第一話 怪盗、昔取った杵柄。
海が突然、瞬きをはじめ、虹色の翼を伸ばしたトビウオの群れが帆掛け船の上を飛び過ぎていった。
その翼の光はつい今さっき、東から顔をのぞかせた太陽が映り込んだもので、太陽の運び手となったトビウオたちは世界で最も高貴な生き物としての自信を銀の魚体にみなぎらせ、西へ西へと旅を続けた。
燃えるような朝日を浴びながら南を目指すクリストフは港町の男たちの言葉を思い出した。
「あそこには魔法使いの島がある。島民をみな虜にして、生贄を差し出させるんだ」
「魔法使いの魔法のせいで、あの島は決して夜が明けることがないんだ」
「そんなとこに行くなんて。気がしれないね」
船乗りや酒場の主はただただ島と魔法使いを恐れた。
だが、クリストフが気になったのはある老人の言葉だった。
「わしはあの島の出身だ。あの魔法使いの邪悪な呪文が島を夜の虜にする直前に船で逃げたんだ。ビール一杯と焼き魚をおごってくれれば、魔法使いの弱点を教えてやろう。誰も知らないことだから。よそできいても無駄だぞ」
ビール一杯と焼き魚で得たのは、骨の小瓶、と呼ばれる呪物のことだった。
小さなガラス瓶に入った、白い粉と化した骨。
これが魔法使いの力の源であり、これなくして、魔法使いは島を支配できない。
骨の小瓶。邪悪な魔法使い。夜の島。
なんとも怪盗心をくすぐる。クリストフは小さな帆掛け船を買って、島を目指すことにした。
南洋騎士団にいたころから、操船技術はあるし、安い船を買うくらいの路銀もある。
怪盗七つ道具は防水の油をしっかり刷り込んだ革の箱に収まっている。
そんな船旅の途中で見るトビウオの群れはまるでクリストフを祝福してくれているようだ。
そのまま、クリストフは正午くらいまで、風をとらえて帆をふくらませ波を切りながら様々な島を見た。
濃密な緑樹と蔦に覆われた島。
魚の骨から不思議な染料をつくる人びとの島。
歩いて行き来できるふたつの島。
途方もなく大きな船をつくることに取りつかれた島。
しばらくはそうした島や船すれすれに泳ぐイルカなど船旅の無聊を慰めるものがあったが、そのうち雲もなく、魚もおらず、島もない、見渡す限り波と水平線しかない海域に入り、ただ風だけが船を南へと押し流すだけになった。
波がしらが白く泡立ち始めたのは太陽が西へまわり始めて、だいぶ経ったころのことだった。
風は乱れ、急に信用できなくなり、気がつけば、大きな黒い雲が南の水平線から沸きあがり始めた。
その雲と海とのわずかな隙間では稲妻が立ち、雷鳴が鳴るたびに嵐を孕んだ黒雲は光る石を飲み込んだカエルのごとく内側から照らし出された。
クリストフは何とか舵を切り、北へ戻ろうとしたが、潮に差した舵はにかわで止められたみたいに動かなくなり、気づけば帆掛け船は国ひとつが吞み込めるほどの嵐へと突っ込んでいった。
波は山のように盛り上がり、船は木の葉のように遊ばれて、雨が真横から平手打ちみたいに飛んでくる。
稲妻が落ちるたびに海は底が見えるほど透き通り、いま、この海のなかで生き物はクリストフしかいないのだと思い知らせる。
自分がこんな目に遭うような悪さをしただろうかと思いめぐらせるが、心当たりといえば、アレンカのケーキを勝手に食べて、ミミちゃんに罪をなすりつけたくらい。
そのうち暴風によって帆は切り裂かれ、人ひとり分の重さでも偏ったら終わりと思って、傾きと逆側に体をさばきながら、「わかった! 今度、ケーキまるごと買ってやるから!」と嵐に向かった叫んだ。
――†――†――†――
気がつくと、クリストフは潮まみれになって船底に横たわっていた。
むくりと起き上がると、そこは湖のように波がなく、静寂とした不思議な海だった。
どうやら魔法使いの島とやらに近づいているらしい。
というのも、帆が切れ端を残して、消えてなくなっているのに、船はどんどんと島のほうへ進んでいるのだ。
海から見る魔法使いの島は斜面に出来上がった町と森、それに城が目についた。
星のない漆黒の空の下、様々な形をした燈明が街に散らばって、闇を押しのけている。
それに対して、城は窓も館も光はなく、寝ついているようだ。
だんだん島が近づいてくると、小さな城下町の様子が見えてきた。
買い物をする女性、林と町を往復する木こり、星を見る若者、黄色い灯の酒場、小さな広場に集う老人たち、奇妙な衣装をしたものたちの行列……
船は進み続け、そのうち底が砂にこすれると、クリストフは波打ち際に飛び降りた。
町に面した浜辺はさほど広くなく、漁師の丸木舟が池のようになった砂浜に浮かんでいた。
悪しき魔法使いの手下が襲いかかってくる様子はない。
砂のなかからあらわれる階段は煉瓦のアーチをくぐって町に通じていた。
この町は三つの段になっていた。
ひとつの段につき一本の通りがあり、通り沿いに家や店が並ぶ。
次の段に通じる階段があり、それも煉瓦のアーチをくぐっていた。
階段を上りつめれば、魔法使いの城に行けるようだ。
よそものを好奇心で見つめる町人たちの視線を受けながら、一番上の段の通りへ昇る。
「あれ? おかしいな……」
船から見た限り、城下町は三段しかない。そして、三段目をさらに昇った先に城があるはずだった。
