第二十話 テキヤ、死のスープと釘。
以前は川に叩き落したのだが、最近では妙な執着が生まれ、ゼルグレは屋台のそばで毛布にくるまって寝起きするようになった。
いつ誰に襲われてもいいように剣を抱いて壁に寄りかかって寝たので、小石がぶつかる音や野良犬の鳴き声にいちいち目が覚めた。
五回目か六回目に目が覚めたところで、東の空が村に火でもつけたみたいに赤くなり始め、思わず左手で日光を遮った。
顔に落ちた手の影は悪魔のものにしか見えず、この手がバッタに触れるのを見たものもいたはずだが、構わずバリバリ食べていたな、と、ふと思い出した。
見れば、呪われた左手がうずき、ぶすぶすと焦げる音がした。
チッ、と舌打ちすると、大きなバケツ鍋を手に路地を東に道をとった。
死んだ家畜をバラバラにする嫌なにおいがするのは大きな中庭からだった。
そこには病気で死んだ牛やくたびれて死んだ老馬が集められていて、革の前掛けをつけた肉屋のオヤジたちが斧をふるって、骨や腱を断ち切っていた。
大きな疫病が流行ったときに骸骨の死神が馬にまたがって王侯貴族庶民を問わず死をばら撒く風刺画があるが、あの死神の馬そっくりの痩せ馬がこの中庭の主力商品なのだ。
死のスープ、などと御大層な名前だが、要するに戦場で死んだか、あるいは移動中にくたばった馬や牛でつくったスープだ。
骨と皮とスジしか残っていなくて、はっきり言って食えたものではないが、戦場ではそれが最高のごちそうだった。
「それ、首が飛ぶぞう!」
「そら、腹を割るぞう!」
顎ヒゲに袋をかぶせた肉屋たちが斧をふるうたびに掛け声が上がり、瘦せこけた馬の首が転がり、病気の斑点にまみれた牛の腹から汚れた臓物があふれ出す。
流れる黒ずんだ血は敷石の継ぎ目に染み込みは悪臭のする病気のハラワタにはさすがにゼルグレも手が出なかったが、一見、死獣処理場には似合わない上品な紳士が最高にまずそうな紫色の腸を鍋いっぱいに買っていったのは不思議だった。あるいは上品な紳士を専門にしたスリか何かかもしれない。紳士らしい装いにカネを使いつくして、食費を削るために病気のハラワタを買っていく……
「おい、そこの傭兵崩れ!」
くたばった畜生の肉相手に剣をふるって稽古でもしているやつがいたのかと思ったが、どうもゼルグレのことを言っているらしい。
「おれに言ってんのか?」
「そうだ、お前だ。ドン・ヴィンチェンゾの御大に仕事もらったんだろ?」
「違う。そんな名前のやつじゃなかったし、若かった」
「じゃあ、来栖ミツルのほうか。まあ、いい。何が欲しい?」
「馬の脚の肉。骨付きで」
ほとんど骨と皮になった馬の脚がたちまち叩き切られ、それからは骨も筋も無視した山刀で三つにぶった切られて小銭と引き換えにバケツ鍋に放り込まれた。
「〈ちびのニコラス〉の一階に爆弾が投げ込まれたってよ」
「おれには関係ねえ」
すると、別の肉屋が、
「爆弾を投げたんじゃねえ。自爆したんだよ」
「マヌケな話だ。自爆したら報酬も使えねえ」
「ヤクでラリってたんじゃねえのか?」
「ディアボロスっていう東セヴェリノの連中だって話じゃねえか。クルスに喧嘩売るなんて、どんなヤクきめたらそんな無茶できるんだ?」
「そんなにすげえのかよ、クルスってのは?」
ゼルグレがそうたずねるころには肉屋も客も集まって、今度の抗争について一家言あるところを見せようとあれこれ適当なことが言われていた。
「すげえっておめえ、カラヴァルヴァで一番デカい〈商会〉だよ」
「でも、商会じゃねえ。ファミリーなんだよ」
「忠誠には恩恵を。裏切りには報復を」
「ドン・ヴィンチェンゾと来栖ミツルってのが、恐ろしく頭が切れるんだ。ムショにぶち込まれても儲け話をつくって、そいつで敵をのしちまうんだ」
