第四話 怪盗、騎士像と浴場。
第二段の通りにある酒場へ行くと、客はひとりもいなくなっていた。
酒場の亭主はクリストフに笑いかけ、測量士さんがいただろ?ときいてきたので、うなずいてこたえ、昼飯か夕飯か分からないがとにかく食事とビールを注文した。
ライ麦パン、ニシンの燻製、糖蜜で焼いた根菜、こってりとした挽きコショウ入りの豆スープ、それに替えたばかりの樽から流れ出たビールがきたので、先ほどルイゾンからもらった情報料の銀貨で払うとお釣りを渡そうとしてきたので、クリストフはお釣りを断り、
「そのかわりききたいことがあるんだ」
「へえ。なんだね?」
「測量の仕事を始める前に、この島を支配している魔法使いに会いたいんだ。それにあちこちの土地に入ることになるから、そのことを前もって知らせておきたくてね」
「はあ。でも、会いたければ魔法使いのほうから呼ぶんじゃないかな。呼ばれないなら、それはもう何でも好きにしていいってことだよ」
「仕事の段取りとかは……」
「おれは分からんよ。測量士じゃないんだし。そもそも測量士が何なのかだって最近までは知らなかったんだ」
「夜の教団にきけば分かるかな」
「何も分からんだろうね。あいつらが勝手に崇拝しているだけで、魔法使いがどう思っているかは分からない。正直、やつらのなかで城に行ったことのあるものはいないんじゃないかな」
「あの豆商人は会ったことがあると」
「そうか。でも、それが本当に魔法使いだったか怪しいな。魔法使いの影かもしれない」
確かに判事から話をきいてみた感じだと、魔法使いは本当に滅多に姿を見せないような印象を受けた。
そうなると、あの豆商人の言葉を真に受けるのも危ないかもしれない。
クリストフはとりあえず城へ行く方法は置いておき、この島の住人たちの様子を把握してみることにした。
腹もくちくなり、散歩がてらに町を歩くと、騎馬像がある広場に行きあたった。狭い広場をチョッキを着た子どもたちが走り回り、長椅子には弓をたずさえ毛織物の上衣をつけた狩人が座って、タバコを噛み、濃い紫色の唾を吐いている。
上の町に上るアーチの隣には入り口を開け放った武器屋があった。店主は木の箱に座って、ツルハシに似た武器に火花が散るほどヤスリをこすりつけて、壁には斧や短剣、片刃の曲刀、長柄の棍棒、それに潮の赤い錆を浮かべ始めた両手持ちの大剣がかけられていた。その二階は家になっていて、窓から主婦らしい女性が縫物をしている姿が見えた。
特に考えもなしに騎馬像に近づいてみると、赤い蔓草がよじ登ろうとしている台座の上で騎士は荒馬にまたがり、その剣を歩兵のような徒歩の人間の頭に叩きつけようとするように振り上げていた。それがまた躍動感あふれていて、近づいて見上げると、鉄カブトが欲しくなるようなゾクッとする不安を覚えた。
若き騎士は実在の人物から取ったのだろう。
クリストフには騎士の声がきこえてくるような気がした。
――まったく、面倒なことに足を突っ込んだな。お前。
――それほどでもないさ。
――もっとひどいこともあったわけだ。
――三十人の少女騎士たちと一緒に島で唯一の砦で暮らしたことがある。
――お前も昔は騎士だったわけだ。
――それがよかったと思うことはないけど。
――骨の小瓶。骨の小瓶。
――なんだ?
――お前とお前の測量士が盗み出そうとしているものの名前だ。
――それがなんだ?
――骨の小瓶とはひどい名だ。本当はあれは〈勇気の小瓶〉と名づけるべきものだ。
――どういうことだ?
