第九十九話「chain・3」
階段を上る大勢の硬質な足音が鼓膜から入って脳内を埋め尽くす。懐中電灯は足元と目の前とを交互に照らし、目の動きはその光に支配される。灯りが照らすところだけを見ていたい。暗闇に思考を支配されれば浮かび上がる恐怖。
怖くてどうしようもないはずだった。なのに恐怖の代わりに感傷だとか寂寥だとか、そういう感情が静かに打ち寄せる波のように去来する。引き金を引いてからの数十分。俺は人でなしになるどころか欠けていた何かを埋め合わせたような気がした。足りなかったのはいったい何だったんだろう。
秋津さんたちの階段を上る速度は順調と言えば順調で、幸い足止めを喰らうような状況にはなっていない。確実に俺たちは屋上まで歩みを進めている。ここが何階かは忘れてしまった。考えることもしなかった。
三階に一回くらいのペースでそのフロアに自分たち以外の気配を感じることがあった。うめき声にも似た風なのか、うめき声そのものなのか。足音のような気もした。
幸い俺たちが進む道はこの階段を上る道だけだ。ゲームのようにカギを探したりする必要はない。だから気配がしたところですぐ近くにいないことが分かれば懐中電灯で照らすこともせずにすぐさま階段を上り続けた。
誰も何も言わない。喋れば必要のない敵を近づけるからか。そうじゃない気もする。みんな一心不乱なのだ。死の蔓延する階層の一番上には確実に生がある。こんな世界で誰もが誰かの生を願っている。それは人より少しねじ曲がって育ってきた俺でも同じだ。
どうか、どうか、このまま何もなく屋上へと向かってくれ。そう願う俺の体が秋津さんの背中にぶつかる。
「って……」
ごめんなさいと謝ろうとする口が秋津さんの大きな右手にふさがれる。瞬間もごもごしゃべろうとした俺の口が止まらざるを得ない状況をこの目に焼き付けていた。
……なんだあれ。
喋れないから頭で思う。
漂う屍臭。漂う死体。踊り場に密集したゾンビの群れ。腐臭は濃密に凝縮され空気中に黄土色を浮かばせているんじゃないかというほどに抑えた鼻を貫こうとする。階段を上ろうと先頭が躍起になっているのか肉体が階段をのたうち回る音が聞こえている。その体も別のゾンビに潰されこもった音に変貌した。パキパキと骨の折れ行く音を警戒に響かせながら。
まさか誰かここで死んだのか?いや……雨宮君たちは確かに花火を打ち上げたんだ。彼らは今屋上にいるはずだ。おそらくは彼らを追おうとしてこんな状況になってしまったのだろう。
俺に見えているのは行列に参加しようと死体の波に飲まれるゾンビだけで先頭は見えていない。でも先頭にいるゾンビは押されて踏まれて手足や体の骨がぐちゃぐちゃになっているだろう。なんでそんな余計なことを考えてしまったんだ。
懐中電灯をすぐさま下のフロアに向けて足音を立てぬよう慎重に下へと戻る。ここで転んだら足手まといもいいところだ。死体の海に投げ込まれたところで文句は言えまい。
幸い大きな音は立てることなく下のフロアに戻れた。先をゆく秋津さんと成塚さんは静かにフロアの扉を確認しながらどこか開いている場所を探しているようだ。
「秋津さん」
石井君が声をあげる。
「一番奥を照らしてください」
秋津さんが何も言わず懐中電灯を向けるとそこには廊下で倒れている遺体があった。左腕がもぎ取られ欠損している。人として死んだのかは不明だ。動き出す可能性の方がずっと高い。少し前までは死んだ人が動き出す確率なんて全くなかったのに。
秋津さんはゆっくりと歩き出し、四分の一が齧り取られた後頭部に刀をずぶずぶと突き刺していく。ここに至るまで全く動くことは無かったけどいずれにしろその行動は正しい。
ついでのように遺体の正面にあった部屋のドアノブに手をかけるとノブがゆっくりと回り少しだけ開いた。
「ここでいい。一回立て直すぞ。……あと、お前。お前から先に入れ」
たぶん名前を憶えられていないんだと思う。名前で呼ばれた記憶が一度もない。
「生憎狭い室内だ。それ以上チャカを持ち続けるってなら相応の事はしてもらうぞ」
なるほど。それもそうだ。秋津さんも成塚さんもほかのみんなも狭い室内では扱いづらい武器ばかりだ。俺のグロックの方が狭い状況での対ゾンビには向いている。
