第五十四話 ラケッティア、皇帝になりたい。
マダム・ミレリアの店〈青いユリ〉はクルス・ファミリーの本拠地から三百メートルほど離れた少し大きめの丸太小屋に開店した。
マダムと十六人のおねーちゃんたちについて知っている兵士にたずねると、〈青いユリ〉はディンメル市内にあるその手の店のなかでも最も格の高い店なのだそうな。
言ってみれば、高級コールガールだが、システムとしてはいきなりエッチするわけではなく、お店で酌婦として機転の利いたトークと男心のツボをつく甘え上手で気分を盛り上げてから、本番ということらしい。
丸太小屋にはそんなに部屋はないので、この場合、お持ち帰りになる。
なかには泥酔して狼藉を働くけしからんやつもいるが(そういうやつは特に氏族歩兵に多い)、店はクルス・ファミリーの保護下にあるので、用心棒が現れて、往復ビンタを食らわせて、店の外に蹴り出す。
用心棒にはでかい体をもてあまし、薪割りだの石砕きだのカネにならない仕事ばかりしている〈インターホン〉がうってつけだと思ったが、〈インターホン〉は思いの他ウブで、おれが〈青いユリ〉に様子を見にいったとき、〈インターホン〉は胸ぐりの大きなドレスを着た女たちが大笑いする小屋の隅で必死に縮こまっていた。
そうやって自分という存在をかき消そうとしていたのだろうが、いかんせん体がでかすぎる。
次の日には〈インターホン〉に泣きつかれ、トキマルを代役として送ることになった。
「なんでおれが」
「お前、〈インターホン〉がかわいそうだとは思わねえのかよ? 見ろ、あんなにおっかなびっくりしてる」
「アサシンどもを送ればいい。マリスとか」
「いや。マリスはダメだ。血の雨が降る気がする」
「め――」
「めんどくせー、って言うな」
「気が乗らねー」
「気が乗らねー、も言うな。別にずっと起きてろっていうわけじゃない。寝ててもいい。不届きものがおイタしたら、目ぇ覚まして、自慢の忍法でこらしめてやれってだけの話」
脱力忍者を〈青いユリ〉へ送り出し、〈インターホン〉と一緒に旅団陣地がある林道を歩いた。
そこは戦火に焼けた家が数軒立ち、その向こうはゴロゴロと石が転がっている荒れ野だ。
「なにかいい仕事ないもんかねえ」
「薪割りで十分でさぁ」
「でも、そのでかい体の使い道、見つけないと末路はあれだぜ」
おれは〈あれ〉どもを指差した。
マグナス・ハルトルドとその一族がこのクソ寒いのに諸肌脱ぎになり、「皆殺しじゃーっ!」と声が割れるほどに叫びながらハンマー片手に荒れ野を走り、転がっている石を片っ端から叩き割っていた。
「力の矛先考えないとあんなふうに野獣と化す」
「うーん」
〈インターホン〉も野獣になるのは嫌と見える。
デカルトは難しい問題はバラバラにして個別に解決しろというけれど、逆に問題をいくつか一度に解決できないかと知恵を絞る手がある。
おれが目下抱えている問題は〈インターホン〉の力の持ち腐れとディンメルに見せつける大型ギャンブル。
この二つを一度に解決する手段。
「あ、ボクシング。ボクシングなんてどうだろ?」
「ボクシング?」
「拳闘だよ。人、殴るのは得意だろ?」
「そりゃあ、まあ」
「ちょっと待てよ――そうだ! それだ! 旅団別対抗ボクシング大会! みんなが熱中するし、賭けの胴元にもなれるし、〈インターホン〉も活躍できる。一石二鳥じゃん! そうと決まれば、さっそくプロモートだ!」
――†――†――†――
各旅団には最高司令部命令として、旅団で一番殴り合いが強い男を選び、人類最強の男を決める拳闘大会に出場させるべしと通達した。
案の定、氏族歩兵旅団をはじめとする各旅団では旅団の名誉をかけた殴り合いが行われ、代表が選出されるまでにおよそ百リットルの鼻血が流れ、カネが飛び交った。
十二人の代表選手が決まるころには兵士たちはすっかり拳闘大会に夢中であり、そして、賭けの胴元としては一番カネを持っているクルス・ファミリーが信用できるということでほぼ独占の形で旅団対抗拳闘大会のギャンブルを牛耳ることに成功した。
「ガーハッハ、今日も笑いがとまらんわい!」
久々にマフィアらしいラケッティアリングができた。
アメリカのボクシングは1950年代過ぎまで一人のマフィアに牛耳られていた。
フランキー・カルボ。別名〈ボクシングの皇帝〉。
もとは殺人株式会社の殺し屋で、殺人で起訴されていたのだが、リトル・ニッキー・レンジリーの失踪で起訴が取り下げられ、会社解散後はルケーゼ・ファミリーに入った。
カルボは殺し屋という、いつまでも使われる立場では面白くないと思ったのか、いくつかの有望なボクシング・ジムをカネとコネと暴力で掌握し、ウェルター級とミドル級のボクシングを牛耳った。
興行の利権もがっちり握っていたので、カルボの言いなりになって最低一度は八百長試合をしないと、どんなに強いボクサーでも世界タイトルに挑戦できなかった。
いや、今回の大会では八百長は仕込みませんよ。
そりゃダンジョンのことで前科一犯ですけどね、でも、おれは足を洗ったんです。信じてください、刑事さん!
