水竜
マルコの短く刈り込んだ赤毛が、渓谷の風でそよそよ揺れる。涼しい水辺の風に気持ちよさそうに目を細めたマルコは、上流の岸壁に視線を送る。
「工房までは水竜で行こうぜ」
「えっ、うん」
私が1人でこの場所を突き止め、1人で工房に辿り着き、1人で頼み込んだ苦労を嘲笑うかのように、砥石渓谷の急流が軽やかに岩場を駆け下る。
瀬音に負けない声を張り上げ、マルコが竜の言葉を叫ぶ。水竜は少年の呼びかけに応えて、岩の多い急流から水柱を立てて一息に姿を現した。
私たちの立つ岸辺に盛大な水飛沫が飛んでくる。私は咄嗟に防水したが、マルコは水圧に耐えて笑っていた。ずぶ濡れを乾かしもせず、一旦空高く駆け昇った銀色の細長い竜が降りてくるのを待つ。
「綺麗」
「だろ?」
マルコは、まるで自分のことのように自慢する。河原を焼く灼熱の太陽が、マルコの濡れた服や赤髪から水蒸気を上らせる。
ゆらゆらと闘気のように立ち登る湯気が、がっちりした体軀の傷だらけの顔や腕を包む。
「あはは、水の精霊みたい」
私はどこか滑稽でしかし頼もしいマルコの姿が、この激流に住む精霊のように見えたのだ。
「うーん、風の精霊には祝福貰ってるけど」
当人は頓珍漢な受け応えをしながら、私の手を引く。水を滴らせたままで風を纏い、しなやかにくねる水竜の背中に飛び乗った。
「あれ?ピアス片方ないよ」
「ええっ!」
ふと見ると、初めて贈り物を交換した時にあげたお気に入りピアスが、片方だけになっていた。砥石渓谷の河原に着いたときには、確かに両方ともラゴサ牛乳の瓶を型どったピアスが揺れていたのだが。
マルコは耳を片方ずつ触って、片方無いのを確認する。途端に青ざめ、既に上昇していた水竜の背から飛び降りてしまった。
長身のマルコ3人分くらいの高さはある。風で落下速度を調整しながらではあるが、それなりの速さで落ちてゆく。
魔法で探索して引き寄せればいいのに。
まあ、それだけ焦ったということだろう。お気に入りであり、限定品であり、記念品だからね。
眼下で静かに水に入るマルコが見える。遠見の魔法で手にとるように見える。マルコは、魔法の力で音もなく飛沫も上げずに足から入る。
大柄なマルコがすっかり隠れてしまうほどの深さだ。マルコは水中を泳ぐ事なくキョロキョロしながら歩いてゆく。移動魔法の応用で、どこでも平地の空気中と同じように動き回ることができるのだ。当然呼吸にも問題はない。
しかし、あんな小さな軽いもの、とっくに流されてしまったんじゃないのかな。そもそも、どうして外れたんだろう。魔法で耳にくっついていたはず。魔法の効果が切れたのなら、両耳同時に落ちるだろうに。
「あっ?」
耳元で鋭い水音がした。水鉄砲のような音だ。子供の遊びより遥かに鋭い音なのだが、やはり水鉄砲に似ている。
私の茶色い癖毛が耳の側で一房切れて風に散る。咄嗟に風を操り周辺の生き物を炙り出す。
「チビさん」
水を纏って反射で隠れていた小さな水竜が、嬉しそうに虹を作る。ゲームには多分いなかった生き物だ。やり込んだかどうかも覚えていないので、おまけにいたかもしれないが。
もしかしたらここ砥石渓谷も、誰かのルートのイベント会場かもしれない。特殊な砥石がイベントアイテムならば、やっぱりマルコかなあ。私が覚えてないということは、ここではへんな矛盾発言をしなかったのだろう。
ん?
なんだろ?誰かいる?
大きな水竜の背中で幼竜とパシャパシャ遊んでいると、川でピアスを探していたマルコが不自然に立ち止まっている。
何やら救助活動をしているようだ。
よく見ると、太い蔦のような植物で作られた細長いカヤック風の舟が転覆した瞬間だったらしい。マルコはなんらかの魔法でカヤックを元に戻す。乗っていたのは1人のようだ。
マルコがその人を川から助けて再びカヤックに乗せ、引っ張っている。マルコは平然と水流も水中も歩き回っていたのでうっかり感覚が麻痺していたが、砥石渓谷の渓流は岩に分かれて逆巻き駆け下る激流なのだ。一瞬でも遅れていたら、船も人も木っ端微塵であっただろう。
岸までくると、風で水分を飛ばして貰った人物がカヤックから降りてきた。長い緑の髪が太陽に輝きエメラルドのように美しい。
緑か。特に植物魔法特化でもないのに、唐突な魔法植物製品らしきカヤック。しかも転覆遭難。いわくありげなアイテムを使い、ベタな事故が発生した。これ、イベントだよね?
