第三十九話 アサシン/忍者、夜の散策。
深夜、セント・アルバート監獄の港に入ったばかりのキャラベル船のそばで水面が揺らぎ、ヒュウっと音がする。
鉤爪のついた鉄線がキャラベル船の船尾から出っ張った斜帆の桁に引っかかるや否や、黒装束のトキマルがカワウソのようにするすると鉄線を登り、あっという間に甲板に忍び込む。
特殊な呪符と油によって黒装束と覆面、それに鎖帷子はほんの数秒で乾くので、板床に水に濡れた足跡を残す心配はない。
甲板には二人、船乗りがいた。船長と航海士らしく、舷側にもたれかかって、ランダル海道に出没する大海蛇のことを話しているようだった。
(邪魔だな。追っ払うか)
舷側に身を潜めて、港から伸びる桟橋を見ると、少佐の肩章を乗せた監獄士官がパイプを吹かしていた。
このところ、連敗中の幻術を当ててみることにした。
体内で気息と意識を燃やして、錬った声なき気迫を監獄士官に浴びせた。
かかった。
監獄士官の目がどろんと濁り、そのうち怒りに打ち震えはじめ、口髭の端を噛みながら、船のほうへ振り返ると、舷側にもたれかかった二人の船乗り目がけて大声で怒鳴った。
「おい、そこの! そこのクソ野郎!」
監獄士官が怒鳴ると、船長は、
「おれのことか?」
「てめえに決まってんだろうが、このボケが! よくも人の女房を寝取っておいて、のこのこと、ここに顔が出せたな」
「おれはお前の女房なんて知らないぞ」
「嘘だ。お前以外に誰がいるんだよ」
船長も短気なほうだったらしい。
舷の縁に手を置いて、そのまま落っこちそうなくらい身を乗り出して、監獄士官と怒鳴り返した。
「分っかんねえ野郎だな! てめえの女房なんて寝取ってねえって言ってんだろ!」
「嘘つくんじゃねえ! 女房の手紙にあった赤毛の船乗りってのはてめえだろ!」
「ムショのクソ役人め。おれは金髪だ、このバカ野郎。とっとと失せねえと、クロスボウぶち込むぞ!」
「船から降りろ。男なら拳で決着をつけようじゃねえか」
船長は、望むところだ、このクソ野郎と外套と帽子を脱ぎ捨て、船と桟橋のあいだに渡した一枚の板を走り降りた。
船長の外套と帽子を持った航海士がすぐ後ろからついて、船を降りていく。
派手な殴り合いが始まり、港の水夫や荷下ろし人夫たちがわいわい騒ぎたてた。
おかげでトキマルは安心して船倉に潜り込める。
しかし、幻術が見事にかかった。
あの監獄士官は自分の妻が寝取られたという幻を自分の記憶として見たのだが、たぶん妻はいないだろう。
これほどの見事な幻術なのに、来栖ミツルにはかからない。
それどころか、逆に術を返され、こないだなど気を失っているあいだに、料理の手伝いをさせられた。
まあ、幻術リベンジについては修練を積んでから行うとして、今は目の前の仕事に集中しよう。
船倉には柱に釘を打ってぶら下げたブリキのくり抜き箱に小さな蝋燭が置かれ、積み重なった樽や荷箱のあいだの細い通路を闇のなかから切り取ってみせる。
干し肉の匂いがし、船の外を打つ水のヒタヒタという音と走るネズミの手足が床を引っかく音がする。
来栖ミツルが監獄士官から手に入れたリストの品物は頭のなかに記憶してある。
赤ワイン。食用油。カラス麦。染料。チーズ。干し肉。布と糸。
リストの積載量と実際の積載量を比べると、実際の積載量のほうが少ない。
つまり、空いた樽に秘かに何かを積めて、持ち込んでいるということだ。
来栖ミツルはそれが偽造で使う上等の勅令専用紙の束か、あるいは錬金術師がメッキをかけた贋金用の地金ではないかと思っている。
そして、隠し戸棚に〈干し肉〉とわざわざ焼き印をした怪しげな箱を見つけ、苦無を箱と蓋のあいだに突っ込んでこじ開けた。
