第二十話 留守番、ジャックの場合。
その日の午後三時、空の青が少し褪せて黄色い光が目立つようになるころ、〈モビィ・ディック〉には汚職警吏がひとり、カウンターのスターバック一等航海士がボートの舳先に立っている模様のあたりで泥酔して突っ伏していた。
「外に運びだすか。ヨハネ、脚を持て」
そんな話が持ち上がったところ、水を浴びたような殺気を感じ、ああ、クレオがやってくるのかと思い、イスラントとジャックが待っていると、いつものぴったりとした上衣にカボチャパンツとタイツを黒で統一したスタイルのクレオがクマで縁取られた大きな目を刺そうとする赤い髪先を除けながら入ってきた。
「クックック、景気はどうだい?」
「それほどでもない」
「そうか。もしよかったら僕の暗殺を手伝ってくれないかな?」
と、言いながら、カウンターの上、ぐーすか寝ている悪徳警吏の顔の前に長さ五十センチのワイヤーの両端に取っ手らしき棒を結んだ絞殺具を置いた。
「なぜ、自分でやらない?」
「今日、母さんからベリー・ジャムが届いたんだよ」
「それが?」
「母さんからベリー・ジャムが届いたら、二十四時間暗殺はしないことにしているんだ。ただ、もうこっちは今日中に始末するって約束していてね。ククク。納期の遅れはアサシンの信用問題になる」
「まあ、いいだろう」
イスラントが絞殺具を取ってポケットにしまうと、ジャックがコーヒーブレイクの札をドアにかけた。
「おれも行こう」
「お前の手助けは不要だ、ヨハネ」
「いいから連れていってくれ」
「ふん。まあ、いいだろう。足を引っ張るなよ。それで、クレオ。どういう段取りになっている」
「僕がフリーで受けている仕事で使っている家がサン・イグレシア大通りにあってね。もう、そこを一日借りてある。標的がおびき寄せられたら、背後からそのワイヤーでキュッとしめてくれればいい」
「簡単すぎてあくびがでるな」
「ククク。頼もしい限りだよ」
シデーリャス通りの海洋商業学校前を歩きながら、イスラントは暗殺者をアサシンと呼ぶ風潮についてひと言モノ申した。
「それに意味があるのかい?」
「礼式の問題だ」
「ククク。暗殺に礼式。面白いね」
「おれは気にしたこともなかったな」
「ヨハネ。だからお前はダメなんだ」
「ダメなのか?」
「ダメだ」
「そうか……(しゅん)」
「だ、ダメと言っても、そこまでダメというわけではない。ヨハネは、その、なんというか、まだ取り返しがつくダメだ」
「そうか……ならば頑張ろう」
「ククク」
アルトイネコ通りからサン・イグレシア大通りを東に曲がる。
そこはインチキ商法や偽の貴族状で富を築いた嘘つきたちの邸宅が並んでいた。
カラヴァルヴァは一大寒気のなかにすっぽり入り込み、酔っ払いが凍死したり、炎属性の素材が高価格で取引されたりしたが、何より薪泥棒があらわれた。
来栖ミツルがいれば、すぐ組織化に走るくらいの規模で薪がかっぱわれていた。
かっぱらうといっても、薪である。ただの死んだ木の切り身であり、道端の木の枝を拾ったくらいの罪状ということで刑罰は禁固三日である。
牢屋は寒いが、外よりはマシだし、最低レベルでも食べ物がもらえるので、浮浪者たちは警吏たちの目の前で薪をかっぱらった。
こんなことなら三日といわず冬のあいだぶち込んでくれればいいのに、と言った浮浪者がいたとかいないとか。
「おい」
と、ジャックが前を歩くクレオにたずねる。
「なんだい?」
「どの屋敷だ?」
「テュロー屋敷だよ」
「ああ」
「知っているのか、ヨハネ」
「幽霊屋敷だ」
「馬鹿馬鹿しい」
「いや、おれたちの酒場に既に幽霊がいるだろ」
「出待ち幽霊か」
「ああ。クレオ、もう何度か仕事で、その屋敷を使っているんだろ? 幽霊は見たことがあるか?」
「ないね。クク。そもそも、人を殺して暮らしてだいぶ経つけど、一度も殺した相手が化けて出たことがない」
「おれもだ」
「だが、アサシン――」
「暗殺者」
「……暗殺者以外の人間はおれたちが殺した相手の幽霊に悩まされ、自殺するものと信じている」
「ククク。それはある種の応報観念だよ」
「おれたちが死ねばいいと思っているわけだ。ふん。構うものか」
