第七十二話 司法、犯罪戦線異状大あり。
サン・マヌエル山の裾は尾根が分かれて谷をつくり、小さな農家や羊飼いの小屋が点在している。
人はみな貧しい暮らしをしている。石だらけの痩せた土地で作物が育つとも思えないが、それでもここに人が暮らしているのは、ここが山賊の隠れ蓑になっているからだ。
その暑く白い土地をイリーナは流れる汗をぬぐいながら北へ歩いていた。
晴れた夏の日、黒の覆面も入れた特別任務用の黒装束は暑くて、目立つ。
夜中であれば、これでも問題はないが、真昼間に短剣やピストルを装備した黒装束の少女が機械巻き上げ式の強力なヴィンドラス・ボウを肩に担って、ひとり山道を歩いているのが住人に見つかったら、たちまちのうちに山賊たちの知るところとなる。
だが、谷には人はおらず、みな午後の昼寝を楽しんでいた。
事前に確認した配置につく。
そこは大昔の豪族たちの古墳が並ぶ丘でその北の端が狙撃位置だ。
そこは砂のように白い薄緑の豆の灌木が点在していて、前の斜面が切り崩されていた。おかげで谷の底にある一軒の小さな農家の、裏口と表口の両方を視界に納めることができた。
谷の向こう側ではやはり隊士のルイゾンが同じようにヴィンドラス・ボウを手に狙撃位置についているはずだ。
イリーナはヴィンドラス・ボウを立てると先端についている鉄の輪を踏み、クランクを引き金上の機構部分に差し込み、まわし始めた。錬金術による変成工程を二度行った強力な弦がクランクに逆らったが、爪車がカチカチと確実に弦を引き上げる。
全部巻き切ると、三角の断面の矢を差し込み、銃床の下についている鋳鉄製の二脚を広げた。
銃床には十字の線を入れた真鍮製の狙撃用拡大鏡がついていて、覗き込むとレンズの丸みがもたらす歪みに丸く縁取られたなかに大きな農家が見えた。
それはアルバレス山脈のどこにでもある日干し煉瓦の農家で裏庭に山羊を入れるための枝づくりの囲いがあり、イリーナから見て、手前側の壁に裏口がある。
石組みの煙突からゆるやかに上る煙は山からの風に吹き散らされ、暑すぎる夏の大気に溶けていく。
今回の任務はアルバレス山脈の山賊によってさらわれたヒル=カンポス伯爵の救出、そして、ケレルマン商会の統帥であるガエタノ・ケレルマンの逮捕だった。
ガエタノ・ケレルマンがまた山賊に戻りつつあるという情報をつかんで以来、〈聖アンジュリンの子ら〉はドン・ガエタノを追っていたが、彼にとっては庭同然のアルバレス山脈でケレルマンを補足するのは非常に困難だった。
いくつかのタレコミとこれまでの捜査で、誘拐した伯爵が隠されていそうな村をひとつひとつ調べていき、ついに山賊団の一員で右腕に『山登りなんて大嫌いだ』という奇妙な入れ墨をしている男が、山以外の場所で人生をやり直すためのカネと引き換えに間違いのない情報をもたらした。
埃っぽい石ばかりの谷。大きな平屋の農家。そして、ロジスラス率いる第一分隊とクアッロス率いる第二分隊。手には連射式のクロスボウと短剣。
谷の下手の街道そばにはおそらく見張りに立っていたと思われる山賊が倒れている。
その手際は見ていなかったが、きっとロジスラスに違いない。
ここから見ると、どちらの隊も小さな黒いアリの集まりのように見える。
自分もロジスラスと一緒に強襲部隊に参加できないことはもどかしかったが、広範囲をカバーし、そして戦闘になったら(ガエタノ・ケレルマンの気性を考えれば、間違いなく戦闘になるのだが)味方を援護するというのも重要な任務なのだと思い、自分のすべきことに集中することにした。
ふたつの分隊が足音を忍ばせて配置につき、そして、大きな槌をもった隊員がそれぞれ扉をぶち破って、なかへ踏み込んだ。
「動くな!」という声や緊迫したやりとりの持つひりつく空気が風に乗って運ばれてくる。
すでに裏口は抑えられ、そこから逃げ出そうとした山賊が次々取り押さえられていく。
パン!と銃声がして、窓を塞いでいる板材の古びた扉がピシッと裂けた。
すぐに銃声が五回くらい続き、静かになる。
そのとき、建物の西側、つまりイリーナ側に窓がある廊下があるのだが、そこにロジスラスを見つけた。
顔は覆面で隠れているが、イリーナには分かった。
そして、ロジスラスが立つ窓のそばに山賊らしい派手な色のスカーフを頭に巻いた男がいて、大きな山刀を取り出していた。
イリーナは息を止めて、その男を狙い、煙突から流れる煙の形を思い出して、風向きと強さを頭に入れて、矢を放った。
矢はロジスラスに切りかかろうと立ち上がった賊の首を貫き、男はぐったりとして、窓枠に覆いかぶさるように倒れた。
三角矢を見て、ロジスラスが親指を上げるのが、照準鏡のなかに見える。
誇らしさで表情が緩んだ。
その後も剣でのやり取りや撃ち合いがあったが、五分も経たないうちに制圧は完了した。
