第十五話 犬耳釣師、脂の玉。
釣師の釣果は常に偽られる。
魚屋はその共犯だ。
だが、ついてくる猫たちは真実を語るだろう。
『狂気の釣師の備忘録』より
名前は思い出せない。
だが、任務は覚えている――ヴィンチェンゾ・クルスの抹殺。
絶対に遂行しなければならない。でないと、エミールが――。
木製のテーブルを挟んで、犬耳の剣士がハフハフと吹きながらベーコンとインゲン豆の炒めものをさじですくい上げ、口に運んでいる。
「どうかしたか?」
突然、話しかけられ、驚く。
「なにも」
「そうか」
小さな埃が舞っていて、それがロムノスの耳に触れると、パパッと動いて払われる。
どうもロムノスは意図せずそれをやっているらしい。
よくパパッと動く。
自分を監視するためにいるのだろうか。
〈ちびのニコラス〉ではなく、ここに連れてこられている時点で相手が暗殺を警戒しているのかもしれない。
でも、それなら、どうして殺さないのだろう。
追いつめられた暗殺者が最後に行く場所の名として〈ちびのニコラス〉と来栖ミツルの名は知られているが、伝説は本当で来栖ミツルは自分が逃げてきた暗殺者と思っているのだろうか?
「今日は二十階に行く」
「二十階?」
「そこは何が釣れるの?」
ロムノスが珍しく、ふ、と笑った。
「何がおかしいの?」
「お前も立派な釣師助勤になった」
「わたしは――」
「分かってる」
「え?」
心臓が止まりかける。
「魳に挑戦したいんだろう。だが、ダメだ。おれたちの力量では魳は無理だ」
――†――†――†――
来栖ミツル曰く、私設賭け屋に必要なものは世界じゅうのスポーツの試合とそのオッズを書く大きな大きな黒板と、賭けを受けつけるための大量の黒電話、眼鏡に口ひげ、不機嫌そうに煙草を吹かす事務員軍団とその紫煙ですっかり濁ったカラッカラの空気。これは伝統であり、必要なものであり、ロマンである。
これに縄張りの電信会社をめぐる買収戦争で死人が出れば、完璧である。
しかし、残念なことにこの世界には電話がない。
来栖ミツルもひとつくらいは妥協しなければならないのだ。
ニ十階のスポーツ賭博フロアでは伝書鳩と睡眠不足の占星術師が伝えるスポーツの最新情報をもとに、もふもふが梯子を上って黒板にオッズの変更を書きつけ、客たちはオッズとにらめっこして、カネを張る。
「ラ=マレス侯爵の勝ちに銀貨十枚!」
「ベタンティコの勝ち点三、銀貨二十枚!」
「レアル・ブルゴ、単勝、金貨二枚!」
扱うスポーツはゴールの形がテントでボールを持ってもよく殴ったり蹴ったりできる死者の出るサッカー、国営競技場の国王の名を冠する賞金付きレースから誰も知らない村競馬までの競馬、そして、貴族同士の馬上槍試合が人気だ。
オッズが常に動き、それに合わせて客が殺到する受付では丸眼鏡にぐるぐるの渦巻をつけたもふもふたちが羽根ペンをインク壜に突っ込んでは凄まじい記憶力と事務処理能力を発揮して、台帳に賭けをかきこんでいる。
伝書鳩が足に結んだ紙片ひとつひとつで歓喜する人、後悔する人が激しく入れ替わるこの二十階はおそらく世界で一番大きなノミ屋なのだが、それと同時に淡水タラのよい釣り場として知られている。
ノミ屋のフロアには膝くらいの深さの池が点在していて、そこに夜行性の淡水タラが穴のなかに棲んでいる。鯰に似た体のぬるっとして顎から一本ヒゲの生えた淡水タラはそこで寝ているのだが、餌についてはいつでもOKで口の前に来れば食べる。
石垣のあいだや木の根の股に穴があり、六十センチくらいの棒の先に泥鰌を刺した釣り針をかけて、穴に突っ込む。
タラがいれば、即食いつく。棒を外して、釣り糸を引っぱれば、タラが引き出される。
ロムノスと少女はズボンを膝までめくり上げて、見つけた穴に片っ端から泥鰌の釣り針を突っ込んでみると六匹の淡水タラが釣れた。
見た目の悪い魚だが、もふもふの厨房に持ち込めば、おいしいスープになる。
――†――†――†――
金色のスープに浮かぶ脂の玉はふたつに分かれたり、ひとつにつながったりする。
名前を忘れても、任務は忘れない。弟の名は忘れない。
殺さなければいけない名前を忘れない。
「おい」
ロムノスがさじを止めて、話しかける。
「スープが冷めるぞ。煮凝りが好きなら話は別だが」
「煮凝りは――苦手」
「おれもだ」