「妙な話だよねえ。ククク。もし、僕らが社会に必要とされないなら、僕らは消滅してしかるべきなのに、今日もこうして暗殺指令が下る。それに大枚をはたいてね」
「そういえば、クレオ、ファミリーで暗殺が解禁されてだいぶ経つが、得た金は何に使っている?」
「義手の改造かな。あと母さんへの仕送り」
「ベリー摘みは儲からないのか?」
「再婚もしてるし、ベリー摘みだけでも悠々暮らせる。ただ、まあ、孝行息子を気取ってみただけさ。クックック」
邸宅街として、どちらが高級かの論争がサン・イグレシア大通りとシデーリャス通りでたびたび引き起こされるが、確かなことはどちらの通りもろくでもないカネで建てられたということだ。
テュロー屋敷は最初はテュローという男爵の持ち物だった。
テュローは百年前、農民一揆を皆殺しで解決した功で大金を得て、この屋敷を建てたのだが、農民たちの亡霊に取り巻かれ、発狂して、溶けた鉛を飲んで死んだ。
まだ三十二歳だったが、死体は九十の老人みたいに干からびていたという。
屋敷の居間に入ると、早速、暖炉に火を入れて、芯まで冷えた体を温めた。
「相手は誰なんだ?」
「アゴスト・アゴスティアノ」
「なんだ、そのふざけた名前は」
「レリャ=レイエス商会の身内だ。まさか粛清か?」
「そういうことさ。クックック」
「黒のジョヴァンニは身内の粛清をお前に外注したのか?」
「ククク」
「どういうことだ、ヨハネ?」
「レリャ=レイエスみたいな堅い組織が部下殺しを外に頼むなんて普通はあり得ない。つまり、普通じゃない事態が起こっているってことだ。これは黒のジョヴァンニは知っているのか?」
「知らないんじゃないかな? あるいは覚えていないか」
「どういうことだ?」
「花柳病にやられたらしい。もう、自分が何を言っているのかもきちんと理解していない。ククク」
「黒のジョヴァンニが――」
「昔、まずい娼婦を抱いたんだろうね。それがここにきて、急に発症した。手の施しようがないそうだ。ククク」
「まずいな」
「何がまずい?」
「黒のジョヴァンニが殺されるかもしれない。おそらく聖院騎士団や〈聖アンジュリンの子ら〉がここを突破口に尋問してくる。そのとき、黒のジョヴァンニが自分が話すことを制御できなければ、〈商会〉全体に厄ダネが降りかかる」
「また抗争か? ケレルマンのときのように」
「どうだろうな。跡目が決まっていれば問題はないが、そもそも黒のジョヴァンニが継いだときだって、抗争一歩手前まで行ったんだ」
「せめてミツルが帰ってきてくれればねえ。クックック」
「これで第二世代もほぼ全滅か」
「第二世代?」
「第一世代はオーナーがここに移住したとき。グリード絡みの抗争で全員死んだ。後を継いだのが、シグバルト・バインテミリャ、ガエタノ・ケレルマン、黒のジョヴァンニ、ウンベルト二世。そして、シグバルト・バインテミリャが死に、ガエタノ・ケレルマンは終身刑、黒のジョヴァンニがこれで粛清されれば、残ったのはウンベルト二世とオーナーだけだ。オーナーが最古参ということになる」
「マフィアっていうのは、そうそう長生きできるわけじゃないんだねえ。クックック」
「アサ――こほん、暗殺者よりもやっていることが手広い分、攻撃対象も大きくなる」
クレオは応接間のカーテンを全て閉め、蝋燭を一本つけた。
そして、柱時計並みの大きさがある箱のなかに小さなパイプオルガンとバイオリンが入ったオーケストリオンのネジを巻き、すぐ横のガラス棚にある大きく薄い金属製の円盤を機械に取りつけた。
曲はクラウス・ライツェンバッハの劇曲『暗殺者』で主人公の暗殺者が何かのはずみで少女を殺し、あらわれた少女の亡霊に悩まされ、申し訳程度の恋愛をして、最後は命を絶つ。
「彼らは何が何でも僕らに死んでほしいらしい。クックック」
「それで、おれはどこにいればいい?」
「このオーケストリオンの陰はどうだい?」
「やかましそうだが」
「それだから足音がきかれない」
「ふむ――いいだろう。いつ殺すかはおれが決める」
「それでいいよ。ククク」
「じゃあ、おれは案内役をしよう。クレオがここで待っていれば、おれがアゴスティアノを連れてこよう」
