番外編・来る者拒まず去るもの追わず ④
彼女と会うのは大抵夜遅く。多忙な彼女を思えば妥当なところだろう。
俺にとっても、その方が都合良いのも事実だった。
何より彼女といる間は何も考えなくて良い。
面倒くさい事は言わない。決断が早い。想像以上にあっさりしている態度も実に清々しい。
何も考えなくていい―、その事実が何より俺を心地良くさせていた。
「明日、お仕事ですか?」
「いえ。久々にオフなんです」
良かった~、そうころころ笑う彼女にいつもの強気な態度は見て取れない。
アルコールが進めば進むほど、彼女との間の見えない壁が剥がれていくようだった。
「あの」
「はい」
「良ければ、私の家で飲み直しませんか?」
意外なほどシンプルにまとめられた部屋に上がると、ソファへ座るよう促された。
一つ一つが高価、かつセンスが良い。
あまりに彼女らしくて、思わず小さく笑ってしまった。
「中林さんがつけてるの、トワレですか?」
「ええ」
ワインが注がれているグラスを静かに置くと、さりげなく俺に擦り寄ってきた。
あの華やかな香りと共に。
(・・・・・・)
酔っているのか。
それともそう思わせたいだけなのか・・
(まぁ別にどっちでもいいけど)
「良い香りですよね。凄く合ってる」
「ありがとうございます。横井さんも合ってると思いますよ」
名前・・・、そうポツリと呟くと上目遣いで俺を見つめてきた。
「もう名前で呼んでくれませんか?」
「いいですよ」
「良かった」
華やかな香りとともに彼女の腕が首にからみついてくる。
背中にゆっくりと、添えるように手を回しながら、ふっと落ちてきた唯一の思考。
(まるで流れ作業みたいだな・・・・)
何も考えなくていい。そう。ただ目の前の彼女がすべての思考を奪ってくれるのが心地良かった。
触れられてくる唇も、触れ返す唇も、まるで吸い込まれそうな肌も、全てが最初から整えられているようで、腕が、体が勝手に動いてくれる。
「中林さんってキス上手・・・」
「そう?玲花が上手いからじゃないかな」
「やだ。それじゃまるで私が手馴れてるような言い方・・・」
いや、実際そうだろう・・・、でもまさか、そんな言葉浴びせるわけにはいかない。
それに・・・・。
――これはほんのお遊びだろう・・・?
「じゃ、あれかな。相性が合うとかっていうの」
「それ、凄い口説き文句」
もう面倒だな、唇を塞いでしまえば、彼女もそれ以上は訴えてこない。
後はもう、互いの熱を求め合うだけ―・・・・。
◆◆◆
「いつからつき合ってんだ?」
原稿を読み終えている筈なのに、その人は顔を上げてこない。
しかもやや不機嫌モード。
「何の話ですか?」
「この前、銀座で見かけたんだけど。10時過ぎぐらい?かなりいい雰囲気だし。どう見てもそうとしか思えてこないんだけど」
「ああ・・・・」
あれは確か、誕生日は過ぎたと告げた後、だったらと彼女行きつけの店へと行く途中ぐらいだったろうか。
底冷えがする日で雪でも降るのか、と凍えながら無理やり引っ張られた日だった。
「別に、つき合ってるわけじゃないです」
「遠目だったし、はっきり分からなかったけど、美人だったな」
「そうですね。美人だと思います」
途端、目の前の人は原稿をデスクに広げると、傍にあったコーヒーを口にした。
いつもの空気が一転張り詰めたような気がして、何故だか俺は身構えた。
「まさかと思うけど、同伴とかじゃないよな?」
「違いますよ。それだけはあり得ないです」
「知り合い、にしては仲良すぎる雰囲気だったよなぁ。まさか説明出来ない関係じゃないよな?」
(・・・・・・・・)
そうか。
この人は、探りを入れにきたのか。
石渡さんに説明出来ないような関係なのか、それとも、つき合っているのなら何故、俺が隠すような真似をしているのか。
「彼女は友人の一人です。あの日は寒くてくっついてきて。何ていうか、そういうのを出来ちゃうような子なんですよ。別にやましい関係じゃないですから安心してください」
そう。彼女と俺は独身同士だ。やましいような事は一つもない。
「つき合ってないのか?」
「ええ。そうですけど」
「ふーん・・・・」
(また・・・。機嫌悪くなった)
と言うより更に機嫌が悪くなった。
こんな石渡さんを見るのは随分と久しぶりだ。