「おれたちは今度の抗争じゃ賭けをしてるがな、クルス・ファミリーが勝つか負けるかじゃなくて、勝つまでに何日かで賭けてる。クルスが勝つに賭けたら、どこの賭け屋も受け付けねえよ、そんな賭け。クルスが勝つのは分かり切ってることなんだしよ」
「勝ったに賭けられたとしてもよ、オッズが低すぎてマイナスになって、勝ってさらにこっちが払うことにならあ」
「万が一にも負けるとは思わないのか?」
「そりゃ、兄ちゃんは傭兵だからよ、戦争の経験があるだろうさ。戦争は何があるのか分からねえだろうし、万が一ってのがあるだろ。でも、抗争は違うんだよ。万が一ってもんがねえ。結局はカネを用意できたやつが勝つんだ。ほら、兄ちゃん、あれを見ろ。あの塔はな、世界一のカジノで、途方もねえ銭をクルスにもたらしてるんだ。クルスだけじゃねえ。あそこに牛を卸してるやつも酒を卸してるやつも大儲けできる。魚屋もパン屋も大儲けできるし、魚やパンを運ぶ連中も大儲けできる」
「それにカネだけじゃねえ。殺し屋だって勢ぞろいだ。マリス、アレンカ、ツィーヌ、ジルヴァのアサシン・ガールズには誰もかなわねえって評判だ」
「爆弾エルフ姉妹もいる」
「バーテンダーのジャックもアズマのトキマルもいる。やる気はないが、いつでも戦える」
「イスラントって新しいバーテンが入ったな。あれも氷の魔法剣士で血を見るとあぶく吹きながらひっくり返るのが珠にキズだが、血さえ見なけりゃなかなかやる」
「〈インターホン〉と〈サツ殺し〉シルヴェストロ・グラム」
「フレイって子もなかなかやるぜ」
「アレサンドロ・セレステ=ヴィセンテの殺人パンケーキも忘れちゃいけねえ」
「こんな感じでとんでもねえ連中が勢ぞろいしてる。そこに大量のカネがあるんだから、負けようがない」
「ディアナ・ラカルトーシュは?」
ゼルグレがたずねると、モツを買った紳士が言った。一本道を歩いていて、前からサアベドラ、後ろからディアナが歩いてきたら、そいつにできることは足元を掘って、自分の墓穴にするくらいだ、と。
――†――†――†――
死のスープの下ごしらえはまず骨にへばりついた極薄の肉をナイフでそぎ落として、鍋に入れていくところから始める。そして、骨を叩き割って、髄がむき出しになるようにして、これも鍋に放り込む。その後は売れ残りの野菜と安売りの古米をたっぷりぶち込み、鷲づかみにした塩を三回入れて、親の仇でも打つみたいにさじで肉と骨を突く。旨味があるとは思えないが、少しいじめれば、多少は出てくるかもしれない。
悪趣味な男がいて、死んだ駄馬でつくった死のスープに討ち取った敵将の首をぶち込んで、人肉スープだと称した弓兵がいた。弓兵のあいだで流行っている冗談だと言った。
この死者のスープはあっぱれなことにこれだけ煮込んでも脂がぜんぜん浮いてこない。
生きているあいだに体じゅうの脂を使い尽くし、それでも重労働を課され、命そのものを文字通り削った結果死んだ駄獣だ。怨念はあれど、脂はない。
脂。腸を絞って出た脂を買う手もあったが、うまくしてどうする、自分にはこんな仕事は向かないことを世に知らしめるために死のスープをつくるのだ。
塩っ辛いスープとそのスープを吸い込んで膨らんだ米、茶色い紙きれみたいな肉、黒ずんだくず野菜。
見た目はスープというよりは錬金術師の実験結果だ。
さあ、食えるものなら食ってみろ。
――†――†――†――
二時間ほどすると、ゼルグレは空っぽのバケツ鍋を手に馬肉を買いに中庭に戻っていた。
だが、死肉市場は雑巾でぬぐい取られたみたいにきれいさっぱりなくなっていて、他の中庭をのぞいてみたが、どれも同じ。取引は終了で、立つ鳥跡を濁さず。