イスラントが絞殺用のワイヤーを手に大きなオーケストリオンの陰に隠れると、ジャックはそのままテュロー屋敷の玄関広間にある蝋引きの椅子に座り、アゴスティアノが来るのを待った。
前庭にアゴスティアノの瘦躯が見えると、ジャックがドアを開けた。
「クレオ・クレドリスはどこだ?」
「奥にいる。案内しよう」
「やつとは一対一で会うことになっているんだがな」
「あんたたちが話すとき、おれは外している」
「どうも気に入らない。おれは帰る」
「なら、出口はあっちだ」
「……」
「……」
アゴスティアノは腫れたようなまぶたのあいだから、いまにも飛び出しそうになっている目でジャックの体格と自分の膂力を比べた。
少し癖のある黒髪の若者に対し、アゴスティアノは何かの薬物の常習癖のせいですっかり肉が落ちている。戦えば負けるだろう。
だが、ジャックがまだ十代であることを考え、ここで帰れば、威厳に関わると思ったアゴスティアノは、
「ちっ、まあ、いい」
と、生死にかかわる決断をした。
ここで帰っていれば、あと五日くらいうまいものを食べて、いいスケを抱けただろう。
ひんやりとした空気が床にたまった部屋をいくつか通り過ぎる。
手燭の蝋燭が投げかける灯のなかにかつての持ち主テュロー男爵のグロテスクな胸像や最後にクレオが借りてから誰にも掃除されないで埃をかぶった家具が見えた。
後ろでは植物油で撫でつけたアゴスティアノの髪がテカテカしている。
家具や柱が光の輪のなかに入って、闇のなかに逃げるとき、必ずそっちを見ている。
クレオとの取引はひどく緊張するのか、人間の疑心暗鬼な一面を増幅させるのか。
屋敷は寒く、そこにクレオの(最近では少しはマシになってきた)ゾクッとする殺気が重なれば、普通の人間なら神経過敏になるのもしょうがない。
オーケストリオンが鳴り出し、荘厳な前期回帰派を代表する巨匠の劇曲が響いてきた。
「おい、なんだよ、これは?」
「ただの音楽だ」
背の高いドアを開ける。
クレオがそこで待っている。
ジャックはアゴスティアノを通し、自分は外に出た。
三分くらいして椅子が倒れる音がしたので、ドアを少し開いて覗き込むをイスラントの絡めた絞殺用ワイヤーがアゴスティアノの首に絡みつき、そのまま、クレオが座っているテーブルから部屋の隅へと引きずられていく。
「これで終わりか」
ドアを閉めて、ふたりが後始末するまで待っていようとドアを閉じかけたそのとき、ジャックは見た。
首に食い込んだワイヤーが肉に食い込み始めたのを。
ジャックは部屋に飛び込むと、
「目を閉じろ、イース!」
と、叫んだ。
「なんだと?」
「いいから閉じろ! 閉じたまま絞めるんだ!」
よく分からないが、イスラントは目をつむった。
そのあいだにワイヤーは肉を切り裂く。
「ゲェ……グ、グエェ……」
「おい、ヨハネ! 目をつむれとはどういう意味だ?」
「問題ない。そのまま続けろ」
ワイヤーは頸動脈を斬り、モップ掃除五十分ものの血だまりをつくった。
「よし、死んだ。まだ、まぶたは閉じているんだ」
ジャックは目をつむったイスラントを部屋の外に押し出し、もうまぶたを開けてもいいと言った。
――†――†――†――
死体の始末は普段付き合っている肉屋に業務委託し、外に出る。
今にも雪が降ってきそうな灰色の雲が重そうに浮いている。
ひと仕事終え、助太刀の払いは現金がいいか、ベリー・ジャムがいいかとたずねられ、ジャムでお願いする。
テュロー屋敷の前庭を歩きながら、話題は(イスラントにとってだけ謎の)『目を閉じろ』だった。
「ああでもしないと、イースは倒れる」
「なんだと? いつ、おれが倒れた?」
「ああ。そうだな。お前は倒れていない。不滅の氷の暗殺者。だが、とにかく目はつむっておいて正解だ」
「そんなこと言われなくても――」
そこでイスラントの言葉が止まった。
目は見開かれ、ジャックの顔を指差し、小さく開かれた口から、あ、あ、あ、とアの字のささやきが途切れ途切れにきこえてくる。
頬に手を触れ、ジャックは自分の顔に飛んでいた一滴の血を見た。
「ああ、くそ」
ぶくぶくぶく!