――と、いうより、この拳闘大会は『狂騒の20年代作戦』の一環として行われるのだから、真面目に盛り上げないといけない。
敵にもよく見えるよう場所に注意してリングを設置し、これもまた敵によく見えるようにラウンド・ガールを手配して、音楽、食い物、酒、その他もろもろ、ああ、やることが多すぎる!
――†――†――†――
いろいろあって、あっちこっち走り回って、段取りがついて、落ち着いて、ふと思ったことがある。
名前だ。
例の監獄で、元の姿に戻ってしまったとき収監者の名前を来栖ミツルに変えようとしたのだが、元の名簿にはドン・クルスと書いてあった。
ドンは敬称であって、ファーストネームじゃない。
いや、ドナルドの愛称がドンにはなるが、おれの知る限り、ドナルドなんてファースト・ネームのマフィアはいない。
名前、なまえ、ナマエ。
イタリア系マフィアというのはイタリアという自分たちの出自にこだわり、マンマのイタリア料理が一番だと郷土愛を強調するが、名前となると、ことのほか原型が分からなくなるくらい、アメリカナイズする。
洗礼名サルヴァトーレ・ルカーニアはチャーリー・ルチアーノに。
洗礼名フランチェスコ・カスティーリャはフランク・コステロに。
洗礼名コンスタンティノ・パオロ・カステラーノはコンスタンティノをなかったことにして、ポール・カステラーノに。
洗礼名トンマーゾ・エボリにいたってはトミー・ライアンと名乗り、これだけではイタリア系かどうかも分からない。
それもこれも自分たちの名前が英語で正しく発音されないことに端を発している。
またサルヴァトーレをサリー、コンスタンティノをコニーと女の子風の名前に変えられておちょくられることもあったようだ。もちろん、おちょくった連中がどんな目にあったのかは推して知るべし。
思うに世の中の悲劇は相手を知らずにからかうマヌケが多すぎることだろう。
さて、ドン・クルスの名前だが、いろいろ候補は上げてある。
カルロ、ニコロ、サルヴァトーレ、ヴィトー、ボナヴェントゥーラ、フィオレンツォ、ジュセッペ、アントニーノ、ヴィンチェンゾ。
「なあ、どれがいいと思う?」
と、インディアン・ポーカーをしているアサシン娘にたずねても、マスターはマスター、という不毛なこたえが返ってくるので参考にならない。
カルロ・クルス。ニコロ・クルス。これは物足りない。
ヴィトー・クルス。すっきりまとまっているが、もう一声欲しい。
サルヴァトーレ・クルス。悪くない。いい感じだ。
ジュセッペ・クルス。おもしろくない。
ヴィンチェンゾ・クルス。これも悪くない。
ボナヴェントゥーラ・クルス。仰々しすぎる。
「なあ、どれがいいと思う?」
と、一人おいちょかぶをしている脱力忍者にたずねても、頭領は頭領、という不毛なこたえが返ってくる。
クルス・ファミリー内部には「トマトはなぜ赤い?」「赤いから赤い!」とこたえるような循環敗北的知性がはびこっているようだ。
次。
サルヴァトーレ・クルス。ドン・サルヴァトーレ・クルス。
ヴィンチェンゾ・クルス。ドン・ヴィンチェンゾ・クルス。
「なあ、どれがいいと思う?」
と、簿記を教えるエルネストと簿記を教えられる〈インターホン〉にたずねると、
「サルヴァトーレがいいと思うよ」
「おれもサルヴァトーレがいいです」
やっと建設的な意見が出た。
「じゃ、ヴィンチェンゾで」
あまのじゃくであることも、ボスの務めだ。
ドン・ヴィンチェンゾ。いい響きだ。
おれにお願いがある連中がおれの耳元でこの名をしゃがれた声でささやくのを思い浮かべるだけでも燃えるじゃないか。




