第十話 怪盗、来栖ミツルを知らないとはお前モグリだな。
意識を取り戻したとき、最初に目がいったのは窓の外にある青空だった。
最初は絵かと思ったが、その深い青を背景に動く雲を見ていると、どうやら本物の空らしい。
「ここは……どこだ?」
小さな板張り部屋でクリストフの寝ている堅いベッド以外に家具らしいものはなかったが、部屋の二辺にはXXXと塗られた陶製の大きな寸胴瓶が並んでいた。
あちこちで禁止されている粗悪な蒸留酒でそのツンとする酒精のにおいがコルク栓にしみ込み、部屋にこもっている。
布団をどけてベッドから出ると、体は軽く、手足もちゃんとついているし、何かの呪術で内臓をやられた感覚もない。ブーツと外套は脱がされていて床に畳んでおいてあり、シャツとズボンだけで寝ていたようだ。だが、何かが足りない。何が足りないと考えたとき、最初に思い出したのは〈骨の小瓶〉、次に思い出したのは怪盗のマスクだった。
ペタペタと裸足で部屋を出ると、例のXXXの瓶が壁の際に、机の上に、棚のなかに並んでいて、それにかなり古い海図がピンで止めてあった。中央に島が、左端には頬をふくらませて風を吹き、波を立てる精霊の顔が書いてあった。
他には図面があり、二重底の樽の完成品が右側に、左側には材料別にバラバラにして両端が矢印になっている線で寸法が丁寧にとってあるが、数字がおかしかった。。この数字の通りに作ったらガレオン船よりも大きな樽が出来上がるだろう。
「XXX。海図。二重底。ここは――」
「密輸人の家です」
玄関と部屋のあいだのほんの二歩程度の長さの廊下にルイゾンがいた。腕組をし、壁にもたれたどこか余裕のある態度で微笑み、暗殺用の装束のあちこちに固定してあったナイフの半分以上が空っぽの鞘になっていたので、てっきりルイゾンが魔法使いを仕留めたのだと思った。
「残念ながら魔法使いは生きています。……いや、あれは生きていると言っていいのか」
「じゃあ、あんたも見たのか?」
ルイゾンは頷いたが、明らかに見なければよかったふうだった。
「あれは人間じゃなかった」
「左様。あれはもう人間じゃない」
玄関からあらわれたのは小柄な老人だった。両手にXXXの瓶を持っていて、テーブルにふたつ置くと、近くの椅子に座り、暖炉の灰のなかから熾きをつまんで、パイプをつけた。
すっかり縮んで皺が折り重なっているが、どこかで見たことのある顔だったが、クリストフには思い出せない。
そのあいだに密輸人はもう何百回と説明してきた要領で、この青空について説明した。
詳しいことは分からないが、島全体が夜に沈んだが、その代償をどこかの土地が払わねばならず、ここがそれに選ばれた。ここは太陽が沈むことはなく、沈みそうになって夕暮れのようになることがときどきあるが、たいていはまた空に戻ってしまうのだそうだ。
次に説明するのはルイゾンの番だった。
骨の小瓶に触れたクリストフは呪術かなにかで瀕死の状態となり、ルイゾンはとにかく骨の小瓶だけ取りクリストフを担いで、命からがら城から逃れたのだそうだ。追っ手のなかに人間はひとりもおらず、それは魔法使いも含めてとみて、間違いなかった……。
密輸人はパイプを長々と吹かすと、しばらくしてルイゾンにたずねた。
「で、この相棒は誰だね? つまり、何を生業にしているかをきいている」
「怪盗ですよ」
「え?」
クリストフは首をふった。
「え?とはなんですか?」
「おれは怪盗じゃない。測量士の助手だ」
「それは仮の姿でしょう? いまはふざけているときではありません」
だが、密輸人はまあまあ、とあいだに入った。そして、クリストフの目をまっすぐに見ながら、この島に来る直前のことをたずねた。
クリストフはカラヴァルヴァで起きた抗争のことや〈砂男〉のこと、さらにその前にあったことをきかれると、クルス・ファミリーの日々のことや来栖ミツルが宇宙に行ったという話を思い出し、話していった。
記憶に異常があるとは思えなかったが、でも、じゃあ、クリストフは何者かとたずねると、自分は測量士の助手だというのだ。
「なるほど。もう症状が出てきているわけだ」
「症状?」
「ああ。おい、若いの。お前の名前はなんだ?」
「馬鹿にするな。自分の名前くらい……おれは……あー、誰だっけ?」
「魔法使いの忌々しい呪いだよ。やつはわしらから名前を取り上げ、役職を押しつける」
待ってください、とルイゾン。
「それなら僕はなぜ自分を測量士だと思わないのでしょう?」
「耐性がついている。何かあっただろう?」
「思い浮かばない……あ、手袋が――」
きけば、クリストフは小瓶に触れたとき手袋をとっていた。だが、ルイゾンは手袋をはめたままで、一度もじかに壜に触れたことはない。それにクリストフと違って、彼はあの煤みたいな化け物をきっちり倒している。その煤を少し浴びた気がしたが、それが耐性になったのか。
「それにしても」
と、老人は角ばった灰色の指で小瓶をつまみ上げた。
「骨の小瓶、か。ひどい名前だ。何のひねりもない。本来ならこれは〈勇気の小瓶〉と呼ぶべきものだ」
「あなたは触れても大丈夫なのですか?」
「誰が触れても大丈夫だ。これにかかっていた呪いは解いた。だが、あんたのお仲間の呪いを解けるほど、わしの解呪法は強くない。だが、まあ、方法はないわけではない。人というのはある種の道具に自己の存在を依存させることがある。つまり、この若いのが自分は怪盗である、と強く主張できる象徴的な道具があれば、呪いは跳ね返すことができる。何かあるかね?」
それが、とルイゾンはポケットから何かを包んだハンカチを取り出した。
「逃げる途中の戦いで割れてしまったのです」
結び目を解いた青いハンカチのなかには二つに割れた怪盗のマスクがきらきらと輝いていた。