銃を構え、慎重に中へと入る。ゾンビは既に倒した後だけどおっかなびっくり歩くさまは一向に変わらない。たかが一体や二体倒したところで経験とは呼べやしない。自分を卑下する性格がなんとなく役に立った瞬間だろう。調子には乗らないという意味で。
開け放たれたドアの向こうへ慎重に歩を進める。今のところ気配はない。ゾンビと争った跡もない。部屋は小奇麗で小物を見るに女性が一人暮らししていたようだ。嗅いだことのないようなとても良い香りが俺を包んで恐怖心を鈍らせる。
鍵がかかっていないということはすでに手遅れかもしれない中で急いで逃げ出したのだろう。たぶん未だにこのマンションの中にいたっておかしくはない。
「……大丈夫そうです」
異常な静寂がそれを教えてくれている。
狭い部屋にそれなりの人数が腰を下ろす。小さなテーブルが邪魔だったので花田君が足をたたんで壁に立てかけた。点くことのない天井の照明からぶら下がる紐に小さな懐中電灯を括りつけて照明として機能させている。おかげで部屋の中がなんとなく分かった。玄関は小奇麗だったけど、たぶん使用済みのタオルとか化粧ポーチが床に放られている。これはこれでいい。我ながら何の話だ。
「まぁ、とりあえず休憩も兼ねてってことだな」
秋津さんが両手を伸ばして寝そべる。
「休みたくはなかったがな」
確かに成塚さんの言う通りでもあるのだけど、引きこもり的に体力の限界が近づいてきていた。ここで休憩しなければいざゾンビと対峙した時には息切れで照準が合わないだろうから。……まぁすでにゾンビと対峙したからこの部屋にいるんだけど。
「それで……どうしますかあれ」
「完全に足止めを喰らったな」
テレビの下のガラス戸に使い捨てカイロの姿が見えたのでなんとなく取ってみる。期限が切れているのか暖かくはならなかった。どうにかして寒さだけでも紛らわしたい。落ち着くと今はいらない感覚まで戻ってきてしまうのだ。
「……ここ何階ですかね」
窓を開けて石井君が呟く。俺も気になって石井君の後に続きベランダに出る。正面を見て分かった。少なくとも俺の部屋よりは高い。下を見るともっと高いことがぼんやり見える家の屋根で分かった。結構上まで上って来たものだ。もうすっかり暗くて鮮明には分からないのが救いか。あんな所に住んでいながら高所恐怖症の気があった俺は早々に部屋の中に入る。
「……いやぁ……落ちたら死にますよこれ」
「だろうな。結構上って来たし。だがやらなきゃ雨宮たちに辿り着けない」
「ああ、その通りだ」
なぜかまたしても会話が成立している花田君や秋津さん達。ん?何をするって?
青白い照明に照らされたみんなが同時に俺の方向を向く。
「……いけそうか?」
花田君が申し訳なさそうに尋ねる。声は低いが確かに申し訳なさそうな感じを醸してはいる。尋ねられた俺は何をするのかさっぱり分からない。
「……ごめん、ひょっとして馬鹿かと思われるんじゃないかなって思うんだけど、どこまで話が進んだのか俺にはさっぱりで……」
秋津さんが大きなため息をつく。「やっぱこいつには無理だ」
「ならここで少し待ってもらうか?助けには来られるだろう」
「そうとも言い切れねぇよ。現に陸たちに会ってからこのマンションをどう脱出するか全く考えてねぇ。こいつを拾ってすんなり帰れるか?俺は無理だと思うがね」
「ま、待ってくださいよ。話が見えてないだけですって!言われればなんでもしますから!!」
「……なんでもするねぇ」
秋津さんが二回目のため息をつく。
「じゃあ決まりだ。そのベランダから上の階に侵入する」
そう聞いた俺はまず無理だとは思わなかった。ただ納得していた。そりゃあ俺の方へと視線が向くわけだ。
よく考えたら俺の周りにはスポーツが得意そうな人間しかいない。石井君たちは言わずもがなだし、成塚さんも言わずもがなだし、秋津さんに至っては……言わずもがなだ。そういえばなんかのゾンビ映画でも普段から運動しとけって言ってた。目の前の生存者たちを見ればそれがフィクションの中の話だけではないということが分かる。
秋津さんが手始めにベランダの手すりに足をかけて二本足でゆっくりと立ち上がる。秋津さんの視界や背中に吹く風だとか、想像しただけで背中がざわつく。これ、本当に俺もやるのか?
