第九話 帳簿係、思わぬ才能。
午後二時、アレサンドロと帳簿係がニアミスした。
リーロ通りのパンケーキ屋台で、アレサンドロがスタンダード・パンケーキ・ブループレートのパンケーキ・オイスターに舌鼓を打っていると、その後ろを帳簿係が通りかかったのだ。
丸い眼鏡に痩せた小男で、公証人の三等書記が最後のシャツの一枚を公営質屋に入れようとしてるみたいにビクビクしていた。
しかも、命がけで盗んだコルデリノ商会の帳簿が他人の下着とシャツに変わっているのだから、これからどうしたらいいか分からない。
こうなると、この慣れぬ犯罪都市で帳簿を持っている人間にぶつかるのを期待してうろつくしかない。
心当たりは盗賊に襲われたとき、ふたり旅行の客がいたが、あのトランクと間違えたのではないかとあたりがついている。
しかし、名前も知らないふたり組を探すには、これまたどうすればいいか分からない。
どうあがいてもどうすればいいのか分からない。
せいぜい、あがけ、バカモノ、と〈いと高き万物の創造者〉が笑っている声が耳につく。
それは最近、彼に見え始めた存在で、そもそも帳簿を盗めと誘ったのも〈いと高き万物の創造者〉なのだ。
そのときは愛人にいつもより多く渡してやりたくて、カネに困っていた。そこで〈いと高き万物の創造者〉はテーブルの上に置いてある帳簿をついでに、そばの酒壜と一緒に盗んでカネにしろと誘惑し、そんなことしたらとんでもないことになると分かっていながら、盗んでしまった。
さて、現在、彼の耳をやかましくしているのは、赤い上衣にメッキの首飾りをつけたチンピラだった。
「なあ、そのトランク、おれが持ち運んでやるよ」
「いえ、その、いいんです。問題ないんです。はい」
「そう言うなって。この街じゃ助け合いが大事なんだ」
なれなれしい猫なで声でしきりにつきまとうチンピラに「どけ」と言えないが、ロンデを仕切るボスのひとりから帳簿を盗むだけの度胸はある奇妙な帳簿係は、言葉をつっかえながら、好意は嬉しいが、本当に大丈夫だと喉の奥から必死になって吐き出した。
この男の親切を疑うのも悪いかと思い始めたが、入り口に広葉樹の枝が差し出された細い路地に曲がると、すぐにチンピラは正体をあらわして、ナイフを取り出し、トランクをよこせと言ってきた。
「で、で、で、でも、パンツしか入ってないんです! いや、そのパンツもどこかでおっことして――」
「いいからよこしやがれ」
トランクから手を放した帳簿係はなぜか、護身用の小さなピストルを手にしていて、まぶたをきつく閉じて引き金を引いた。
銃声がパン!と豆が破裂したような音に似ていて、その後、ゴロゴロと痰が絡まる咳のような音がした。
恐る恐る目を開けると、先ほどのチンピラが仰向けに倒れて、喉ボトケに開いて小さな穴から泡まじりの血がばらけて飛び跳ねていた。
「人殺しだあ!」
誰かが叫んだので、帳簿係は慌てて逃げた。
〈いと高き万物の創造者〉が、お前、飛んでもねえことしちまったな、と愉快そうに並走しながら、貸したピストルを回収する。
一方、人殺しだあ!と叫んだ少年は瀕死のチンピラから財布とナイフを奪うと、捕吏や薬草師を呼ぶわけでもなく、リーロ通りの雑踏へまんまと逃げていった。
――†――†――†――
その度胸に免じておれが助けてやろう、〈いと高き万物の創造者〉はそう言った。
「助けてくださるって?」
帳簿の在り処へ導いてやる、ボケ。
「ほ、ほほほ、本当ですか?」
帳簿係は〈いと高き万物の創造者〉にすがりつき、ありがたさに涙を流した。〈商会〉の帳簿を危険な本つながりで禁呪市場に売りつけようと考える頭の堅いお馬鹿さんを助けるのは善行なのだ。
〈いと高き万物の創造者〉が教えた住所は、甲冑職人街の金塊市場のそばにある工事現場か解体現場と見間違う古い屋敷だった。壁に外付け階段を無理やりつけ、一階の旧サロンは焼き肉屋になっていた。
