第十四話 バーテンダー、来栖ミツルが哲学者になった話。
「運んどくものは運んでおいたぜ。マグダレーナ・デル・アンリリャに住んでる従兄弟がビリヤード台を復活させたら右に出るものはいねえってやつなんだが、紹介しようか?」
「いや、いい。最初からテーブルがわりにするつもりだったから」
「ホントーにすげえんだ。ちょっと撫でただけでボロボロのビリヤード台がメスみたいな声をあげる。あれは一見の価値ありだぜ」
「いや、いいんだ。テーブルが欲しかっただけなんだ」
「でも、あいつ、メスカーロになんざ二度と来るもんかって言ってたな。あいつ、そこの売春宿で妖精みたいな処女を抱かせるって言われて大枚はたいたのにやってきたのがデブのクジラみたいなやつで、文句言ったら、張り倒されて、袋叩きにされて、町外れの砂漠のど真ん中に首まで埋められたんだと。それでどうやって助かったかと言うと、キーワードはしゃべるロバなんだが、あ、そういえば、あんた、クジラって分かるよな? 海に棲んでるデカい魚でぶよぶよしてて、脳みそがすげえいいにおいがするって――」
このビリヤード台の上では通算で銀貨五千枚の賭けが行われ、ほれぼれするようなトリックショットが十三回、殺人事件が十七回あり、血と歴史が染み込んでいた。
椅子代わりの樽をどこかから調達しないといけない。
それにまだ酒場はガランとしたままだ。
来栖ミツルはトキマルたちを連れて、矢文野郎を探しに出ていったので、ここにはジャックとイスラントだけが残り、店番をしていた。
客たちはサボテン酒と炒めた豆を頼んでいくが、最近、おにぎりがポツポツ売れ始めていた。
どこかで火事があり、町の住人の半分が火事場泥棒に繰り出して、店が暇になったところで、ジャックとイスラントはカウンターでブリキのカップを磨きながら、ちょっとした話をし始めた。
「お前が来る前のことだが、オーナーは頭を打ったことがある」
「それで?」
「ちょっとおかしくなった」
「ちょっと?」
「いや、かなり」
「普段からおかしいと思うがね」
「マフィアについて何も言わなくなった」
「それはかなりおかしいな。それで口をきかなくなったのか? オーナーの口にする言葉の十割がマフィア絡みだろう?」
「いや、オーナーはしゃべった。ただ、その内容が変なんだ」
「どんなふうに?」
「たとえば、おれはジャックで、お前はイースだろう?」
「いきなり何を言っている?」
「あのときのオーナー曰く、それは間違いだって言うんだ」
「は? 何が間違いなのかな? おれはイスラントで、お前はヨハネだ。呼び方の違いか?」
「いや、そうじゃない。オーナー曰く、おれはジャックでありながら、イースでもあるし、ウェティアでもある。お前はイースでもあり、ジャックでもあり、フェリスでもある」
「愉快な比喩とは言えない」
「それと同時におれはジャックではなく、イースでもなく、ウェティアでもない。お前はイースではないし、ジャックでもなく、フェリスでもない」
「論理が破綻しているな」
「それなんだ。論理的でないと言うと、オーナーはまず論理を捨てないといけないと言った。論理を捨てて、物を見ることで初めて、おれたちは本質を見ることができるらしい」
「相当強く頭を打ったんだな」
「オーナー曰く、本質には限りがない。限りという概念がない。ひとつの限りない平面であるらしい。それも高さを認識した瞬間にはあらゆる高さもまた本質になるそうだ。おれたちは本質として、この世の森羅万象と常に一体であって、制限はない。おれたちはこのカウンターにいると同時に〈モビィ・ディック〉のカウンターにも存在している。現状として〈モビィ・ディック〉におれたちはいないというと、オーナーはいるが、それを認識する手段を知らないだけと言った。きいていると不安になった。オーナーはこうした物のあり方そのものにはまだ名前はつけられていないが――というより名前をつける必要もないらしいが、分かりやすく言うなら、神と呼ぶのがいいだろうと言った」
