chapter22 ②
「久しぶりね。まさか、こんなところで会うなんて」
「そうだな。久しぶりだね。元気してた?」
「この通り!」
美沙子、と呼ばれたその人は、彼にゆっくりと近づいて来た。
「7年ぶり?」
「そうだな。――あ、そうだ。結婚したんだってね。おめでとう」
「ありがとう。今じゃ、3歳の女の子のママよ。月日が経つの早いわよね」
(・・・・・・・)
単なる知り合い、じゃない事は二人が放つ空気で分かった。
しかも相当に親しかった筈だ・・・・。
「部長になったって聞いたよ。凄い出世じゃないか」
「責任だけ押し付けられる中間管理職よ。出世とは名ばかり」
「よく言うよ。石渡さんが優秀だって褒めてたぞ」
「石渡さんは皆の事褒めるんだから、当てにならないってば」
「それもそうだな」
言いようのないざわつきが、お腹の中心を疼かせる。
この場にいる事がひどく可笑しいような、いてはいけないような、鋭い感覚が私をじわじわ嬲る。
目の前にいるこの大人の女性―、が彼といるとぴったりくるぐらいお似合いで。
そう。
私がこの場にいる事が場違いな気がして―・・・・。
「もしかして奥様?」
ぼんやりと、自分の中にうごめく黒いものと闘っていると、慈愛に満ちた笑顔の、この女性と視線が絡んだ。
「あ、あの―」
「そう。俺の妻です」
(・・・・・・え?)
「あら、そうなのね。素敵な奥様だわ!」
「ただし、未来の妻だけどね。目下、プロポーズの返事待ち」
・・・・何だろう。この違和感。
肩に置かれた彼の手が、彼の発言が、あまりにわざとらしくて。
その手から、私の気力が奪われるような・・・・。
「ごめんなさい。二人でゆっくりしてる時にお邪魔してしまって」
「・・・・・いえっ。とんでもない、です」
「でも良かったわ。幸せそうで・・・・」
ママー、そうはっきり聞こえる声にはっとする。
彼女を呼ぶ女の子―、恐らく彼女の娘さんと、それからご主人だろう。
「それじゃあ元気でね。会えて良かった」
「こっちこそ。体大事にな」
ありがとう―、そう言って立ち去る姿は不思議な余韻を残す。
大人の、余裕ある素敵な振る舞いだった。
ふと、隣にいる彼をゆっくり見上げた瞬間、だった。
「―――・・・・・」
心臓が大きく脈打った。
彼の横顔が、彼の瞳が、訴えている―・・・、気がしたのだ。
ひどく悲しそうで、辛そうで。
目に見えない、私と彼の間に広がる小さな拒絶のような隔たりで。まるで底なし沼にでもはまったかのように身動きが取れない・・・。
「――っ」
何かがある。そう、何かがあったのだろう。
単なる知り合いでないと分かる以上の、二人の間の何かが、彼をこんな風にしているのだ、と――。
たまらず彼の腕を強く掴んだ。
「・・・・疲れたでしょ?どっか寄ろうか?」
小さく頷くしかなかった・・・。
他愛ない話を続ける彼の顔をぼんやり眺めながら、一番聞きたい言葉がチラついてくる。
――聞けばいいじゃない、何でそんなに躊躇ってるの?
そう、どこかで聞こえてくるようだった。
「和哉さん」
「ん?」
「気分悪くしたらごめんなさい。先程の女性って親しい人、だったんですよね?」
「・・・・・・うん。元カノ」
「あ、やっぱり」
それは言わなくても分かるほど感じていた事だ。
それを聞いたからと言って暗くなる程、気分が沈んでいるわけじゃなかった。
でも、迫り来る夕立に不安を覚えているような感覚だったのは確かだ。
どこかで遠雷が聞こえ、そして静かに恐怖がやって来る。
自分の中に湧き上がる感情にどう立ち向かえばいいのか・・・。
「素敵な人でしたね」
「・・・・・・・」
「なに?」
「あ、うん。そういう反応くるのが意外だったから」
「・・・・?・・・・何か変?」
嫌味と捉えられた?それとも怒ってるように見える?
