第二十五話 テキヤ、よろしく貯金。
大好きなサウナで長椅子に寝転んでいると、夢とうつつの境目があいまいになる。
マルムハーシュはアデラインを見かけた気がしたし、話をした気もした。
「やあ。アディ」
「久しぶりね」
「うん」
「まだ傭兵を?」
「うん。いや。たぶんもう傭兵にはならないかな」
「クルスに行商をまかされてるってきいたわ」
「輪投げ屋だよ」
「便利屋みたいなことをしているって――」
「それは、まあ、副業というか、人助けというか。本業は輪投げ屋だよ」
「ちゃんと暮らしていけてる?」
「この通り、ぴんぴんしているとも。お礼にお風呂屋のタダ券ももらえて文句なしだ」
「相変わらずお気楽ね」
「?」
アデラインは目線を自然と外した。
ふたりの仲が終わったときも今のような顔で「?」とされたのだ。
あのとき、マルムハーシュは〈剣神〉と呼ばれた騎士であり、アデラインはセヴェリノ王国の諜報員だった。
マルムハーシュに近づいたのは任務のためだったが、それが本当のものに変わったのがいつ頃だったのか、彼女はもう思い出せなくなっていた。
――†――†――†――
風呂屋を出て、奇跡のようなおいしさのコーヒー牛乳を飲んだ。
硝石と濡れた砂をまぜた冷却樽で冷やされた、甘くて、まろやかなこの飲み物はまさに銭湯から出たばかりのときに飲むための飲み物だ。
お代を払おうとすると、コーヒー屋はもうドン・ヴィンチェンゾからお代をいただいていると言って、首をふった。
ドン・ヴィンチェンゾ。
マルムハーシュに「?」を連続させるこの存在はカラヴァルヴァでは神に等しい存在のように語られ、神のように罰するものとして畏怖されている。
そして、奇妙なことにマルムハーシュが誰かのトラブルを解決するたびにドン・ヴィンチェンゾによろしくお伝えください、と言われるのだが、マルムハーシュはドン・ヴィンチェンゾに会ったことがないので、伝えなければいけない『よろしく』が五十回以上たまっていた。
そろそろ覚えきれないほどの回数になりそうなので『よろしく』を言ってしまいたいが、マルムハーシュはドン・ヴィンチェンゾの顔さえ知らない。
「どろぼーっ!」
見ると、ぼろ着をつけた孤児の姉妹がパンを抱えて逃げている。
マルムハーシュはパン屋を引き留め、自分がかぶるといって、パンの代金を渡した。
「でも、旦那。いいんですか?」
「戦場にいたとき、ああいう孤児をたくさん見たんだ。そのときはあげられるパンもお金もなくてね。だから、わたしに功徳を積ませると思って。ね?」
「うーん――じゃあ、おれも代金は受け取りません。マルムハーシュさんがそう言うんでしたら。自分もたまには功徳を積むとしましょう。それと、ドン・ヴィンチェンゾによろしくお伝えください。新しい揚げパンを考えたので、今度食べに来てくださいって」
また伝えなければいけない『よろしく』が増えてしまった。
――†――†――†――
「やあ、アディ」
にこにこと笑いながらリベッキオがやってくる。
こもった生活音が遠くからきこえる裏路地。音を立てなければ殺されても発覚はしない場所を連絡場所に選ばれたときは終わりかと思ったが、そうではないようだ。
「リベッキオ。連絡役があなたに変わったとは知らなかった」
「あー、ルビッチは粛清されたんだよ」
「なぜ?」
「最高幹部会議がね、カラヴァルヴァ攻略が膠着してることに少々ご立腹でね。ぷっ、攻略が膠着だって。あれ、膠着が攻略?」
「それで、わたしへの伝言は?」
「カラヴァルヴァがこんなに手強い理由を知りたがってるんだ」
「弁護士が片手間で犯罪に手を染めているようば場所とは違う。そう伝えて」
「オーケー。ところでルビッチはこの作戦に関わってちょうど五十日目だったんだ。アディ、きみは何日目だっけ?」
「四十八日目よ」
「ひえー、数えてるんだ。じゃあ、話は分かるよね」
リベッキオが軽やかな笑みの余韻を裏路地に残して去っていく。
事実上の期限付き死刑宣告だ。
組織はカラヴァルヴァ攻略がうまくいかず、焦っている。
後任が決まるまで、アデラインは生かされる。
だが、その先はない。
これまで自分がリベッキオの立場にいたので、この先に起こることは分かっている。
予想以上に手強く、計画は大きな変更を求められるが、それを行うための人員が刻一刻と死んでいく。後、期待できるのは――。
アデラインの眼線の先で〈ハンギング・ガーデン〉が豊穣の緑をまとい、全人類に与えられた問いかけのように立っている。
「?」
「!?」
振り向いたが、誰もいない。
「ミカエル……」
ミカエルが生きていた。それが知ることができただけで満足するよう自分を説得させる必要があるのかもしれない。命にあきらめをつけ、過ちの償いを考えるときが。