「そんなことを言っていると異端審問にかけられて燃やされるよ」
「火も、焼かれるときの痛みも、オーナー自身とつながっているから心配しなくてもいいらしい。ひょっとすると、オーナーは頭を打つ前にターコイズブルー・パンケーキを三枚くらい食べたのかもしれない。本質を見ることができれば、時間という区切りの意味が消失する。時間は物事が動いていることで発生する概念だが、本質は等質化されていて動きがない。本質がただ、絶対的に存在するだけ。本質へ変化をしない。ゆえに時間は存在しないらしい」
「深刻な状態だな。どうやって、もとに戻った?」
「その場にいる全員の承認のもと、階段から突き落とした。そうしたら、オーナーは起き上がるなり、石切り場から入る予定の舗道用敷石入札のマージンはまだ入ってこないのかときいてきた」
「やれやれ」
「やれやれはこっちのセリフだぜ!」
来栖ミツルがトキマルたちと共に帰ってきた。
一日じゅう、きつい日差しのなかで無駄に歩き回った人間に宿るツンケンした雰囲気をまとっている。それは冷たい水のみが癒せるのだ。
「暑い! 暑い!」
来栖ミツルはシャツやズボンを脱ぎながら、裏庭に通じるドアを飛び出した。
ゴツン!
凄まじい音がした。
まさかと思って、裏庭に行くと、干上がった池の底で大きなたんこぶをつくった来栖ミツルが倒れている。そして、池の水はまるで来栖ミツルを成敗するためだけに干上がっていたのだと言わんばかりに再び水を湧きだたせ、魚たちも戻り、水草たちは機嫌を直し、来栖ミツルはスカリーゼ橋から捨てられた死体みたいにうつ伏せにぷかぷか浮いた。
「オーナー!」
ジャックが飛び込んで、来栖ミツルをつかんで、池の縁まで泳ぐと、ジンパチとイスラントが上から半殺し状態の来栖ミツルを引き上げた。
「頭領、死んでない?」
「誰が人工呼吸するんだ?」
「おれは嫌だ」
「クク、僕もちょっと」
「うーん。お腹を軽く踏んだら水がぴゅーって出るんじゃないか?」
試しにトキマルが来栖ミツルのお腹を踏むと、前評判通り、口からぴゅーっと水が出た。
「あはは。おもしれえ。おいらにもやらせてくれよ」
「クックック。僕もまぜてくれ」
「おい、オーナーで遊ぶんじゃない」
どうやら、肺からも胃袋からも水は出尽くしたが、トキマルたちはまだまだこのおもちゃで遊びたかった。
「亜鉛製の漏斗が物置にあったはず。誰か持ってきて」
池の水を入れた壜を構え、来栖ミツルの口に漏斗を突っ込もうとした瞬間、目が覚めた。
「おっとっと」
クレオとトキマルは壜と漏斗をサッと後ろに隠した。
「え、えーと。頭領生き返ったんだ。よかったじゃん」
「……」
来栖ミツルはトキマルの顔をじっと見ている。
結局、何も言わないまま、濡れたまま、ホテルのなかへと戻っていった。
「怒ったのかな?」
「おいら関係ねえぜ?」
「逃げることないじゃないか。ククク。罰と言っても、石にくくりつけられて水に放り込まれるくらいさ」
ちょっと様子を見にドアに近づくと、ロビー兼酒場の端に置かれたラケット・ベルの前に立ち、銅貨を一枚入れては、レバーを引き、戻ってきた一枚の銅貨を入れる作業を繰り返していた。
目が死んでいるわけではないが、活発化した黒目をしているわけでもない。
飽きてやめるだろうと思ったが、結局、来栖ミツルは三時間後、機械が銅貨を没収するまで、それを繰り返していた。




