第二十話 哲学者ミツル、性善説信者から守られるための檻。
宣伝部隊が帰ってきてから数日間、特にどうということのない日々が過ぎていった。
僕が町でひとつしかない両替商の店を訪れ、金貨を銀貨に換えようとすると、頭に袋をかぶったふたり組がやってきて、従業員や客に銃を突きつけて、カネを出せ!と怒鳴った。
僕は両替したばかりの銀貨を全部渡して、両手を上げた。
ところが、太った女が銀貨が二枚に銅貨が三枚入っただけの革ハサミを絶対に渡さないとキーキー声で叫んだので、強盗の片割れが彼女の大きな獅子鼻を――すごく大きい。植民地みたいに大きい――殴った。
鼻血と悲鳴。
もうひとりの強盗はカウンターのカネを集めていたが、注意が太った女のほうに向いた。
すると、窓口係の小柄な老人が隠してあった手斧を振り下ろし、カウンターの上にあった強盗の手から指を三本斬り飛ばした。
そこから銃弾が飛び交って、僕は床に伏せたんだけど、全てが終わったときには指のない盗賊、太った女、窓口係が額に風穴を開けられて倒れていて、僕から銀貨をとった盗賊の姿は見えなかった。
僕の最終学歴は事実上の中卒だけど、ここで司法官に捕まれば、三十年冤罪裁判を戦わなければいけないのは分かる。それも相手が僕を捕まえてくれる前提だ。司法コストをカットしたいと思うなら、僕はその場で殺されるんじゃないかな?
と、まあ、ここからは選択肢の連続だ。
裏口から逃げるか、表から逃げるか。
左に逃げるか、右に逃げるか。
あるいは逃げずにここに残り、司法官たちの明晰な推理力と公平な判断力に期待するか。
何といっても、僕は丸腰だ。
そういうことで、僕が死体ひとりひとりのまぶたを閉じてあげていると――袋をかぶった賊はかぶったままで閉じてやった。死後と言えどもプライバシーは尊重されるべきだ――、ビリヤード台を買うときにお世話になった老人がひょっこり戸口にあらわれた。
「おい、お前! 何をぼーっとしてるんだ! はやく逃げろ!」
「でも、逃げるようなことはしていないんです。僕はここに両替に来ただけで――」
「ガルベスはそんなこと一切耳を貸さんぞ!」
「ガルベス?」
「あの騎兵隊の隊長だ」
「助っ人外国人みたいな名前ですね」
「ああ、やつはレバーを引いてお前さんを吊るす手助けしてくれるだろうよ。とにかく裏から逃げるんだ! そうしたら、右に走れ。絶対に左に走るなよ。わしができるのはここまでだ。生きて帰れたら、そして恩に報いたいと思ったら、またビリヤード台を買って、わしに手数料を払え。じゃあな!」
言われた通り、裏口から出て、右に走った。
右は通りに出る道で隠れる場所がないけれど、左は灌木と小屋が入り組んだ路地で誰かから逃げるならこっちのほうがいい気がしたけれど、あの老人はいいビリヤード台を手に入れる手助けをしてくれたし、何より捕まったら厄介なことになるのを承知で僕にアドバイスをしに来てくれた。
その親切を無碍にはできないだろう?
だから、言われた通り、右に逃げた。
そうしたら、どうしたと思う?
治安判事に出くわしたのさ!
つまり、カラヴァルヴァでいうイヴェスになるのだけど、こっちのイヴェスはずっと齢を取っていて、ずっと賄賂好きそうだった。というのも金の指輪が全部の指にはまっていて、大きすぎる気がする金のメダルを金の鎖で首から吊るしていて、金造りのサーベルを金のバックルのベルトで吊るして、帽子のバックルも金だった。もちろん歯も全部金歯。
服の色はボロボロで砂まみれの橙だったから、妙にアンバランスな贅沢だ。
治安判事の給料だけでこんな贅沢ができないのはイヴェスでQ.E.D.しているのだから、この治安判事は相当な賄賂を取っているに違いない。とりあえずゴールドマンと名づけておく。
しかし、逃げた先に治安判事とは。
正直、あの老人は確かにビリヤード台を買う手助けをしてくれたけど、仲介手数料が低すぎると思っていたのかもしれない。僕は治安の悪さを考えて、カラヴァルヴァ相場の三倍払ったんだけど、本当は五倍払うべきだったのかもしれない。
治安判事はこの町に住む他の老人と同じように砂色の口ひげをたくわえていて、ひどく痩せていた。
身長が百五十センチ足らずじゃなければ、あのガルベス隊長と間違えたかもしれない。
ゴールドマン判事は芝居がかった様子でヒゲを指で撫でながら、僕の身柄を確保すると宣言した。『お前には弁護士を雇う権利があるウンヌン』のミランダ条項こそ読み上げられなかったが、こんな町に凄腕の弁護士がいるとも思えない。
