなやつにはハードな世界だ。まあ、おれが言いたいのは、おれは誰かの許可を取るつもりはない。ただ、安心してくれ。おれはこの業界を牛耳るつもりはない。おれは司法取引を軽蔑してる。こんなもんやってるやつはクズの水虫持ちのハラワタが腐ってるみたいな屁をこくしょーもないやつだと思ってるからだ」
「ちょっと面貸せや」
「おいおいおい! レイプか? レイプかよ! みなさーん、この人、おれをレイプするって言ってまーす!」
「はぁ!?」
「さて、これでお前はおれをレイプしようとした、天下御免の変態野郎になった。この業界で、そういう趣味を持ってると見なされたあんたはどうなるかなぁ?」
「お、お前だって、この業界にいられなくなるだろうが」
「だ~か~ら~ぁ、おれは別に司法取引を極めるつもりはないの。軽蔑してるから。こんなもんやってるやつは下痢クソ屁こき野郎だと思ってるんだよ。さて、どうする? 面貸してふたりきりになって、誤解をさらに広げたいか?」
そのこたえに顔を狙ったパンチが飛んできた。
顔面パンチが蝿が止まるほど遅く見える。華麗に避け、返礼として、まわし蹴りでまず飛んでいる蚊を撃墜し、そこから横っ面に踵をぶち込む。
――この服着てると、強くなった気がする。というか、なってる。
哀れな司法取引野郎はリングに沈む。
「よし、オットセイ。カーペットマスター。司法取引を再開だ。取引しまくって、司法制度をコケにして、金庫に閉じ込めて、鍵を捨てちまえ」




