第八話 犬耳釣師、挫折を知る。
ひねりも機知もない言葉が
最も痛切に真実を言い当てることもある。
だから言おう。
鮒で思い上がった初心者を魳が打ちのめす。
『狂気の釣師の備忘録』より
少女の目が覚めたが、ロムノスは何もたずねなかった。
ロムノスとしては王こと来栖ミツルから預かった客人という扱いだったので、好きにさせることにした。
ただ、一度だけ、
「わたしの鞭はどこ?」
と、たずねた。
「お前は王の客人だ。だが、まだ武器を返してもいいほど信用したわけではない」
「そう……」
「だが、人に害を与えること以外であれば、好きに過ごすといい。ただし、この塔の外に出ることはダメだ」
そう言い、出ていった。
「……」
閉められた扉をじっと見つめる。
カラヴァルヴァの郊外まで逃げたことは覚えているが、そこから先は記憶がない。
このエルフ風の緑の部屋は、塔、と呼ばれる場所にあるらしい。
ベッドから体を出してみると、刺された左わき腹が少しうずくが、それでも想像よりは傷が治っている。
組織に差し出されると思っていたけど……。
トントン、とノックの音。
蔓草が巻きついたドアフックがカタンと下にまわる。
「でちでちドクターでち」
丸眼鏡をかけたもふもふが白衣を引きずりながらあらわれる。
「目が覚めたみたいでよかったでち。でも、傷が塞がったばかりだから無理は禁物でち。それとお名前を教えてほしいでち。ロムノスは教えてくれないでち。でも、患者名簿に記載したいから教えてほしいでち」
「名前……分からない」
「でち!?」
「思い出せない」
――†――†――†――
十七階の宿泊フロアで酔っ払いが暴れたので、部屋に押し込める。
「助かったでち。僕らがいくら言っても肉球をぷにぷにしてきて、きいてくれなかったでち」
「あれは商人か?」
「なかなか賭けっぷりのいい人なんでちけど、お酒を飲むと荒れるのが珠のキズでち」
「もう大丈夫か?」
「大丈夫でち。今ごろは寝てるでち」
「何かあったら呼んでくれ」
「でちっ」
さて、ロムノスはというと、持ってきた竿と仕掛け、それに魚籠を手に二階下の池を目指す。
十五階はフロア全部が池になっていた。
水は八本の滝から流れ続けて、流れのはやいところも、池のように水が止まるところもある。
ここは水場で散歩をしたり、舟遊びをするための場所として人気がある。
見渡せば、葦がきれいに生えそろった浅瀬、棒杭に結んだ小舟、マングローブの迷路、沈みかけた遺跡……。
詩人や画家のモチーフに使うであろう、神秘の光景も釣師が見れば、どんな魚がいるか――その一語に尽きる。
浅瀬には『産後の鮒がいそうないい釣り場だな』
小舟には『ウグイが日よけに使いそうないい釣り場だな』
マングローブには『淡水タラが住みそうないい釣り場だな』
遺跡には『エルドラドが潜んでいるかもしれないいい釣り場だな』
じゃあ、詩人で釣師、画家で釣師ならどうなるか――もちろん釣り優先である。
たとえ彼が皇帝で釣師でも釣りが優先である。
さて普通の鮒に早速飽きてきたロムノスはさらに大物を狙うことにした。
突撃魳である。
河魳の仲間であるこの魚は恐ろしく泳ぐのが速い。
突撃の名は伊達ではない。
不注意な釣師がこの魚を釣り上げるとき、たも網を使わずに手をエラの下に突っ込んで取り込もうとした瞬間、突撃魳はその泳力の限りを尽くし、つまり突撃し釣師の体のど真ん中を貫通した、という逸話があるほどだ。
人に自慢できるのはだいたい全長八〇センチで体重は六・五キロくらいから。
ただ釣れるのはほとんど三キロから四キロである。
『狂気の釣師の備忘録』によれば三〇〇センチ、七十キロのものもいるというが、著者は実際に見たことがない。一七三センチ、三十八キロを釣り上げたことはある、とのことだ。
さて、突撃魳だが、速く泳ぎまわる魚らしく広い場所の水面下から深さ一・五メートルのあたりを泳ぎ回る。
貪欲な魚で何でも食べる。
ミミズ、小魚、海老蟹からカエルや水鳥、果ては人間まで。
マン・イーターと同じでこれの巨大なものは魔物として扱われることもある。
初心者がよくやるミスは普通のハリスを使ってしまうこと。
そのハリスが馬毛十本縒りだろうがニ十本縒りだろうが、突撃魳の鋭い歯が一瞬のうちに切ってしまう。
だから、突撃魳を狙うときは必ずハリスは鉄線にする。
これにすると、餌の動きが制限されるが、突撃魳は餌に対する警戒心はないから、餌の動きが不自然でも簡単に食いつく。
ロムノスは小舟を借り、小さな針にミミズをつけて、手ごろな大きさの鮒を四匹釣った。それを網に入れて舟のヘリから放り出すと、鮒の一匹に魳鉤を背中に刺し、釣具店〈逃がした魚は大きい〉で買い求めた大物釣りの竿を振り出して、浮きの姿をじっと見つめる。
餌の小鮒の動きがちょいちょい浮きを沈めにかかるが、浮きもまた大きなものを使っているので、全部水面下に引き込まれることはない。
突撃魳釣りはしょっちゅう移動する。
突撃魳は餌があれば問答無用で食べにくる魚なので、食いがないというのはそこに突撃魳はいないということだ。
分かりやすいといえばわかりやすい。
ロムノスの脳裏には六キロとはいわなくても五キロはある突撃魳を見事釣り上げる姿を思い浮かべた。大きなたも網も買ってあるから体のど真ん中をぶち抜かれる心配もない。
……そう思った時期が彼にもあった。
きっかけは奇妙な浮きの動きだった。
浮きが水面に真横に寝たのだ。
こんなこと『狂気の釣師の備忘録』に書いてあっただろうか?
備忘録を取り出して、当たりのページをめくると、活発に泳ぐ魚は基本的に針にかかったら底を目指したり真横に走ったりするが、ときどき食い上げることもある。
つまり、餌を食べたらそのまま上に泳ぎ、そのために浮きが寝るのだ。
そこであわせてみると、鉤がかかった。五〇〇センチ、一五〇キロの超大物が。
ロムノスは舟ごと池じゅうをさんざん引きずりまわされて、最後の最後でぐうんと竿がOの字になるくらい曲がってからブチン!とハリスが切れた。
切断された鉄線を見ると、名刀でスパッとやったみたいにやられていた。
――†――†――†――
その日はもう気力が尽きた。
まだ日は沈んでいなかったが釣りはやめにした。
家に戻ってみると、あの少女がポツンと寝台のそばの床に座っていた。
「……何をしている?」
「何も」
「……」
「……」
ロムノスは沈黙に耐性があるからいいが、来栖ミツルなら『ごめん! カノーリ食べたくなっちゃった!』と言って逃げたことだろう。
「フィフィからきいた。記憶がないそうだな」
こくん、と少女がうなずく。
「そうか」
「……」
明日、もう一本竿を買ってこよう。
記憶がないなら一日部屋にポツンといるより、外をまわったほうが何かのきっかけで名前くらいは思い出すかもしれない。
……それにたも網をもたせる人間がいれば、魚をバラす確率も減る。
『備忘録』にはそう書いてあるのだ。