彼があまりに不思議そうに私を見てくる。
「あんまりさ、元カノに対して素敵だって言える人って、そうそういないと思ったから」
「・・・・・でも、本当に素敵な人だったよ。大人の人って感じで」
本当は私だって複雑な気分だ。
彼が何か、何かを抱えてるんじゃないか、って思って・・・・。
「・・・・フ」
「可笑しい、かな?」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、目の前の恋人は可笑しそうに小さく笑ってる。
「全然大人じゃないよ、アイツは。衣里の方がよっぽど精神的に大人なんじゃないかな」
「・・・・・・・・」
どうしてだろう。
彼の言葉が、動作が、すべてが心に突き刺さる。
じわじわと、ゆっくりと、痛みが襲ってくる。
彼があの人と何かあるとは思ってない。それはよく分かっている。
彼の心の中に、かさぶたのようなものがある。彼の奥の、もっと奥の方に・・・・。
彼がそれが何かを悟られないようにしている、そんな気がしてならないのだ。
「衣里?」
ご飯を作っていても、食べていても、彼とお喋りを続けていても、不穏な黒い雲が見え隠れしていた。
その都度、私の疑念という小さな稲光が姿を表してくる。
「衣里?」
「―――、何?」
気が付いた時には、彼の手を払いのけていた。
「ご、ごめんなさい・・」
「具合でも悪いの?」
心配そうに見つめる瞳。
いつもと変わらない優しい顔。
「大丈夫。ご飯が美味しかったから、また作ろうかなって考えてたらボーっとしちゃった・・・」
「・・・・・ならいいけど」
彼の声が、手が、すべてが好き。
でも今は、全てが何もかもが遠くに感じてくる。
真っ黒く染まりそうになる自分が嫌―・・・・
「和哉さ・・・」
大きな手が優しく頬に触れてくる。
いつもと変わらない大きな手。優しい優しい瞳、私を見つめる、それはあの昼間の―・・・
「やめて!」
「衣里・・・?」
拳を作って振り解いていた。
そこにはもう、彼に対して申し訳なく思う自分はいない・・・。
「・・・・・・っ。ごめんなさい。私、今日はもう帰ります」
ソファから立ち上がっても、荷物を取りに行こうとしても、彼の瞳は見れずじまい。
と言うより、見たくなかった。
「衣里、どうしたんだよ」
「ごめんなさい」
腕を掴まれる。それは彼の強い意志のように。
彼の強い想いのように。
「・・・・・何かあるの?あるんだったら言って?前にも言ったよね。衣里の嫌がる事はしたくないって」
「今日はもう、これ以上一緒にいたくないっ」
「衣里!」
体が強張る。今まで聞いたことがない彼の怒りに満ちた声、だった。
――駄目だ。もう黒いものが溢れて抑えられない・・・・・。
「・・・・あの人、昼間のあの人、何かあるの?」
「え?」
「和哉さんが、あの人を見た時、凄く悲しそうな顔してた!」
「・・・・衣里、美沙子とはもうとっくに終わってることだよ。それ以上、何もあるわけないでしょ」
(・・・・・・・・・・)
そんな事を言われるのは分かりきってる。
だから言いたくなかった。こんな状況で。
怒りに任せて彼の腕を振り解いた。
「・・・・・ったら、だったら何であんな悲しそうな顔してたの?」
「俺、そういう顔してたの・・・?」
「っ」
振り解いた勢いで見上げた彼の顔が、やっぱり悲しい顔をしていた。
昼間見た時と同じ。
「何かあるんだったら言って。私、出来る限り受け止めるから」
「何もないよ」
即答で当然のように答える彼の顔を見て、はっきり分かった。
ああ、そうか、と。何だか合点がいった。
――私は頼りにはならないんだ・・・・・。
彼の悲しみも、怒りも、共有する事すら出来ないんだ。
衣里・・・、そう小さく名前を呟かれて、再度彼が触れてこようとした。
「や!」
気が付いた時には目の前で拳を作って身を硬くしていた。
肩を丸めて、全身で彼を拒否していた。もう彼の顔も見たくなかった。
「分かった。もう触らないから・・・・」
ぼやける視線の先に、躊躇う彼の手が見えた。
――・・・・っ、違う!
私が欲しいのはそんな事じゃない。
そんな優しさじゃない!
「もう遅いから、お願いだから今日はここにいて。分かった?」
どうして。何故?
何でこうなってしまうの――?
頬を一粒、何かが流れた。それは悲しみなのか、悔しさなのか。
私の言いようのない思いを悟られたくなくて、彼の言葉も、態度も、思いも、無視するように、気が付くと、逃げるようにベッドルームに駆け込んでいた・・・。