中身は砕いた氷で、ロブスターや高級チーズ、ステーキ肉が氷のなかで新鮮な状態で保存されていた。
要するに、来栖ミツルやカランサら〈商会〉たちがカネに物を言わせて運ばせた食材の数々だ。
贋金づくりの材料ではない。
「拍子抜け。……ん?」
トキマルは隠し戸棚の下の板が外れているのを見つけた。
その下は船の最底部で石が詰まっている。
別に不思議ではない。
帆船が帆柱とのバランスを取るために底部にバラストと呼ぶ石を敷き詰めて、重さを増すのは船の常識だ。
ただ、このバラスト石は何かおかしい。
普通、バラスト石は切って形を整えて、ぎっしり敷きつめる。
船舶という限られた空間で無駄に空白をつくりたくないからだ。
ところが、このバラスト石はまったく加工していない。
まるで鉱山から取り出したばかりの鉱石のようでこれがいい加減に船底に詰められているのだ。
一つ、石の小さなものを取り出して、じっと見る。
普通の石のようだが、比重がわずかに軽いことをトキマルの鋭敏な手の感覚が読み取っている。
「何かある」
ことん。
気配を消して、素早く闇のなかへ身を引く。
船倉に誰かが入ってきた。
最初の物音以降は気配がしない。
クマワカか?
カランサもこの監獄の何かを調べていることはありうる。
そうなら、生かして返すわけにはいかない。
苦無をするりと抜き出し、横倒しにして積み上げた樽の壁に背をつけ、気配を窺う。
人影が蝋燭の火をさえぎった瞬間、トキマルは角から飛び出し、侵入者の喉をつかむと、苦無を急所へ滑らせた。
ぴたりと苦無が止まる。
「ツィーヌか? なにしてんだよ」
トキマルが手を放すと、黒装束姿のツィーヌは顔の覆面を引き下げながら、
「任務よ。エルネスト探しの」
「頭領に言われたのか?」
「わたしの独断。そっちは?」
「頭領に言われて、船荷の調べ」
船から抜け出し、ツィーヌが持っていたロープ付きのクロスボウで喧嘩に夢中の群衆を大きく迂回して、港へ降り立つ。
「あんまり慣れてないんだろ?」
「何がよ」
「忍び込み」
「わたしの専門は毒殺だもん」
「フーン」
「なによ」
「別に。おれはもう少し探るけど、そっちは?」
「探る。エルネストの位置ぐらいは知りたいから」
「じゃ」
トキマルは覆面を目の下まで引き上げた。
「任務再開」
――†――†――†――
まもなく馬鹿げているくらい怪しい箱が地下につながる通路から現れ、ガルムディア行きの船に載せられた。
その木箱には中身がボラのからすみであることを示す焼き印が押されていた。
その箱の前と後ろに剣の腕が立ちそうな監獄士官が二人ずつ付き、クロスボウの射手が二人、少し遅れて歩いてくる。
いったい、どこの世界に囚人の作業所でつくられたボラのからすみに六人の見張りをつける馬鹿がいるのか。
中身は間違いなく、ボラのからすみなどではない。
そして、それが運ばれてきた地下への通路の先にエルネストがいる。
そこで何が行われているのか、まだ分からないが、少なくともボラのからすみ作りではないことだけは明らかだ。
港の隅の人力起重機のそばに身を潜めたまま、ツィーヌとトキマルは地下への入口を見つめている。
「侵入したいけど、なかは警備兵だらけ。皆殺しにしていいなら簡単なのに」
「エルネストってやつの安全を考えるなら。おれたちは侵入の痕跡一つ残せない。気取られたら終わり、違う?」
「暗殺はなし」
「そーゆーこと」
「じゃあ、どうやって侵入するの?」
トキマルの経験だと地下に大きな施設とつくる場合、出入り口と別に通気口が必要だ。
地下入り口は矮性の松が生える岩肌のふもとにあるから、おそらくこの壁のどこかに通気口がある。
入り口から左へ五メートル、上へ十五メートルの位置に生えている小さな松が風に揺れている。