だって、弁護士を雇うために事務所を訪れたら、立派ななりをしている弁護士を見て、こいつに弁護を頼むより、こいつを殺して有り金全部分捕るほうがいいんじゃないか?って思っちゃうような町だからね。
「よーし、あとはわしに任せておけ。お前は騙されたと思っているのかもしれないが、とんでもない。わしに捕まって幸運だ。おい、お前ら、この客人を我々の快適な仕事場にご案内しろ」
治安判事には助手がふたりいた。双子のようで、僕は勝手にムンビとムンバと名づけた。
どっちがムンビでどっちがムンバか分からなかったけれど、それで何らかの不都合を被るようには思えなかったし、何より、彼らは手に持った古くて短い槍で僕をつつくようなことはせず、まるで近くで見物人がスマホで逮捕の一部始終を撮影しているみたいに丁寧に僕を逮捕した。
何の罪状かは分からないけど、ある種の宗教は生まれただけで罪だというのだし、罪状をでっちあげるのはさほど苦労はしないだろう。
治安判事の事務所は売春宿のある十字路のほうにあった。
濁った水たまりが消えたりあらわれたりする空き地のそば、サボテンでつくった塀に囲まれた、小さな日干し煉瓦の平屋が治安裁判所ということになっていた。
執政官が見捨てた土地では治安裁判所が市の行政を執り行うことになっているらしい。
干からびた雑草が生える狭い前庭があったが、その半分では黒い攻撃的な鶏がミミズをついばんでいて、残り半分は昔、車輪裂きの刑に使ったらしい大きな車輪がふたつに割れて転がっていた。
治安裁判所は土床の大部屋がひとつだけで治安判事の仕事場は衝立で区切られていて、その反対側には鉄の棒を何本も床に刺してつくった牢屋がひとつ。
助手たちが重い鉄の扉を動かして、僕を入れると、治安判事はふたりの助手に保釈金を受け取ってこいと命令してホテル・ミツルフォルニアへ派遣し、判事はというと、ひげを撫でながら、両親が遺した莫大な財産を相続した五歳児に話しかける物分かりのいい伯父さんみたいな甘ったるい口調で僕の立場を説明した。
「冒険者ギルドをつくるっていうのは悪くないが、ここじゃあ、犯罪者よりも取り締まる側のほうが凶悪だということは頭に入れておいたほうがいいぞ。もちろん、わしは物分かりがいい。銭さえもらえれば、犬の真似して這いつくばるさ。だが、ガルベスは違う。あいつはカネを軽視している。あいつにとって大切なのは犯罪者だ。財布にカネがないと嫌な気持ちになるみたいに、やっこさん、牢屋に犯罪者がいないと嫌な気持ちになる。牢屋が空っぽなのはホテルの空き部屋と同じで、失敗の象徴か何かだと思っているんだよ」
「牢屋に誰かが閉じ込められている限り、わたしは社会を改善する活動をやめたりしない、って偉い人が言ってました」
「ガルベスにきかせたい言葉だ。あいつは性善説を信じている。それでいて犯罪者殺しはやめない」
「論理を捨て去るのは悪くないことですよ」
「だが、人間がキレるまでの筋道くらいは残してもいいんじゃないか? そうじゃないと暮らしにくい。いちいち狂人の怒りを買ってちゃ、命がいくつあっても足りん。それでだ、お前さんの保釈金は金貨十枚だ。払えるか?」
「はい」
「よかった。いいえ、と言われたら、ガルベスにお前さんを差し出さなきゃいけなくなる。そりゃあ、あいつはやり過ぎだが、それでもタダであいつの心象を悪くするのも馬鹿らしい」
「ところで、この牢屋は大丈夫なんですか? 格子の隙間が開き過ぎているような気がするんですが」
「もう一本、鉄の棒を買える予算がついたら、その問題は改善しよう。それにガルベスはあの通り、デカい体だから、やつが牢屋に入ることはできない。この牢屋はなかから逃げないためではなく、外から入れなくするための牢屋だ。ここの犯罪者は我慢を知らない人殺しどもだが、ガルベスに狙われたら、もうそいつの命を助けるのはわしの機知次第だということくらいは分かっている。これは認めたくない話だが、ガルベスがいなければ、わしはここに存在する理由がない。わしの役目は仲介役だ。司法の側の人殺しと犯罪の側の人殺しの橋渡しさね。さあ、そろそろ、わしの金貨十枚が届いたころかな。あのバカな助手たちだって、おつかいくらいはできる」
ゴールドマン判事が気分が悪くなることは避けたかったんだけど、こればかりはしょうがない。
判事はありとあらゆる言葉でムンビとムンバを罵ることになる。
というのも、やってきたのは金貨十枚ではなく、戦闘用のフル装備をしたクルス・ファミリー御一行さまだったのだから。