ここの住人はクラヴァットを首に巻いたりしない、いわゆる下層階級であり、ときどき指名手配された盗賊をかくまったりすると、大盤振る舞いがあって、まともな肉と酒にあずかることができた。
そのとき以外は犬の肉と白く濁った酒がもっぱら売りつけられる。
そこの肉を焼いているオヤジにこう言って、銀貨を二枚やれ。
「家具を買いに来た。赤い杉の棚が欲しい」
言われた通りに言って、銀貨を二枚、調理机に置くと、店主は二階の奥の部屋だ、と言ってきた。
ひどいにおいがする浮浪者たちが転がる階段を上り、最低料金のギルド未加入の仕立て屋や部屋で火を焚いて棒を真っ直ぐにする男たちが住んでいる部屋のそばを通り、奥の部屋にたどり着くと、なかから犬も食わない怒鳴り声がきこえてきた。
「カネはどこだよ! 売女!」
「そんなもんわるわけないだろ!」
「ふざけんな! あと十秒で出せ! 出さねえと――」
「出さねえと何だい? この口だけヤロー!」
すると、部屋からゴトンゴトンと何かがぶつかる鈍い音がきこえ、一分くらい経つと、
「だから、カネを出せって言ったんだ、売女。ちったあ思い知ったか」
よし、入ろう、と〈いと高き万物の創造者〉は最悪のタイミングを提案する。
「え、でも」
はやく!
ドアを開けると、油っぽい外套が下がっている棚がまず見えて、石で組んだコンロがあり、冷えた魚が乗っかった小さな鉄板がかけてあった。
ベッドの上には女が仰向けに倒れていて、男のほうは肉切包丁を探して、大きな長持ちの中身を外に放り出しているところだった。
〈いと高き万物の創造者〉はさっきのものよりもずっと大きな騎兵用のピストルを帳簿係に握らせた。
引き金には自分では絶対に触れず、そこだけは帳簿係の意志を尊重する。
帳簿係はその男を背中から撃った。
男は飛び上がって、自分が空にした長持ちのなかに飛び込んで、分厚い蓋がバタンと閉まる。
帳簿係は少し放心していたが、すぐにピストルを落とし、逃げようとした。
その襟を〈いと高き万物の創造者〉がつかんで、女はどうするんだ?とたずねてきた。
男の情婦はベッドにひっくり返っていたが、まだ生きていた。
汚れた靴下が喉まで突っ込まれていて、それを吐き出そうとして、えずいていた。
ここで〈いと高き万物の創造者〉は長持ちのなかで死んでいる男がデル・ロゴス商会の身内だと教え、これがバレたら、とんでもないことになると種明かしした。
女に顔を見られてるが、どうすんだ?
帳簿係は慌ててドアを閉めると、靴下が飛び出さないように女の口を両手で塞いだ。
「ヴーッ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
なかなか死なない女の口を必死に押さえていると、ドアを乱暴に叩く音がした。
「おい、ヘスス! お前、また夫婦喧嘩でハジキをぶっ放しやがったな! 壁に穴を開けるんじゃねえって何度も言ってるだろうが!」
「ヴヴーッ!」
しばらくドアに体当たりする音がして、鍵を開けようと、ドアノブを乱暴に引っぱる音がしたが、やがてあきらめたらしく、
「くそったれめ。鍵を変えやがって。きいてんのか、こら! お前の馬鹿な女房に言っとけ。二度とおれの店で客を取るんじゃねえ。うちは紳士の店なんだ。客を取るなら月に白銀貨で三枚払え! それとまた下らねえ喧嘩したら、追い出すからな! 台無しにした皿の分は家賃に上乗せだ。いいな!」
こうしてわずか二時間のあいだに三件の殺人を犯した気の小さな帳簿係だが、相変わらず帳簿と酒壜への道は遠いのに、気が少しばかり軽くなっていて、人を殺して気分がよくなるのはどうなのだろうと思ってもみたが、殺されたのはチンピラゴロツキの下層階級で、しかも〈いと高き万物の創造者〉が彼の犯行の倫理を保証してくれる。
帳簿係のなかで何かが変わりつつあった




