第一話 ラケッティア、ムスタシュ・ピート。
参った。
ひょんなことから高級口ひげを五十個も売りさばかなきゃいけなくなった。
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よい子のパンダのみんなは『ムスタシュ・ピート』という言葉をきいたことがあるだろうか?
直訳すると口ひげピートだが、マフィアの世界では1890年代からの古いタイプのマフィアを言う。
キリストを磔にしたユダヤ人と組むのは絶対禁止。同じイタリア系でもシチリア人以外と組むなとかいう連中のことだ。おまけにカポ・ディ・トゥッティ・カピ、つまり『ボスのなかのボス』という称号にこだわり無駄な殺し合いを続けた連中。
代表的なボスだと、ジュセッペ・マッセリアやサルヴァトーレ・マランツァーノ、サルヴァトーレ・ダクイッラ、それにニューヨーク・マフィアの生き字引的存在であるジュセッペ・モレッロ。
禁酒法時代、こうした古い連中はラッキー・ルチアーノやフランク・コステロといった若い世代に打倒され、マフィアに新時代が巻き起こった、というのが一般的な解釈だ。
確かに19世紀末の古い欧米人の顔を見ると、みんな立派なひげを生やしている。
というより、ひげを生やすのが常識だったのだ。
こんな話をきいたことがあるのだが、第一次大戦前のオーストリア=ハンガリー帝国では将軍たちはヒゲを生やすのが義務だった。
皮膚病やもともとまばらな生え方をするなど、理由があってヒゲをたくわえない場合は軍にヒゲ生えませんと届け出を正式に出さなければいけなかった。
そもそも第一次大戦で欧米人の楽観的な伝統主義が木っ端みじんになるまで、人はみな大人に見られたがったので、ヒゲは当たり前だった。
第一次大戦でそうした考え方が木っ端みじんになったころ、つまりラッキー・ルチアーノら新しいボスたちが二十歳になったころは逆に若く見られることが流行り、ヒゲは剃り落とされ、二十年代の狂乱のジャズエイジへと突入していく。
そんなわけで第一次大戦前からマフィアのボスをやっていた連中は口ひげをたくわえる古い考え方の連中で、ヒゲをたくわえていない新しい考え方のボスたちのよってトミーガンで蜂の巣という名の強制的世代交代をさせられた、というのが、このムスタシュ・ピートのお話なのだ。
で、このお話には穴がある。
それはムスタシュ・ピートと呼ばれる古い時代のマフィアで口ひげをたくわえているやつがひとりもいないのだ。
本当にひとりもいない。
ジュセッペ・マッセリアも、サルヴァトーレ・マランツァーノも、サルヴァトーレ・ダクイッラもみんな口ひげなんてないのだ。
マフィアの生き字引ジュセッペ・モレッロは口ひげをたくわえていたが、それは1880年代、モレッロが二十代に撮られた警察写真での話であって、1930年、63歳で殺されたときの写真を見る限り、口ひげは生えていない。
それに古い世代といっても、年齢は新しい世代のボスたちよりも十三、四歳くらい上なだけなのだ。
生き字引モレッロは別である。この人はタフで狡猾で、異常に長生きした。
いや、待てよ。
禁酒法時代に口ひげをたくわえてたボス、ひとりいた。
フロリダ州タンパのボス、イグナツィオ・イタリアーノだ。
1928年、クリーヴランドのマフィア・サミットに呼ばれて、その席で一網打尽に逮捕されたのだが、そのときのイタリアーノはもう前世紀的なカイゼルひげ、髪もひげも真っ白け、そのときの年齢はなんと七十歳!