あー、やっぱり。
岸辺を少し外れた木陰からマーサらしき水色の髪の人影が走り寄る。主に岩と激流のこの渓谷に可愛らしいサンダルとワンピース姿ですよ。山の人に見つかったら説教2時間安全講習コースですよ。マーサも魔法でなにかしらして大丈夫なのだろうけれども。
しかしこの人たち何しに来たんだろ。主人を選ぶほどの高位魔剣持ちは、乙女ゲーム(題名忘れた)のメインキャラクターではマルコ・セレナードだけである。他のメインキャラメンバーは砥石渓谷に用などないはずだ。
おや、また誰か出てきた。金髪もじゃもじゃ髪眼鏡ことロドリゴ・デ・ベラスケスだ。お?ベラスケス?砥石渓谷って、石材資源で有名なベラスケス地域にあるじゃないか。
これロドリゴのイベントか。
マルコからフルオートマチック仕込み傘をプレゼントされた日に武器屋で聞いた砥石渓谷近辺の地名を、後日調べた。卒業祝いには是非特別な砥石をプレゼントしようと思ったからだ。
わがセンテルニヤ王国では、地理教育はほとんど行われておらず、武器屋の店主が口にした地名はわたしの知らない場所ばかり。
魔法ネットでも風景写真はあるものの、アクセス案内やルートマップはほぼない。これを検索していて気が付いたのだが、海外情報はネットに掲載される例が極端に少ないようだ。
そりゃそうだよね。
魔法を使える前提の機械と通信技術だから。
諸外国には、魔法が使える「魔法民族」はほんのわずかしか存在しないのである。当然、発信できる人は、センテルニヤ王国民がほとんどだった。
センテルニヤ王国では、田舎にいれば近所で事足りるのでまず地図など不要だし、都会に来れば主要目的地に直接行かれるゲートがあるためやはり地図など不要。我々は地理というものを把握する必然性を感じない国民なのだ。
王都への道はなぜかどの地域からも一本道なので、魔法学園への入学について困ったという話も聞かない。
しかし、全く魔法の力を持たない諸外国人はそれでは交易も戦争も不可能である。この世界そのものに地理的概念が存在しないかというと、それは違うのだ。
そうした諸外国の作成した地理や地誌の資料が自由に閲覧できる場所はある。あまり人気はないが、「エンカルナシオン王女記念センテルニヤ王立地理院附属図書館一般開架閲覧室」という施設だ。
ここは、地理地誌に特化した専門図書館の一般利用可能な部門なのだが、ゲームでは単純に「図書館」として登場した。散歩中に通りかかり、建物を見て思い出したのだ。
ゲームでは単なるセーブポイントだったような気がする。情報を得られるかと思って選択したら、記録しか出来ずにがっかりしたのを薄っすらと思い出す。
たしかキャラクターの設定はゲームを始める時にしか出来なくて、レベルアップは特に用意されていなかったように思う。買い物は購買部だけだから、本当にセーブしかできない。
購買部も不便だった。謎のアイテムが結局何にも使う事なく数少ない持ち物枠を圧迫しただけなのも、愛好家の間では話題になった。捨てることもできないので、重要アイテム風だし隠しステージを求めて周回する人がしばらく情報交換サイトで活発な書き込みをしあっていた。
しかし現実では、一応は専門図書館である。ただし一般閲覧室は大変に狭く、蔵書も少なめ。天井は高いが書架は低い。それぞれの棚は子供が2人並べばいっぱいの幅しかない。五段あるそんな棚が6本ほど壁際に寄せられていて、事典・辞典類、地図、そして地域の歴史や偉人の資料がゆったりと並ぶ。
私は砥石渓谷の位置と大まかな自然や注意事項を知りたかっただけなので、これで十分である。貸し出しはできないが、魔法による複写も申し込めばこの図書館で定められた規則の範囲で可能だ。
そんなこんなで私は砥石渓谷をつきとめた。ついでに読んだ地域の民話で、砥石渓谷では原料となる特殊な石が採れるだけではなく、それを加工する魔法の工房があると知った。
それはあくまでも民話である。魔法剣を研ぐための特別な砥石をつくる職人が、砥石渓谷の岩壁に代々住んでいるのだという。
それ以上のことはわからなかった。
そこで例の武器屋に聞きに行き、岸壁の工房は手がかりがなく、武器屋では町の砥石工房から仕入れていると言われた。手がかりはなくなり、とにかく現地に行ってみることにした。
センテルニヤ王都から砥石渓谷へは、汽車で2日ほどの旅である。この汽車は魔法エネルギーで走る汽車の姿をした現代車両である。蒸気機関車は発明の痕跡もないが、この汽車はある。閲覧室にあった交通地図で初めて知った。この乗り物は、荷馬車に毛が生えた程度の怪しげな謎馬車とは比べ物にならないほどの速度が出る。
馬車で王都から1日程度の場所にあるラゴサは田舎だと思っていたが、ベラスケスはもっと田舎だった。
そもそも人がほとんど住んでいない。石切場作業員はいるはずなのだが、登山口駅周辺には人の気配がなく、そこから汽車で1時間ほどの城下町は村と言っても良いほどに鄙びていた。
渓谷を抜けた森の中には領主の小城がある。城門駅まで導く砥石渓谷鉄道は登山口からすぐに始発があり、渓流を見下ろす山中を走り鉄橋を渡る。下りは渓谷を離れて殺風景な岩場を抜け、麓の森へと至るのだった。
森の城にしては低地に築かれた城の周りに狩猟集落のような城下町がある。目に見える風景だけだと現代鉄道駅があるような村の文化レベルとは思えないが、地理院で見た資料によると魔法家電の普及率は100%だ。
ゲーム作者はただイメージだけで設定したのだろう。
ラゴサの果樹園と酪農の従事者がどこからくるのか不明なのと同じで、石切場作業員の住居も石材加工場もどこにあるのかわからない。
因みに、センテルニヤの曖昧な地理統計では、いつのデータなのかよくわからないが人口はベラスケス領全体で8000人ほどだった。ラゴサ領の3分の1以下である。
そんなことをつらつらと思い出しているうちに、眼下の河原には乙女ゲームキャラクターのメンバーが勢揃いしていた。
遠足イベントだったようだ。
お読みいただきありがとうございます




