第一話 ラケッティア、魚市場のスケッチ。
船を降りたその瞬間、喧噪に耳も気も飲み込まれた。
買おうとするやつと売ろうとするやつの一歩も譲らぬやり取り、はやく荷を船から下ろしたい商人が沖仲士を怒鳴る声、泥棒だぁ!の叫び声に巡察騎士の呼子笛。
声を上げることはこの生き馬の目を抜くようなカラヴァルヴァでは自分というものを世間に認めさせる最も簡単なやり方らしい。
もちろん公示人を雇って自分のつくった猥褻詩をひろめるのも有効だし、魔法使いの壜を小脇に抱えて人混みで自爆すれば詳細は分からずとも何かむかついてたんだなくらいには認識される。
波止場には雪の国、春の国、砂漠の国、叢林の国からもたらされた果物の色彩が積み上がる一方、船乗りたちと本番いくらと交渉している美しい花売り女たちもまた雪の国、春の国、砂漠の国、叢林の国からもたらされたらしい。
エビ漁船やイワシ漁から帰った船がエスプレ川を遡って、魚市場のあるグラマンザ橋の河岸に帆を並べている。
甲板で山盛りになったピンクの半透明な海老やカタクチイワシ(アンチョビの材料!)がスコップで荷箱に移され、桟橋に着くや買い手がつく。カラヴァルヴァという都市はとにかく海老とカタクチイワシを消費するらしい。
おれは「生臭いから嫌だ」というファミリーの文句を、しゃらっぷ!の一言で黙らせ、魚市場を見て回った。
カラヴァルヴァに長居するなら、そしておれがつくったメシをたっぷり食うつもりなら、魚市場ほどじっくり見なければいけないところはないのだ。
氷の塊の上に乗せてゆっくり殺した豆イカがどこで買えるか、オニカサゴを売る店のうち毒針を切って出す親切な魚屋はどれか、真夜中に急いで新鮮なサバが欲しくなったときどこへ駆け込めばいいのか。
冷蔵庫やネット通販がない以上、こういうことを全部事前に知っておかねばならんのだ。
分かったか、横着構成員ども。
魚市場の空は縄の絡んだ帆桁や看板、騎馬像、洗濯物、常緑樹の鬱蒼とした枝でバラバラにされている。
魚市場の地面は薄暗い黒の石床に鱗が飛び散って、プラネタリウムみたいに見える。
魚市場そのものは崩れかけた煉瓦街のアーチの連なりで、魚屋にとって、そのアーチ一つ分が縄張り一単位らしい。
典型的な魚屋というのはアーチの幅は二メートル弱で商いしている。
通路の表で女将らしいのがガラクタ箱をつかって手慣れた様子で売り台をつくり、イワシ、アジ、ペスカディーリャと呼ばれるタラの幼魚、銀色の鯛、マス、それにスルメイカらしいのをイカサマ麻雀師みたいに目にもとまらぬ早業で並べていく。
旦那は奥で大きなハタの頭を落としている。大きな顎髭を生やし、古い血が黒ずんでいる前掛けをし、大きな包丁を魚の頭に叩きつけるたびにチョッキから垂らしている魚屋のお守りメダルがぶらんぶらんと揺れる。
子どもは大人の古着をつくりなおしたもの――それでもまだ大きいのだが――を着て、さらにその奥でお得意先用のヒメジのワタを抜き、青い紙で包んで、籠に載せている。
そんな魚屋がズラッと五、六十は並んでいて、それが好き勝手に叫ぶ。
「新鮮なニシンだよ!」
「カジキマグロの肉はどうだい! 今、バラしたばかり」
「渡り蟹のいいのが入ったよ! どうだい、奥さん?」
「こら、そいつはおれの客だぞ!」
「冗談こくな。てめえの腐ったメバルなんか誰が買うんだ、ボケめ」
「おーい、品質検査官。この貝を見てくれ!」
あらわれたのは素足に木靴を履き、数十年前に支給されたボロボロの官服のすそを引きずりながら歩く小男だ。
貝を売っている男に鮮度が落ちてると難癖をつけ、小銭を巻き上げていた。そうやって魚屋から巻き上げ続けた賄賂は全部酒に使い、白い口髭の上の鼻はピエロみたいに真っ赤だ。
「なんだ、貴様」
品質監査官はおれに絡んできた。
「わしに何か言いたいことがあるんじゃないか?」
「ないよ。おれは魚を見に来ただけだよ」
「本当は何を売っている?」
「は?」
「売っているものがあるだろう。わしに見せろ。鮮度と品質を見てやる」
「だから、魚屋じゃないんだって」