当時のシカゴでボスたちが二十代でバカスカ殺されたことを考えると、凄まじい長生きである。
これ、もろにムスタシュ・ピートじゃん!って思ったけど、悪いな、のび太、このサミットは『新しい世代のマフィア』限定なんだ。
この白髪、白ヒゲ、七十歳のおじいちゃんマフィアは新しいタイプのマフィアだったのだ。
しかも、この人は畳の上で死ねた。当時の新聞は『裕福なイタリア人実業家、死去』である。
新しいタイプのボスたちでも自分が齢を食うころには殺されたり、終身刑を食らったり、国外追放を食らったりしたのだから、この本物のムスタシュ・イグナツィオはそんじょそこらの若いボスよりも一枚も二枚も上手を行くボスなのだ。
それにムスタシュ・ピートと目されたボスたちが頑迷なシチリア人至上主義に囚われた目先の利かないジジイの集まりだったかというと、ちょっと違う。
まず生き字引モレッロはニューヨークで初めてマフィアのファミリーをつくったボスだが、この人は自分より若く、才能のあるジュセッペ・マッセリアに代を譲って、自分は最高顧問的な地位におさまった。
というのも、このとき敵対ファミリーとの抗争や警察の検挙が激しくなったので、ボスではなく隠れボスみたいになったのだ。
つまり、ムスタシュ・ピートが自分より若いムスタシュ・ピートに代を譲ったわけだが、それというのはその新しいボスのマッセリアが禁酒法施行と同時に酒の奪い合いが起こるだろうと見て、イタリア人以外の犯罪組織と手を結び、密造酒の武装輸送サービスを考え出したりした商才のあるボスだったからだ。
それで新旧ムスタシュ・ピートが手を結んで何をしたかというと、別のムスタシュ・ピートであるサルヴァトーレ・ダクイッラと抗争した。
じゃあ、このダクイッラが頑固で分からず屋のボスなのかというと、この人もずる賢く、あちこちの対立ファミリーにスパイを送って、操ろうとしたというボスなのだ。
実はこの人は生き字引のモレッロの部下だったのだが、1910年にモレッロが偽札刷って逮捕されると、あっという間にモレッロの組織を乗っ取ってしまった。
数年後、シャバに戻ったモレッロは速攻でダクイッラに寝返った幹部三人を血祭りに上げて、ダクイッラに宣戦布告したのだが、ダクイッラは主要なマフィアのボスたちを集めた会議で多数派を形成し、モレッロ一派に死刑宣告を行うなど外交面でも優れていた。
そして、なによりダクイッラは政治家をポケットに入れて、うどん屋チェーンの無料トッピング券みたいに使うことができた。
フランチェスコ・カルーソという部下が娘を病気で失ったとき、担当した医者が笑ったと誤解して殺してしまった。当時はイタリア人に対する風当たりがかなり強く、カルーソは死刑判決を食らったが、ダクイッラが判事や政治家に手をまわして、無期懲役に減刑させ、さらに国外追放で決着をつけた。
カルーソはシチリアで帰る船で泣いて感謝し、他の子分たちもボスはすげえコネをもっているし、それを自分のためだけに使わず手下を守ってくれるぞと士気が高まったという。
モレッロ=マッセリア連合は手強くずる賢いムスタシュ・ピートだが、このダクイッラも相当なものなのだ。
最終的にダクイッラは1928年にマッセリアらによって妻と四人の子どもが見ている前で撃ち殺されたが、1928年、マフィアの世界で何が起きたかよい子のパンダのみんなは覚えているね?
そう。クリーブランドのマフィア・サミット。
これが開かれたのはダクイッラが殺されて、その後の縄張りとかは大丈夫なのか?という会議だったのだ。
逆に言えば、それだけの勢力をダクイッラは持っていて、その跡目争いでシカゴみたいなドンパチが起こるんじゃないかと心配したのがこの会議なのだ。
実はモレッロ=マッセリア連合 VS ダクイッラの戦争も結構激しいドンパチをしていて、カタギが巻き込まれて死んだりしているのだが、そのうちひとりはアグネス・エッグリンガーという十歳の少女だった。
現実日本で暴力団同士の抗争でたまたま通りがかった十歳の女の子が流れ弾で死んだら、どんな恐ろしいことが起こるか想像もつかない。
当時のアメリカでも相当キツイ手入れを食らいまくったし、他の都市にも波及したので、あんなのはもうごめんだぞと言って、善後策を考えた。
こうしてみていると、ムスタシュ・ピートはその後の1950年代のマフィアとそれほど変わりがあるようにも見えない。同じくらい狡猾で、同じくらい欲が深く、同じくらい人を殺した。
確かに、モレッロやダクイッラはシチリア人同士の結束を大事にしていた。
というより、シチリアの出身都市でまとまった。
モレッロはコルレオーネ出身、ダクイッラはパレルモ出身、マッセリアの出身地であるメンフィは派閥を形成できるほどの人数がいなかった。
だけど、モレッロもダクイッラも同じ出身地で固めたのはそれが当時一番いい方法だったからであり、後に組織が拡大期に入ると、抗争で潰れたナポリのカモッラ系ギャングを配下にし、カラブリア系を配下に入れたりとシチリア島以外のイタリア人をどんどん吸収している。
ところが、ここに最後のムスタシュ・ピートであるサルヴァトーレ・マランツァーノが出てくる。
はい。ゴッドファーザー・モードのおれです。まあ、ジョセフ・ワイズマン演じるサルヴァトーレ・マランツァーノだけど。
このサルヴァトーレ・マランツァーノ、マフィアの名産地であるカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ出身で自分のファミリーはこのカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ出身者で固めました。
おお、じゃあ、こいつがムスタシュ・ピートやんけ、って思うでしょう?
