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シナジー  作者: 鵜野 花
29/62

chapter17 ①

彼が遠い・・・。

それ以上に私自身の気持ちが遠過ぎて、いくら考えても近づけない。

ここのところ、”それ”が真綿のように私を締め付けて、いくら取っても取っても、”それ”が離れてくれない。

痛くはないのに、息苦しい。

――どうしようもなく、息苦しい・・・。








「え、あ、け、結婚決まったんですか?」

「はい。それで5月いっぱいで退社する事になりました」


同じ職場で働く派遣仲間から告げられた。

嬉しさを抑えるように、でも溢れる幸福感を抑えきれないように・・・。


「おめでとうございます。寂しくなりますね・・・」

「ありがとうございます。・・・・松本さんこそ、結婚の予定、ないんですか?」

「あ、私は、全然・・・」

思わぬ切り返しに、曖昧な回答で誤魔化した。


「そう、なんですか。松本さん、最近すごく可愛くなったし、てっきり、そういう話でもあるのかと思って・・。って、すみません。私、変なこと・・・」

「いいえ!いいんです。お幸せにね」


照れ笑いする仲間の笑顔を見ながら複雑な気持ちに気が付いた。


(皆は、世間一般の人は、こういうのってどうやってるんだろうか。・・・・私が、変、なの・・・?)


好き、なのに、何故怖い、とか、嫌だとか、思ってしまったんだろうか。

気持ちと体は別なのだろうか。




あの日、外出から戻った彼は、ソファで正座する私を見て少し笑った。

そして言ってくれた。

――私の気持ちが落ち着くまで待つ、と・・・・。


それから一ヶ月、普段通りに接してくれる彼と、いつも通りに外で会って食事をする。

そしてそのまま、それぞれの自宅に戻るのだ。

暗くなる前に。


あれ以来、彼はめったな事がない限り、私に触れてこようとはしない。

それが、安心するような、切なくなってくるような気分になるのだ。

自分がそうさせてしまっているんだと思ってしまって・・・。



◆◆◆



「駅まで送ってく」


少し冷たい夜風が頬を撫でた。昼間の暖かさが嘘の様に、薄暗さとともに冷たい空気がまとわりついてきた。

薄暗い、と言ってもまだ気を遣ってもらう程の暗さでもない。

でもこれはいつも受け容れている。

そうでもしないと一緒にいられないから・・・。


「そういえば、お花見した?」

「お花見って程じゃないですけど、家の近くに公園があって、そこはチラっと見てきました」

「今年は寒かったから、結構長持ちしてるよね」

「あの・・、中林さんは大丈夫ですか?まだ・・忙しいですか?」

「何とか大丈夫だよ。やっと落ち着いてきた感じかな・・・」


(良かった・・・・)


暖かい風が吹いても、淡い花びらを目の前にしても、考えるのは、浮かぶのは彼の事。

――彼はどうしてるのか、体調は大丈夫か、今、何を考えているのか・・・。


「危ない」

「え?」


彼の腕が私に伸びてきた、と思った瞬間、腕と腰を引き寄せられた。

懐かしい、温かい香りが久々に鼻を掠める。

・・・・耳に、車が通り過ぎる音が聞こえてきた。


「大丈夫?」

「・・・・・・・」


温かい。それに落ち着いてくる・・・。

・・・・・・・。

彼のシャツを強く握り締めた。

――彼って、こんなに大きかったっけ?

こんなに温かかったっけ?

・・・・・・・。

こんなに、安心、出来る人だったっけ―?


「――衣里ちゃん?」

「あ、ごめんなさい。大丈夫です・・・」

「・・・車、結構飛ばしてて危なかったな。平気?」

「はい・・・」


私を気遣うように、彼は優しくそっと体から離れた。

途端心臓が大きく跳ね上がる。

さ迷いながらも空を切る。手が、腕が、彼に向かって。


「・・・・衣里ちゃん?」


離れようとしていた腕を力強く引っ張り返した。

この手を、腕を、何よりも彼を離したくない・・・・・。


「ずっと一緒にいちゃ駄目ですか・・」

「・・・・・無理、しなくてもいいんだよ。俺は待ってるし」

「無理なんかじゃない!」


彼の()を真っ直ぐ見た。

一瞬大きく見開いたかと思うと、すぐにいつもの優しい瞳に戻っていた。


(・・・・・・・)