「おい、小僧。わしはお前より若くて、ずっと知恵もまわったガキを牢屋送りにしたことがある。そんな目に遭うのは嫌だろう?」
品質管理官は人差し指と親指をこすって、暗に賄賂を要求した。
冗談じゃない。何で魚屋でもないおれがそんなもの払わなきゃいけないんだ。
そこに、おい、じいさん、と〈インターホン〉がずいっと前に出た。
「おれはあんたより歳を食ってて、位も上のジジイの頭を壁にめり込ませたことがある。このへんの安普請なら、そんなのわけない。試すか?」
品質管理官の顔は〈インターホン〉の膝の位置くらいにあったので、品質管理官はホントに顔が煉瓦壁にめり込む前に退散した。
「いやあ、助かったよ、〈インターホン〉」
「こんぐらいなんってことはないです」
「いやね、あんたは体がでかいから凄めばすぐ相手も退散するけど、アサシン娘や脱力忍者だとそうはいかないんだよね。世の中の悲劇の大半は人を見た眼で判断するやつが多すぎることに出発してる。ほら、今だって、わたしなら指を切り落とした、いや、わたしなら首を斬り落としたって言い合ってる。おれたち、ここにはお客さんで来てるんだから、まだ大暴れはしてほしくないわけよ」
「まあ、物事、話し合いで解決するなら、それに越したことはありませんや」
「そう。まさにその通り」
ところで築地市場のそばにうまい飯屋があるように、カラヴァルヴァの魚市場もうまい料理屋があるようだ。
サンタ・カタリナ大通り寄りのところにある店もそんな一つで、ちょっと観察していたのだが、おれが観察していたのはうまそうに湯気を上げる店先の鍋のブイヤベースではなく、そこでブイヤベースを食っている男。
そこの客は商談目的で会食しているのがほとんどなのだが、そいつは一人でメシを食っている。
なんでこの男が気になったかというと、この男を見ると、魚屋たちは品質検査官を見るみたいな目でおどおどしご機嫌を取ろうとしたからだ。
だが、そのなりは品質検査官とは程遠い。
品質検査官よりもずっといいものを着ている。
赤い胴を絞ったチョッキと牛革のブーツ。
マントとフェルト帽は後ろの壁の出っ張りに吊るしてあるが、ベルトから吊るした剣は外さずに座っている。
どうも魚市場を牛耳っている〈商会〉がいるらしい。
剣客ふうに伸ばした髭が伊達か本物かは知らないが。
そのとき、二人組の剣士が人混みから飛び出して、ムール貝を口に運ぼうとしていた赤チョッキにそれぞれ一突きお見舞いした。
赤チョッキは肩を押さえながら、コマみたいにまわって倒れた。
すぐ、あたりは悲鳴をあげて逃げる人でごった返したが、刺された赤チョッキは抜き放った剣を頭の上でふり回しながら、刺した二人組を追おうと外へ飛び出した。
だが、数歩と進まないうちから壁にぶつかってよろめき、そのまま倒れた。
しばらく倒れたまま、剣をまさぐっていたが、それもやめ、動かなくなった。
まわりに黒山の人だかりができ、事情通を自称する数人が殺られたのは投石機部隊にいたことのある殺し屋剣士で王立漁業会社の雇った連中が犯人だろうといい、別のものはレリャ=レイエス商会が黒幕だといい、犯人の二人組がサンタ・カタリナ大通りの聖アロンゾ教会に出入りしているのを見たことがあるから、これは教会絡みの暗殺組織が絡んでいるのかもしれない、などなどいろいろな説が飛び交った。
だが、これだけ軽い口もいざ騎士団の治安官と捕吏が現れると、ぴたりと閉じられ、何をきかれても、何も見ていないの一点張りで通していた。
「そこのきみ」
騎士の一人がおれを指差したので、おれは自分で自分を指差し、おれのこと?ときいた。
「きみは何か見なかったか?」
「さあ。二人組がいきなりそこの男を刺したんだ。誰かは知らない。おれは今日ここに来たんだ」
まわりの反応を見る限り、このこたえは間違っていなかったらしい。
騎士団のところで働いている労働者たちが死体を運び、誰かが血だまりに水をぶちまけて、溝に流すと、魚市場は何事もなかったかのごとく、売り、買い、食い始めた。
いいね。嫌いじゃないよ。こういうの。