今日は店じまいだな。
そう思い、空っぽのバケツを下げて、リーロ通りを横切ると、粉をふったパン生地を持ったマルムハーシュを見つけた。
「あんた、何してるんだ?」
「パン生地を持っている」
「それは見れば分かる」
「こちらのおばあさんがね。困っていてね」
見れば、マルムハーシュの後ろに腰の曲がった老婆がひとり。
「やってくる孫にパンを焼きたいのだけど、パン屋で買った生地が重くて困っていたんだよ」
「……あんたの仕事は?」
「女の子に銅貨三枚で留守番をさせている。知っているかい? いまのわたしは雇用主なんだ」
ははは、と笑いながら、パン生地を捧げ持ち、角を曲がって、〈剣鬼〉は消えた。
ゼルグレが白ワイン通りに出ると、クルス・ファミリー最凶の魔法使いが「ひーっ! 助けて―っ、なのですーっ!」と叫びながら逃げ、その後ろを愛に生きる小売り王ミミちゃんが「ペロペロ! ペロペロしましょう! アレンカちゅわん! ねっ!?」と追いかける。
さらにその後ろをカラヴァルヴァ一の資金力と武力を持つといわれる犯罪組織のボスが、
「こらあ! 待てえ! この変態自販機ぃ!」
と、平たい木箱を抱えて追いかけるのだが、
「ひー、疲れた」
と、まもなくへたりこんだ。
「……なにやってるんだ?」
来栖ミツルはぜえぜえいいながら、顔を上げた。
「おお、戦場メシ屋じゃないか。なにをしてるって? 見りゃ分かるだろ。歩く青少年健全育成条例違反を取り締まろうとしたんだけど、疲れて疲れて……ああ、そうだ。これ、やる」
箱からバケツへ銀色の魚をどさりといれる。
「なんだ。これ?」
「ニシンダマシダマシダマシ」
「魚の名前をきいてるんじゃない。なんで、あんたはおれや他の傭兵に構う?」
「どうしてって言われてもねえ」
「おれには迷惑なんだよ」
「ああ。そういうことなら、安心しろ。同情とか慈愛の精神でやってるわけじゃない。きちんと打算がある。骸騎士団ってきいたことあるか? まあ、あるだろうな。傭兵なんだから。失業や負傷した傭兵の扱いを誤ったら、どうなるか、こっちは身をもって体験してる。だから、あんたらを助ける。そりゃテキヤ事業の収支はマイナスかトントンだ。でも、おれの商売全部で考えれば、治安維持の面で黒字に大きく貢献してるんだ。利益は何も売上から費用を引くだけで出すとは限らない。だが、一番の理由はこんなもん持ちながら走ってなんていられないからだ。じゃあな。おれはこれから幼女をひとり救いにいく」
バケツを見ると、鱗がとられた食いでのある大きさのニシンダマシダマシダマシが十尾。
遠くから来栖ミツルが「つい今さっきの釣れたて!」と叫んだ。
「チッ。なんなんだよ」
ゼルグレは屋台に戻ると、魚の頭を落として身を開き、次に焚火をつくった。
そして、そこいらに放置してある板に身を開いたニシンダマシダマシダマシを釘で打ちつけ、板を火のそばに立てかけた。
身はじりじり焼けて、脂が染み出し、それが表面をカリカリにして旨みが逃げるのを防ぐ。
傭兵仲間に恐ろしく投網がうまいやつがいて、そいつがサラマンカラで戦死するまでは、ちょくちょくこんなふうに魚を焼いた。
フライパンがなかったり、大勢の分を一度に焼くときにこうやって板に打ちつけるのだ。
だが、ゼルグレのいる隊は夜襲に失敗して、大勢が死に、結局、フライパンで焼くだけの人数しか残らなくなった。
香ばしい焼き魚のにおいにつられて、住人たちが集まる。
「おい、うまそうなもんを焼いてるじゃねえか」
「さすがに魚は鮮度がよくなきゃな」
火のそばにしゃがんでいた呪われた剣士は一匹いくらで売ろうかとぼんやり考えながら立ち上がった。