――さあ。自分で調べたらいい。トンマどもが来たので失礼するよ。
――おい、待ってくれ。城について知っていることを……
そこで騎士はだんまりを決め込み、クリストフの意識が銅像から離れた。思いがけないところから核心的な情報の断片が手に入りかけたが、青銅の騎士曰く、トンマども――夜の教団の信徒たちが上の町からつながる階段を降りてきた。全員が三角に尖った頭巾をかぶっていたが、その頭巾には両目のための小さな穴がふたつ開いていて、狂信者らしい潤んだ目には先頭の司祭らしきものが持つ大きな燭台の光が揺れていた。
猟師は紫色の唾を吐き、武器屋はますます盛んに武器にヤスリをかけ始めた。子どもたちも怯えるどころか、信徒と信徒のあいだを走り抜けたり、後ろからローブの裾をめくり上げたりしている。よく見ると、ローブは材質も製作者の腕前もばらばらの安っぽいもので、こうした狂信者たちはたいてい画一性がもたらす恐怖作用をよく心得、衣装をまったく同じものにそろえ、また階級ごとにデザインを変えるものだが、この狂信者たちは司祭と平の信徒の違いさえ、ローブだけで判別することはできず、先頭を歩き、大きな金の燭台を持っているからそれを司祭と考えたに過ぎない。
こうしたものを見せられると、魔法使いは自分の信者を特別扱いするつもりはないらしいと薄々分かってくる。島民の彼らに対する侮辱的な評判は理由のないことではなかったのだ。
狂信者たちは広場をぐるぐる反時計回りに歩きながら左右に体を揺らし、奇妙な歌を歌っていた。伸ばすところを切り、切るべきところを伸ばしたその歌はきいていると、もどかしさと気持ち悪さを覚えた。狂信者のなかにはいたずら心のあるものもいて、武器屋の前を通りかかるときに、さっと飛び出して、壁にかけた剣にさわって追い払われたり、台座の赤い蔓草をちぎって前を歩いている信者の頭を叩いたりしていた。
クリストフはこの信者たちの本拠地はどこなのだろうと思って、後をついていってみることにしてみた。はやく帰り過ぎるとルイゾンに野暮だし、ルイゾンには怪盗クリスの正体を官憲に知らせなかったことで借りがあった。もし、イヴリーが自分の正体を知ったときのことを考えると、未知数なことが多すぎて震えてきた。斬ったり蹴られたり裁かれたりするくらいなら別にどうということもないが、涙をぽろぽろ流されたら、もう死ぬしかない。こうしたジレンマの糸で綱渡りするのが怪盗の醍醐味であり、存在理由かもしれないが、まだクリストフには正体が明かしたときの準備ができていなかった。
教団員たちは一番上の段の町に上った後、そこからしか下れない階段を下り始めた。
その階段は街外れの広場に通じていて、白い湯気をあげる浴場と刷毛や簡単な楽器を売る小間物屋があった。燭台を捧げ持つ司祭が広場の半ばまで来ると、浴場の扉が開いて、白い湯気の玉がぼわりと広場の中空に浮かび上がった。湯気の玉は名残惜しそうに蒼褪めて消え、夜の教団員たちは次々と浴場へ入っていった。このままいけるかと思い、クリストフも何食わぬ顔でついていったが、扉は最後の教団員を入れるとクリストフの鼻先でぴしゃりと閉じて、クリストフは額を戸板にぶつけてひっくり返った。
額をさすりながら、立ち上がると、大笑いする声がきこえてきた。
小間物屋に老人がひとりいて、その灰色で皮が余り気味の指をまっすぐクリストフに向けて笑っていた。よそものだからと言って、そんなふうに馬鹿にされる覚えもないので、ちょっと注意しようと思ってつかつかと歩いていくと、老人は島じゅうにきこえそうな悲鳴を上げて、お助けーっと言いながら、店の奥にある鉄扉の部屋に逃げ込んだ。そこまで脅かした覚えはないのだが、この振り上げた拳のやり手もないので、とりあえず奥の鉄扉まで歩いて、軽く叩いてみた。
「誰もいないよ!」
「別におれは怒ってないよ」
「うそだ。怒ってるやつはみんなそう言う!」
「おれは本当に怒ってないんだ」
「怒ってるやつはみんなそう言う! 測量士に密告してやるからな!」
「そこの部屋には隠し階段とかあるのか?」
「あるわけないだろう。馬鹿め」
「じゃあ、出入口はここひとつか」
「そうだ。これひとつだ」
「じゃあ、どうやって測量士に密告するんだ? 唯一の出入り口はおれが塞いでる」
「あ」
「おれはこの島の人間と仲良くしたいんだよ。長いこと、ここにお世話になりそうだから」
「そんなこと言って、わしをとっちめるつもりだろ!」
そのとき、クリストフは背後で笑い声をきいた。騎士像の広場の子どもたちが小間物屋の売り物を次々手に取り、そのまま持って逃げていったのだ。
「おい、何があった?」
「子どもたちがあんたの売り物を持って逃げていく」
「そりゃあ、万引きじゃないか!」
「そうだな」
「なんで捕まえない?」
「おれの店じゃない。おれのことを指を差して笑ったやつの店だし。いや、そんなことであんたに意趣返しするつもりはないけど、あいつらの気配を感じたと思ったら、もう手に商品をもって逃げてるんだ」
「犯罪者め!」
「それはまあ否定しない」
「ガキどもを捕まえろ」
「やだよ。人のシノギに干渉しないことにしてるし」
「じゃあ、扉の前からどけ。おい、きいているのか、おい!」
すでにクリストフは扉の前にいなかった。銀貨を数枚、勘定台に置いていくと、棚から三角頭巾とローブを手に取り、もぞもぞとかぶっているところだった。