このマランツァーノはモレッロ=マッセリア連合を相手に戦争をして、マフィア史上最も大きな抗争であるカステランマレーゼ戦争を引き起こした。
どっちが勝ったと思う? マランツァーノです。
勝因は何だと思う? 同じ出身地で固めた結束力です。
最初はモレッロ=マッセリア連合が数で優っていたのですが、まずモレッロが速攻で殺され、その後も殺し合いを重ねていくうちに、シチリア人以外もどんどん配下にしていった〈新しい〉マッセリア・ファミリーはその寄り合い所帯が崩れ始め、逆にマランツァーノのほうは出身地の絆で固まり、いつの間にか勢力が逆転してしまったのです。
つまり、シチリア人にこだわらない新しいムスタシュ・ピートがシチリア出身どころかカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ出身にこだわった古いムスタシュ・ピートのマランツァーノに負けたわけです。
じゃあ、なんでムスタシュ・ピートなんて変なことを言ったのかというと、それは歴史は勝者によって書かれるものだからです。
つまり、新しいマフィアの代表であるラッキー・ルチアーノらはこのマランツァーノを殺して、成り上がったわけですから、なにか大義名分が欲しい、それで時代遅れなボスのステレオタイプである〈ムスタシュ・ピート〉が生まれたわけです。
でも、ラッキー・ルチアーノが新しいタイプのボスではないとは言いませんよ?
確かにこれまで述べたムスタシュ・ピートは新しいですが、ラッキー・ルチアーノは本当に新しすぎて、すごすぎるボスでした。
でもね、この人が国外追放されると、新しいボス陣営で勝った連中が五大ファミリーのトップをシチリア人で占めちゃって、しかも、あれだけ古い古いと馬鹿にしたカポ・ディ・トゥッティ・カピ的立場にこだわり、1950年代には泥沼の抗争を繰り広げます。
ボスたちがコンクリの靴履かされて海にダイブしたり、ブルックリンの外れの沼地で見つかったり、床屋で撃ち殺されたり、頭に弾食らって危うく死にかけたり、敵対ファミリーに拉致されたと思ったら二か月後にへっちゃらな顔でカムバックしたりととにかくめちゃくちゃで、そのめちゃくちゃなのを何とかしようといって、ニューヨークの片田舎のアパラチンに全米のマフィアのボスが集まって、そして一網打尽に逮捕される。
あれ、これ、前にもやってなかった?
――†――†――†――
あーあ。どうやって売りさばくかなあ。このムスタシュ・ピート。
とりあえず、ブランド名はムスタシュ・ピートだな。
だって、これ、たぶん本物のヒゲだよ?