だが、三段目の町には隙間なく建物が並び、これ以上昇れる階段がない。
だが、城は存在した。
町にのしかかるような暗黒の影として。それを見上げると冷や水を浴びせられたような感覚が襲ってくる。
だが、道がない。
「町から行けないのか?」
試しに通りの端までいき、そこから木立を入って、城へと歩いてみるが、気がついたら、また三段目の町へ戻っている。
「まあ、魔法使いの城だもんな。そうそう簡単に入れるもんでもないか」
これは長丁場になるな。そう思ったクリストフは宿を探すことにした。
二段目の町に戻り、そこで開いている酒場へ入ってみた。
地元の人間らしい男が三人、ひとつのテーブルにかたまって、エールのジョッキをあおっている。
クリストフが入るなり、男たちはしゃべるのをやめて、彼のほうをじっと見つめてくる。警戒や威嚇というよりは好奇心のようなものだ。まもなく、男たちは何かの交易の鞘取りについての話に戻った。
酒場は田舎にある普通の酒場だった。やや狭く、天井も低い部屋がひとつだけ。
粗野な仕上げのテーブルが四つ、カウンターはない。
部屋の隅に大きなテーブルがあり、酒場の亭主はそこでスープなり魚なりの下ごしらえをする。
そのそばには大きな暖炉があり、そこでは薪がひっきりなしに豆を煎るような音を発しながら、滑らかに燃えていて、その上に鋳鉄の鉤でスープ鍋が吊るしてあり、これまた滑らかに鍋の底を火が撫でていた。
潮でびしょびしょだったクリストフは、エールの一杯でも注文すれば、服を乾かし、ついでに宿屋、というより宿屋みたいに旅人を止めてくれる民家に紹介してくれるだろう。
そう思い、暖炉のそばの椅子に腰かけると、酒場の亭主は妙にそわそわしだして、そのうちクリストフのほうに寄ってくると、
「あんた、測量士の助手さんだろ?」
と、ほとんどささやくような声でたずねてきた。
なぜ、そんなふうに声を小さくするのか不思議だったが、見れば、三人の客たちがこっちを見ている。
「あいつらのことなら気にするな。で、あんた、測量士の助手だよな?」
「ああ。そうだよ。おれは測量士の助手さ」
どうしてそんなふうに思われたのかと思ったが、怪盗七つ道具を言われた革の手提げ箱が測量の道具と間違われたのだろう。
だが、それ以上に馬鹿げているのは測量士がすでにこの島にいるにもかかわらず、測量士の助手であると嘘をついたことだった。
本物の測量士と顔をあわせれば、一発でウソがバレる。そうなると、話はいろいろ複雑だ。まさかリンチにはしないだろうが、仕事はかなりやりにくくなる。
だが、亭主はすでに客のひとりにクリストフを宿屋へ案内するよう居丈高に命じたところだった。
町で唯一酒を出す店は客より偉いのだろう、客のうち、ごま塩頭の男が不服そうに立ち上がり、クリストフを案内することになった。
不服そうな割にはごま塩頭の男は宿屋への道のりで、あれこれたずね、あれこれしゃべった。
たずねられるのは困るので、相手がしゃべるままに任せたが、男の話を鵜呑みにすると、彼は島で唯一の豆を投機的に扱う商人〈豆商人〉であり、その昔、まだ島の外に出られたころにはこのあたりの海域で流通する豆の半分以上が彼の取り扱いであったらしい。
彼は原産地と消費地を借りた船で結び、大いに儲けていた。
そのときの儲けがあるから、いまでも不自由なく暮らせるが、ひと袋銀貨十枚で買った豆が銀貨三十五枚で売れるあの快感はとても懐かしく、利鞘を稼げないのはとても寂しいとこぼしていた。
「魔法使いに何度も頼んだんだけどね。だめなんだ。全然、受け入れてくれないんだ」
「魔法使いと話したことがあるのか?」
「気まぐれだけど、魔法使いは突然、こちらの話をきいてくれるようになることもある。おれは二か月か三か月に一度、話に行けるが、わしと一緒にいたふたり、〈錫商人〉と〈ガラス商人〉はもう何十年も魔法使いに門前払いされている」
まるで自分は特別なのだ、と言いたいようだった。
「もうすっかりあきらめるしかないんだ。魔法使いが会おうとしなかったら」
「じゃあ、絶対に会いに行ける手はないのか?」
「さあな。わしは知らんね。〈夜の教団〉の信徒なら知ってるんじゃないか?」
「夜の教団?」
「魔法使いを神さまみたいに崇めている連中だよ。そのうち嫌でも出会う。変な頭巾をかぶって、刃物を振り回すだけの馬鹿者だよ」
「そんなふうに言ったりして、大丈夫か?」
「なにが?」
「誰かがその教団や、あるいは魔法使いにあんたが今言ったことを密告するかも」
「密告したからってどうだっていうんだ? 魔法使いは気が向かないと町に降りてこないし、あの狂信者どもはだいたいが外の世界を知らない町の若い世代だ。外の海で手ごわい連中相手に商売したこのわしだ。あんなひよっこどもに負ける気がしない。ほんと、あの教団に集まるのはひ弱な若者ばかりなんだ。変なことに。お、ついたぞ。そこだ。宿屋っぽく見えないのは分かる。しょうがない。こんなことじゃ客なんて来ないんだから。おーい、測量士さん! 助手を連れてきたぞ!」
万事休す。
狂えるパブリック・ジャスティスという名のリンチを覚悟したとき、あらわれたのは、
「あ」
〈聖アンジュリンの子ら〉の三羽烏がひとり、ルイゾンだった。




