第三話 ラケッティア、パンがなければ革命的カノーリを。
むかしむかし、タイヤ屋の兄弟がいた。
どのくらい昔かというと、シチリアのテルミニ・イメレーゼからトラビアへ向かう汽車のなかではノタルバルトロ侯爵が二十七回刺されて死んだよりは新しいが、その犯人と見なされるジュセッペ・フォンタナが高跳び先のニューヨークでジュセッペ・モレッロとサルヴァトーレ・ダクイッラのマフィア戦争に巻き込まれて撃ち殺されたときよりは前のことだ。
ノタルバルトロ侯爵とフォンタナの命日に挟まれたこの時代、まだ自動車は物凄い高級品であり、馬のための蹄鉄鍛冶はたくさんいても、自動車修理工場はほとんどなかった。
タイヤ屋の兄弟は安心してドライブを楽しめるようにと、数少ない自動車修理工場の場所が記された本を書いた。
せっかくなら休憩のためのレストランやホテル、観光名所も掲載しようということで、世人のドライブが楽しくなりますようにと、これを無料で配布した。
ある日、タイヤ屋の兄弟は仕事上付き合いのある修理工場に出かけたが、そこでショッキングなものを見る。
なんと、彼らが楽しいドライバーの休日を、と願いを託したガイドブックが傾いた作業台の下に何冊か、油べっとりの、ボロボロのぐちゃぐちゃの状態で積み重ねてあったのだ。
タイヤ屋の兄弟はこのとき学んだ――人はカネを払って手に入れたものでないと大切にしないと。
――†――†――†――
カノーリ十万個つくっちゃった!
いやあ、大変だけどやりきった。
パン屋とお菓子屋さん、ありがとう。お父さんお母さん、ありがとう。
それに市内の〈商会〉のみんなもありがとう。
おれのカノーリ無料配布に同調してくれて!
正直、どんな得があるのか分からないけど、クルス・ファミリーがやることだから間違いないだろう、と協力してくれて、ホントーにありがとう!
カノーリ配給所として、ピンクの紙とクソ安い材木でつくった一大施設をロデリク・デ・レオン街とサンタ・カタリナ大通りと北河岸通りの交差する広場につくった。
ここは普段は晒首の広場なのだが、今日はおいしいお菓子の広場になる。
配給派遣社員のクルス・ファミリーのみんなもありがとう!
正直、おれがパンを無料配布すると言ったとき、みんなが、は? という顔をした。
それもカノーリで配るときいたときは、もっと、はあ? という顔をした。
ただ、はあ? という顔をしなかったやつが身内ではふたりいる。
スヴァリスとセディーリャだ。
やつらは、ああ、と心得た顔をした。
トラブルメーカーなふたりだが、おれの仕出かすことに対する理解力がある。
「つまり、マスターもトラブルメーカーなのです」
と、アレンカは言った。
まあ、そうなのだろう。
同類相憐れむというわけかどうかは知らないが、何だかんだでスヴァリスやセディーリャとは波長が合う。
ただ、おれとあのふたりの違いは、おれはトラブルを起こしても、ちゃんとみんなが儲かる仕組みをつくって逃げるが、やつらはトラブルを起こして、そのままどっかに行ってしまう。
やつらに必要なのは立つ鳥跡を濁さずの精神だ。
――†――†――†――
カノーリをタダで配る、というが、これはカノーリを三分の一の額で売るよりもはるかに難しい。
タダより高いものはない、ということわざは、そのタダにありつけなかったバッド・ラックなブラッダの負け惜しみだ。
タダはタダだよ。
消費者心理としてはタダのものにありつけないことはマイナスだと思ってしまう。
タダメシにありつけないことは愚劣の印であり、恥ずかしくて家族親戚近所のおばちゃんに顔向けできない。
やつはタダのカノーリにありつくこともできない甲斐性なしだ、バカだマヌケだ、だからお前はダメなんだとさんざん言われる。
そんなこと言われたら、タダより高いものはない、って賢そうなこと言うしかないじゃないですか。
うんうん。分かるよ。よーく分かる。
でも、そんな甲斐性なしが次の日にカノーリを人よりふたつ多めにもらったら、もうみんなのスーパースター、世界を救うのは勇者でも異世界人でもなく、この男だ! っとヨイショされる。
父親はこんな息子を持てたことを誇りに思い、母は滂沱の涙を流し、弟妹たちは兄ちゃん兄ちゃんと夢中でしがみついてくる。
そんななかで、カノーリをひとつももらえなかったやつらが、タダより高いものはない、なんて言っているのを見ると、プークスクスなわけよ。
その点、考えるとティッシュの無料配布はすげえ。
あれ、もらわない人結構多いじゃん。
もちろん、おれがこっちの世界に飛ばされた後、謎のウィルスが世界的流行を見せて、他人の触ったものに触りたくないという恐怖の潔癖パラノイアが当たり前になっている可能性もあるが、おれが消えたとき、世界はまだ配布ティッシュを受け取れるメンタルだった。
にもかかわらず、受け取らないものがいるのだから、すげえ。
配布にはクルス・ファミリーの他にサンタ・カタリナ連合会の元傭兵たちにも協力してもらっている。
日給はスモークサーモン・サンドイッチ十個。
カノーリは日持ちがしないからということで、パンとサーモンになった。
もう配布現場は大混乱だ。
『おれたちが警備する!』と大きな口叩いた〈清貧派〉のクソ民兵どもは開始十分で消えた。
たぶん雑踏に踏みつぶされてるんだろう。
「落ち着け! ちゃんと全員に行き渡る量はある!」
「ちょっと、きみ! ボクは見てたぞ。また列に並んでるだろ!」
「第一配給拠点よりシップに火力支援要請。グリッド座標は453323……」
まるで人肉むしり取る狼男のごとくカノーリをむしり取る。
人混みのなかからひょいとギデオンの顔が出てきた。
「カノーリ、もらいに来ました。ふたつお願いします」
「ほら、おれがつくった特大カノーリ。イヴェスはどうなんだ?」
「〈清貧派〉から目をつけられてますよ。こんな無秩序。先生が許すわけないですからね」
「むしろイヴェスこそ元祖清貧な気もするけど」
「先生は自分は清濁併せ吞むタイプだと思ってるんです」
「限りなく清に近い清濁併せ呑むだな……あっ、ギデオン! 特大カノーリもうひとつ持っていけ!」
「別にもらえるなら、もらいますよ。でも、あなたが僕に特別な便宜を図るなんて、――怪しいですねえ」
「いいから、もらってけって。これ、おれお手製特大カノーリ、最後のひとつ」
「まあ、ありがとうございます、って言っておきますよ。じゃあ、はやく先生にカノーリをお届けしたいので。まだ風邪なんです」
ギデオンはお帰りはこちら、と〈インターホン〉が巨大プラカードを持ち上げているほうへ消えていった。
ふむ。イヴェス。
おれのなかではイヴェスは、フランス革命でいうロベスピエールって感じなんだよな。
ん? そうすると、ギデオンはサン=ジュストか?
「タスケテーッ!」
ギデオンが悲鳴を上げている。
そりゃそうだ。
だって、やつの後ろには来栖ミツルお手製特大カノーリを狙うヨシュアとリサークがいたんだから。
タダより高いものはない。
そういうことだよ、サン=ジュストくん。はっはっは。