それがさ、ニス縫った黒檀のビロードの内張した箱に入ってやがんの。
付けヒゲさまさまって感じで。高級品。
定価は金貨一枚。日本円換算で三万円。
ちなみにだけど、カラヴァルヴァのボスたちはみんな口ひげ生やしてます。
黒のジョヴァンニも、フェリペ・デル・ロゴスも、バジーリオ・コルベックも、そして、もちろんヴィンチェンゾ・クルスも。
カサンドラ・バインテミリャだけじゃない? 口ひげたくわえてないの。でも、もし男だったら、かなり豪快なヒゲをたくわえてると思うよ。
……この付けヒゲ、カサンドラ・バインテミリャに売ってみるか。いや、殺されるな。
ちなみにクルス・ファミリーでひげをたくわえているのはカールのとっつぁんとグラムのふたりだ。
カールのとっつぁんは白い見事なサンタクロース、グラムは口ひげプラス無精ヒゲ。
あ、待てよ。
カラヴァルヴァのボスクラスで、もうひとり、口ひげないのがいた。
ドン・ウンベルト・デステ二世伯爵。
まあ、若いってのもあるけど、口ひげたくわえられないほど若くない。
二十代前半だから、やろうと思えば、できる。
でも、やらない。
つまり、ヒゲが疎らで伸ばしてもコソ泥みたいになるんだと思う。
今はなき一世のほうは(精霊の女神よ、あの人間バンザイ主義者に祝福を)立派なヒゲがある。黄色い口ひげと二又に分かれた顎ヒゲ。
……これは売れるかもしれんね。高級付けヒゲ。
ただ、その前に、なぜおれがこんなもんを五十セットも抱えるハメになったのか教えておこう。
――†――†――†――
そいつは端整な顔のイケメンだったので、あとはロン毛かどうかだが、これが判断に困った。
そいつの髪の毛は両端が悪魔の角みたいに上に尖っていたのだ。
それを除けば普通の髪の長さだが、その角が下に垂れたら、確実に肩より下に落ちる。
これは今までに見なかったタイプだぞと身構えたが、何よりもそいつ、ケツから先端がスペード型になった悪魔の尻尾がひょろりと結構な長さで生えていたのだ。
……まあ、魔族のいるこの世界、悪魔がいたっていいじゃないか。
で、その悪魔かもしれないやつが、これを売ってみないかと高級口ひげを五十個も持ち込んだのだ。
なんで、そんなもんをおれが買ったかというと、こいつにはどこかセディーリャを思い出させるところがあった。
慇懃無礼なセディーリャといった感じだ。
まあ、面白そうだと思ったのは確かだ。
そいつはセールスをするだけやると、夢でお会いしましょう、なんて、おれは口説かれてるのか?と勘違いしたくなるセリフを言って帰っていった。
どこに帰ったのかな? 地獄か魔界じゃね?
ともかく〈ラ・シウダデーリャ〉の二階の事務室に残ったのは、おれと高級付けヒゲ五十個と、まだ、そこらを漂っている、悪魔的微笑みの甘ったるいにおいだった。
さっきまでここには馬肉の串焼きにこすりつけられたニンニクのにおいがしていたのに。
「おやおや、こてこてしたスパイスド・ラムのにおいがするぞ」
「カールのとっつぁん。これ、見て」
「口ひげかな。わたしには不要だ」
「そこまで伸ばすのって時間かかる?」
「時間もかかるが、それ以上に手間がかかる。きちんと手入れしないといけない。まあ、だいたいは床屋だが。そういえば、このあいだ、赤ワイン通りの床屋に行ったとき、モリセロを見かけた。あのヒゲも髪も伸ばすだけ伸ばしていたのを全部きれいに剃って短くしてくれと言った。よく見たら、服が血でべとべとだった。『ちょっと片づけなきゃいけないクソ野郎を片づけたんだよ』だとさ」
「それって代言人兵舎でフアン・ロチェキスが刺された後の話?」
「まさに直後だ。ロチェキスはカネを取るだけとって、モリセロの弟の弁護をろくにしなかった。弟は刑務所で刺されて死んだが、モリセロからしたら、ロチェキスが殺したようなものだったのだろう」
「あー。あれは、ほら、ロチェキスがオルギン商会の誰か、名前が思い出せないけど、金貸しやってるやつの違法金利の弁護を同時に引き受けたからだ。ありゃロチェキスが悪い」
「モリセロはいまだに捕まっていない。殺し屋も本気で官憲から逃げるのなら、普段から髪もヒゲも伸ばしたい放題にしておけばいいということだ。しかし、来栖くん。話を戻すが、なぜこんなにつけヒゲを?」
おれはいろいろ説明した。
「奇妙な男……ねえ。わたしが言えたもんじゃないが、きみのまわりには奇妙な人間が集まっているから、今のところどうということはないのではないかな?」
「そんなもんですかね」
カールのとっつぁんが帰ると、部屋に(トキマルからかっぱらった)ハンモックを吊った。
もう十一月だけどカラヴァルヴァの温暖な気候は秋の過ぎたあたりにハンモックを吊ることを許容してくれる。
シエスタは大事だよ。
ZZZ……