「どうだ秋津。上階の縁は掴めそうか?」
「行けなくもねぇが俺の身長でやっとってとこだ!俺より低い奴はこの上で跳ねることになるだろうな!」
「えぇぇぇ……マジっすか」
石井君が表情を歪める。俺はそんな余裕すらなかった。たぶん考えることを放棄したのだと思う。
花田君が続く。高身長の彼もまた秋津さんと同様手すりの上で跳ねることなく上へと上っていく。そんな様子を見て次第に状況を受け入れるしかなくなっていく。
まず手すりに足をかけることから始めなくてはならない。この高所の中で狭い足場に二足歩行だ。高所ゆえに風だって半端じゃない。死ぬ要素がいくらでもある。某賭博黙示録のように代わりに二千万円のチケットがもらえるわけでも無い。やりたくない。
次に、秋津さんたちは今も悠々とやってのけているが、俺には上階へと上る筋力が無い。このマンションの一階でやったことと同じだ。結果は見えている。
こうしている間にも石井君、山崎君と斉藤君も上へと上っていき、最後に成塚さんも上っていく。四人はどうやら手すりに届かなかったみたいだけど、跳ねると言っても思い切りジャンプするわけではないらしい。縁はそこまで高くはない。それがせめてもの救いだ。救われてねぇよ。
そして、俺の番がやってくる。
「日野君!あまり無理しなくてもいいからな!掴めるとこ掴んだら俺たちでも引き上げるから!」
うん。そうしてほしい。
けれど……そもそも手すりの上に乗ること自体が無理だ。もう下は見えないけど、ここが高所と知ってしまった以上、アラームが頭の中で鳴り響きっぱなしだ。
慎重に身を乗り出して右足からかけていく。脚の筋肉が張る。安全性を重視してベランダの柵は高めに作られている。当然と言えば当然だが。中に木でも入っているんじゃないかというくらい柔軟性の無い体が悲鳴をあげる。どうにか右足が手すりに置かれたので両手でギュッと手すりを掴んだまま勢いで左足を乗せる。電流が走らなくてよかった。安堵のため息もほどほどにゆっくりと上階の壁に手を付きながら俺は二足歩行の生き物へと進化する。
こんなことで感動している場合ではない。すぐさま上階の柵に手を伸ばし、ギリギリのところを掴む。儚いが確かに立派な命綱だ。
「力入れて体を持ち上げろ!」
「腹筋に力入れるんだ!!」
ここに来て明確なアドバイスどうも!!俺に自分の体を支えるほどの腹筋があるかどうかは知らないが!!
でももうやるしかない。手を離せば数秒空を自由に飛んで体が爆発四散だ。火事場の馬鹿力の存在を信じ切るしかない。やれ!!やるんだ俺の体!!さもないと死ぬぞ!!
「がああああああっ!!」
花田君の大きな手が俺の腕を掴む。柵から手を伸ばし脇の下から石井君の手が入る。右手を上に、左手をさらに上に。支えられながら俺は徐々に上階へと上っていく。腕は熱く猛り、歯は食いしばられ、足は着く場所を探してばたつく。「あとちょっとだ!」耳は激励の声を入れる。目は上を向く。心臓が猛スピードで拍動する。力が筋力に集中する。風の音が消えていく。力が抜ける。右手が滑り落ちる。左手も滑り落ちる。柵を掴んでいた手はベランダの床に激突し焼けるような痛みを放つ。脚がばたつくことをやめて無くなったかのように思う。浮遊する。落下する。どこかにどこかをぶつけながら。痛みが走る。闇が見える。耳が壁に掠れる。無くなったかもしれない。手はどこにある?無くなったかもしれない。声は出せる?無くなったかもしれない。
いや……ちょっと……。
走馬灯はやってこなかった。ただゆっくりと時間が流れた。エレベーターが降下するよりずっと遅く。どこかに何かが当たったって痛くはなかった。体が落ちた後の事を知っているから?「指が飛んだって耳がもげたって落ちた時にはそんなの関係ないよ」もう脳が半分停止したのかもしれない。死ぬから。そうだ死ぬんだ。
いやぁ……。それはちょっと……。
落下中の頭が地面を向く。空を失くす。
ここで死ぬのは勘弁願いたいんだけd
R.I.P.