狙撃班も集まれとハンドサインがあったので、ヴィンドラス・ボウを担って、土手を降りる。
農家の前庭には後ろ手に縛られた三人の山賊がうつ伏せに寝かせられていた。
ロジスラスはマスクを引き下ろし、井戸の跳ね釣瓶から水を飲み、首筋を濡らしていた。
「隊長」
「制圧済みだ。だが、伯爵とケレルマンがいない」
隊員のひとりトレゼリが戸口にあらわれ、壁のなかから妙な音がすると言ってきた。
ロジスラスと一緒に家に入る。
玄関扉からすぐのところに山賊がひとり、胸にクロスボウの矢を三本ほど突き出した状態で倒れている。ひろがる血だまりは土間床に掘られた溝へと静かに流れ込んでいた。
「こっちだ」
それから撃ち合いで死んだ山賊ふたりを通り過ぎ、トレゼリが問題と言った壁の前にやってきた。
小さな台所とかまどのある部屋で確かに、窓のそばの壁がこちらにずいぶん突き出しているし、窓の外の壁も同じように外側へ突き出している。
すぐに槌をもった隊員がやってきて、壁を叩き始めた。
泥土を固めてつくった煉瓦は一度打たれるたびに白っぽい砂埃が舞い上がり、みなマスクをして、壁がぶち破られるのを待っていた。
人の頭くらいの小さな穴が開くと、ハンマーに引っかけるようにして、煉瓦を引き崩し、穴が広がったところで、銃声がしたので、クロスボウと大口径のピストルで散々応戦して煙幕弾を二発放り込んだ。
イリーナが志願し、マスクとゴーグルをつけて、なかに踏み込む。
階段は縁がぼろぼろに崩れて丸まっていて、危なっかしかったが、外よりもずっとひんやりして過ごしやすい。小さな灯明皿が置かれた踊り場では十数本のクロスボウに顔や胸を貫かれた山賊が壁にもたれて死んでいた。銃弾も当たっていて、頭の上半分がごっそりなくなっていた。
短剣を握った腕を曲げて、その上にピストルの銃身を置く構えで、踊り場からさらに階段を降りる。後ろからはクアッロスとトレゼリがついてきている。
階段の終わりに扉が見え、それをゆっくり開けると、果物と酒の陶器瓶がのったテーブルと、鉄格子のはまった部屋が見えた。
牢屋のなかには白い無精ひげを生やしたヒル=カンポス伯爵がいた。
助けがそばまで来ているのに伯爵は歓喜の声をあげない。
そして、しきりに目を右のほうへと動かしている。
イリーナが咄嗟にしゃがむと右から鏡のように磨かれた斧の刃が横ぶりに払われた。
すぐにピストルとクロスボウが発射されて、手足がちぎれかけた斧男は鉄格子に叩きつけられて、そのまま動かなくなった。
「ああ、神さま! ようやく助けが来てくれた!」
「ケレルマンはどこに?」
「ここを曲がった先の部屋だ」
そっちへ急ぐイリーナに伯爵が「でも、何もない部屋だよ!」と叫び声をあげた。
ドアには三つの鍵があった。それぞれ三人が鍵をこじ開け、扉を蹴り開けると、ガエタノ・ケレルマンの大きな手がイリーナの首をつかんで、そのまま突進し、壁に叩きつける。
クアッロスがクロスボウの台尻で背中を思いきり殴った。ケレルマンは野獣のようなわめき声を上げたが、もう一度、今度はトレゼリも加わって、ごわごわした白髪頭を思いきり殴りつけた。
するとケレルマンの巨体が横に倒れ、それに巻き込まれる形でイリーナも倒れる。
「ゲホッ、ゲホッ!」
「おい、大丈夫かよ?」
「ええ。平気よ」
「ったく、すげえじいさんだな。まるで熊だぜ。おい、クアッロス。怪我はないか?」
「……ふたりとも、これを見てください」
ケレルマンが隠れていた部屋に向かう。
そこには何本かスコップが壁に立てかけてあって、全裸で全身を殴打された青黒い男が鎖でぶら下がっていた。
手袋を取って、首筋に触れるが、脈はなかった。
顔はへこむまで殴りつぶされ、右目が飛び出していたが、腕にしてあった『山登りなんて大嫌いだ』の入れ墨で、ケレルマンの居場所をタレこんだ男だと分かった。
だが、気になるのは部屋の隅に開けられた穴だった。
まるで井戸みたいに石で囲いがしてあるが、ロープを結んだバケツの類がないので、水を得るための穴ではないらしい。
「どのくらい深いかな?」
「これって入ったら、業務手当つくかな?」
「つかないだろ」
「でも、誰かが降りないといけないわ」
「僕が入ってもいいけど、そのときはイリーナ、業務手当がつくように隊長を説得してくれるかい?」
ハァとため息をつく。
「わかった。わたしが潜る」
やあやあ済まないねと男ふたりに見送られ、ロープで穴を降りる。ロープは部屋の出っ張りにかけてあったのだが、血でどす黒く変色していた。
しばらくすると、足が底についたのだが、ブーツの裏で何かがバキパキと割れる音がした。
小さな火種用ペンダントを開けて、そのなかで静かに燃える鉄綿から火を移して、たいまつをつける。
赤々と燃える視界のなか、イリーナが見つけたのは穴いっぱいに折り重なった白骨死体だった。