「一つ聞いてもいい?」
「何ですか?」
「その子って、彼氏いんの?」
「・・・・・さぁ。いないと思いますけど」
彼女に相手がいようがいまいが、どうでもいい。正直。
そういう深入りはしたくないし、第一そんな事を彼女に求めてなどいない。
同じ匂いを感じた者同士の、一時のお遊びなのだから・・・・。
◆◆◆
「今度、友達と飲むんだけど、和哉も来てくれない?」
「・・・・・・いつ?」
「来週末。どう?」
どうしても日中に会いたいと強請れた挙句、彼女の部屋で告げられる提案。
陽の下で寛ぐ彼女に若干の違和感を覚えていたが、この提案で確信した。
――違和感を覚えている俺自身が一番居心地悪いんだ、と・・・。
「ごめん。無理、だな。それから当分週末無理なんだよ。今、仕事が立て込んでて」
「そうなんだ・・・。残念。友達に和哉の話したら会いたいって言うから」
「悪いね。夜なら少し時間作れるかもしれないから、時間空いたらメールするよ」
ううん、そう言いながら残念がる姿は少し拗ねている様子で・・・。
それが何だかひどく俺をざわつかせてくる。少々の身震いも感じながら。
(・・・・・・)
「ねぇ。今日は泊まっていけるでしょ?夕飯作るから食べてってよ」
「え?」
「何そんなに驚いてるのよ。そんなに私がご飯作るとか可笑しい?」
「そうじゃないよ。仕事で疲れてるでしょ?ゆっくり休みなよ。俺もう帰るから」
優しくそう声を掛けながら立ち上がる。勿論、笑顔も付け加えて。
こんな空間の中で寛ぐなど有り得ないし、早く家へ戻って仕事を片付けたくなってきた。
「・・・・どうしても駄目なの?」
弱々しく繋がれてくる左手。
それは今まで見たことのない強気な彼女の振る舞いには見えなくて。
途端、何かが弾けるような音が聞こえてきた。
「また連絡する。じゃあ、ゆっくり休んで」
別れを惜しむ子供をあやす様に、ゆっくり優しく諭す。
莉奈をあやした時の技がここで役に立つとは思ってもいなかったな・・・、そう頭の片隅で呟きながら。
(・・・・・・・・)
脳裏に浮かぶのは「駄目なの?」と訴えてくる彼女の顔。
何故あんな顔をするのか。
明らかに不安な気持ちを表に現してくるのか。
それとも。
新たな彼女なりのゲームのつもりなのか・・・?
だったら逆効果なぐらい、察しのいい彼女ならきっと理解している筈だ。
俺にとっては何の意味もない事ぐらい―・・・・。
◆◆◆
桜を愛でる暇もないぐらい仕事に没頭した。まるで彼女のあの顔を思い出さないようにするかのように。
深い緑色の葉っぱを目に捉えて何かが零れてくる気がした。
が、もうそれが何かさえ気づくことすら億劫だった。
何もかもが少しずつ崩れていく、そんな音が聞こえてくるようだった。
「ねぇ。聞きたいことあるんだけど」
「――何・・?」
久しぶりに再会した彼女の弱々しい声に我に返った。
言葉も発してこないから、すっかり眠っているものだとばかり思っていた。
「どうして和哉の部屋に呼んでくれないの?」
「え?」
「いつも私の部屋ばかりじゃない?何でかなって」
ペットボトルを掴む手に力を込め過ぎそうになった。
彼女のその言葉ではっきり悟った。そうか、俺の違和感は見事に的中した・・・。
「俺の部屋、汚いからさ。仕事場も兼ねてるでしょ?締め切り近いと修羅場っぽくなるし」
「・・・・それだけ?」
「他に何の理由があるっていうんだよ」
「私を部屋に入れるの嫌がってるように見えるから・・・・」
(・・・・・・・)
面倒くさい。
心の底から。そうマグマが噴火しそうで煮えたぎってくるようだった。
決まっているだろ。
俺のテリトリーに何故、招き入れなければならないのか。こっちが理由を知りたいぐらいだ。
「それに最近、なかなか昼に会ってくれないでしょ?忙しいのは分か、んっ!!」
彼女の小さい肩を掴みながら、優しく起こすと、俺はそのまま唇を塞いだ。
「・・・・っ、ちょ、まだ話し終わってないっ」
「何だかさ、そういう風に言う玲花がめずらしくて、ついね」
「っ。もう・・・・」
いつも以上に肌に、唇に、甘い余韻を残させると、彼女は観念したように俺を受け容れた。
そう。これが一番良いのだ。
――そんな事、最初から分かってるはずだろ・・・・?
そう頭の中で呟きながら・・・・。