知らなかった。

彼が、こんな顔を、こんな穏やかな顔をしていた、なんて。

いつも彼を見ているようで何も見てなかったー、改めて思い知らされる。


「・・・・・この前はごめんなさい。どうかしてた・・・」


そう、本当にどうかしていた。

彼が好きだ、心の底から。もう彼を、彼の手を放したくないー・・。

左手に温もりを、欲しかった彼の温かさを感じて強く握り返す。


「俺の家で、夕飯食べる?」

ゆっくり微笑む彼に、私もゆっくり応えた。


「はい・・・・」










「・・・中林さん、料理上手すぎます」

「そんな事ないと思うけど」


手には洗い物。横目で彼を見ながら話しかける。

私の思いつめたような物言いを明るい笑顔で受け止めながら、彼は手早く美味しいご飯を用意してくれた。

それは私の助けなどいらない程、あっという間に。

気がつくと解れていた。彼の笑顔が少しずつ染みこんでいった。


「すごく美味しかったです。・・・これじゃあ、中林さんの誕生日に作っても納得してもらえないかも・・・」

少し肩を落とす私の隣で、フフっと軽く笑う声がした。


「食べ物屋でバイトしてた事あるから、その名残り。そもそも全然レパートリーないからさ」

残りの皿を片付け終えると、彼はこちらへゆっくり振り返った。


「衣里ちゃんも結構手馴れてる感じはしたよ。毎日作ってるんじゃない?」

「そんな、毎日ではないですけど、出来るだけ作るようには・・・」

優しく手を掴まれた。


「そっちの方がよっぽど凄い事だと思うけどね」


――雨の音が、した。

彼に見つめられて聞こえてきたのは、雨音が響く音。


「・・・雨降ってきたんですね。気が付かなかった」

「そうだね」


彼にどうしても触れたい・・・。

手を伸ばして一歩踏み出した。


「・・・・衣里ちゃん。無理しなくてもいいんだよ?」

彼の胸の中で首を小さく振る。


「無理なんかじゃない、です。中林さんに触れたいです・・」

「・・・和哉」

「え?」

「そろそろ下の名前で呼んでくんない?」

彼の温かい手が耳を掠めていて、とても、くすぐったい・・・。


「・・・ん・・・」

思わず体を捻ってしまった。


「あれ?衣里ちゃん、意外に耳弱かったりする?」

「そ、そんな!そんなことは、ないと思います・・・」

(うわ・・・、か、顔から火が出そう)


そういう予感を漂わせているせい、なのだろうか。

今日の彼はいつも以上に発言が直接的な気がした・・・。

で・・、低い声が耳元で囁かれかと思うと、強く抱き締められた。


「名前、呼んでくれないの?」

「っ」


背筋がゾクリ、とした。

敏感になり過ぎているせい、なのか彼の声がいつも以上に耳の奥に艶っぽく響く。


「えっと・・」


甘い感覚に囚われたようで声が上手く出せない。

彼のシャツを強く握り締めていると、頭上から小さな笑いが落ちてきた。


「まぁ、徐々にね・・」

彼に導かれるように手を繋がれた。


――雨音と自分の鼓動。

気が付くとベッドの上に腰掛けていた。

彼の顔を見つめながら、どうしても言わなくてはいけない事が浮かんでいた。

いつ、どのタイミングで、言うべきなのか。

私が彼に対して怖いなどと思ってしまっていた事と少なからず関係していたこと・・・。

彼の唇が触れてくる―。

そう、今しかない、と思った。


「あ、あの」

「ん?」

「い、言わなくちゃいけない事があって・・・」


その・・、と言ったところで思わず口ごもった。

(駄目!きちんと言うの。もう逃げない!)


「わ、私、初めてで・・。け、経験ないん、です・・・」


嫌な、嫌な心臓の鼓動が脳にまで響く。

緊張、じゃなくて、焦りだ、多分・・・。


「うん」

「・・・・・え?」

「何?」

「・・・し、知ってるんですか?」

あまりに普通に返答する彼に面食らった。


「はっきり知ってたわけじゃないよ。衣里ちゃんの態度とか見てたら何となくそうかなって」


途端、全身が硬直した。

耳まで熱を持ってるんじゃないかと思うぐらい、熱くなってきた。


「・・・な、何かいろいろ・・恥ずかしい・・・」


思わず彼のシャツを掴んで俯いた。

・・・・・何だったんだろう。一人で勝手にあれこれ考えて、悩んで。

直後、ふんわりとした温かさに包まれた。


「・・・何で?何が恥ずかしいの?」

「いろいろ一人で考えてたこと全部、です・・・・」

「・・・・・俺が、怖い?」


彼の胸の中で大きく首を横に振る。彼の背中をぎゅっと掴んだ。


「怖くない。怖くはない、です・・。ただ、し、心配だったんです・・。私、何も分からないし・・、どうしたらいいのか全然・・・・。だから、嫌がられるのかと思って・・・」


両頬が彼の大きな手で触れられた。

そして彼の優しい目と向き合わされた。


「やっぱり衣里ちゃんは真面目だな。ま、だから好きなんだけどね」

「・・・・っ」


やっぱり、彼は優しい。

と同時に、こちらが恥ずかしくなるくらい優しい言葉をくれる。


「俺は衣里ちゃん好きだよ。まるごと全部ね」


応えたい、そう思った。

言葉、以上に態度で、全てで―。


「私も好き。か、和哉さんが全部好き、です・・・」


彼は、ただゆっくり微笑んだ。


「俺も好きだよ、衣里。大丈夫、心配しなくていいから・・・」


彼の優しい声が耳の中で優しく響く。

安心、そう、もう不安なんて何もない。彼が、彼が好きだー。

温かく触れてくる唇、大きな手が何度も何度も優しく撫でてくる。

頬を、唇を、頭を、髪を・・・。


背中に柔らかい感触。シーツに広がる髪。

彼の瞳が見える。優しくて甘くて、温かい・・・。

ゆっくり目を閉じると、唇が優しく落ちてきた。

彼の温かさを全身で受け止めながら、聞こえてきたのは静かに落ちてくる雨音。


知らなかった。

――雨音がこんなに優しい音をしていた、なんて・・・。






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