だが、帆船のてっぺんにつけられた旗はだらしなく垂れ下がり、他の松もそよともしない。
「あそこだ。登るよ」
曲がった松は岩の裂け目から吹き出す生温かい風を浴び続け、軋んですらいた。
裂け目は人が一人通れるくらいの幅でまずトキマルが、次にツィーヌが体を横にして、ゆっくり少しずつ進んでいく。
道は竪坑にぶつかった。
底のほうには針の穴ほどの大きさの小さな光――何か施設があって、そこの灯が見えているらしい。
鉱油の臭いがする生温かい風が底の光から湧き続ける。
細いが強く結った綱の束を取り出して、片方を穴の縁に打ち込んだ鉄釘にしっかり引っかけ、竪坑に垂らす。
二人ともプロらしく黙って綱を離して掴んでの繰り返しでザッザッと竪坑を降りていったが、なかなか底に辿り着かない。
すると、ツィーヌはずっと気になっていたことを口にした。
「トキマル。あなたの、それ、なんの臭い? 樟脳?」
「くそっ、頭領め。やっぱりバレるじゃないか」
「なんのこと?」
「別に」
「あっそ」
「……」
「……」
「……♪」
「機嫌よさそうだね」
「そう?」
「何かあったの?」
「まあね」
「それって頭領絡み?」
「だったら?」
「別に。どーでも」
「じゃあ、話さない」
「あっそ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……誰にも言わないって約束できる?」
「できないね」
「マスターがね、わたしのことが一番だって言ってくれたの!」
「ふーん、どうやって脅したの?」
「あんたってホント失礼なやつね」
「でも、頭領、かなりテンパってたよ。あんたが薬をよこさないせいで、ジジイの姿になれなくて、看守にどう言い訳すればいいのか分からないって」
「どうせお金で解決するわよ」
「ま、そーなんだけど」
穴を降りるに従って、音がきこえてきた。
途方もなく強い音。ふいごの音だ。
ついに穴の底についた瞬間、眼下に広がったのはいくつも並んだ巨大な炉と炎、そして、炉から流れ出すほのかに青く光る、澄んだ粘り気のある液体。
錬金術師たちがそれを一つ一つガラス瓶に詰め、奴隷同様の囚人たちが巨大なふいごを動かすために回転柱の出っ張りによりかかり、疲れた体で棒全体を捉え、前へ前へと押していく終わりのない労働に囚われている。
見知った顔がいた。
監獄長官とカランサ、それにクマワカだ。
青い液体の出来具合と全体の作業が見渡せる位置で監獄長官とカランサが椅子に座り、クマワカは雇われ忍びらしく、カランサの後ろに影のように付き従っている。
ラッパが鳴った。奴隷たちが機械に向かって走る。
魔女の大釜にも似た巨大な炉のそばで奴隷たちがクランクをまわして、石でいっぱいになったトロッコを引き上げ、中身を炉のなかに落としていく。
その石はトキマルがキャラベル船の底から見つけたのと同じ石だ。
それを炉に入れて、青い液体を抽出していた。
〈蜜〉だ。
ガルムディア帝国は監獄で〈蜜〉をつくっていたのだ。
しかも、ここの連中はそれを他ならぬガルムディア帝国へ送り出している。
回転柱をロバみたいにまわしていた奴隷の一人が倒れる。
すると、警備兵たちはその奴隷を引きずっていき、〈蜜〉を込めた水キセルを吸わせた。
まもなく、奴隷はあっという間に活力を取り戻し、重労働へと戻っていく。
「エルネストは?」
トキマルがたずねる。
「いたわ。あそこ」
衝立に区切られた一角。田舎町の書記のような偽造屋たちが、〈蜜〉を入れたガラス瓶や荷箱につけるための偽のラベルをつくっていた。
その偽造屋たちの長が座るらしい席にエルネストが座り、二人の警備兵に見張られながら、税関を抜けるための書類を偽造させられていた。




