第九十一話「I'm home.」
今まではただひたすら、真実を知ってしまうのが怖かった。
今になって真実を知らないまま生きていくのが怖くなっていた。
日は傾き始め、その場所が近づくにつれて足取りは重くなっているような気がする。けれど部員を始め、仲間たちは俺の後ろを歩いたままでその歩調が弱まっていく事さえ気がついていないようだった。
もしかしたら俺がそう感じているのだけなのかもしれない。
「部長、さっきも聞いたんですけど、行かなきゃいけないところって」
もう、とうに歩き疲れたであろう有沢が尋ねる。
「……ああ。半分は必要なものを取りに行くのと、もう半分は俺のわがままかもしれない」
「わがままは言わないってパパが言ってたよ」
最上に手を引かれる詩音ちゃんが俺をたしなめるようにいう。
「……そうかもしれないね。でも、これだけ聞いてくれたらしばらくわがまま言わないって約束するからさ」
「ならお菓子を買ってもいい」
「あはは……。お菓子が食べたいわけじゃないんだ」
けれど、確かにお腹は空いてきたかもしれない。
「帰るんだ。一度俺の家に。ただいまを言ったら秋津さんたちに会いに行こう」
先に進むために、真実からいつまでも逃げているわけにはいかないから。
久々のわが家が目に入ったとき、それがなんだか自分の家には思えなかった。帰るべき場所はここじゃないと心になすりつけてきたからだろうか。あずき色の屋根瓦にクリーム色の壁。少しだけ大きい窓の一軒家。疑いはしたがやはりわが家だ。
「……そこそこいい家に住んでたッスね」
「褒めてるのかそれ」
「まぁでも、せっかく帰って来たんだから私たちもお邪魔するッスよ。地味に歩き疲れたっス」
「ああ、そうだな。幸い危険は少なそうだし」
走り抜け半ば強引に抜けてきたからそうおちおちしてはいられないが、今のところ食屍鬼の影はない。だからもし休めそうなら少しだけゆっくりして行こう。
……少しだけ。そうしないときっとここから離れることはできないから。
「散らかってるかもしれないけど適当に休んでくれ。そんなに長くはいられない。陽が落ちるまでにできるとこまでやり遂げたいんだ」
「……何か考えがあるの?」
「ああ、秋津さん達には迷惑をかけることになると思うけど、もう他に手も無さそうだし」
そういって玄関の戸を開けようとした時、中島さんが口を開いた。
「……今そこのガラス戸に人影が見えたんだけど」
その言葉は脳に直接注がれた冷たい氷水のようだった。疲れにぼやけていた頭は不快にさえ思えるスピードで冴えていく。
庭に続くガラス戸を恐る恐る見回して薄いカーテンの向こうに人影を探す。
「……きっと、まだ家の中にいたっスよ……」
藤宮は非常に低い可能性を藁にもすがるような思いで小さくこぼす。
中で何が起きているかなんてわかり切ったことだった。だから俺はすべてを諦めたように力を失いつつある拳でガラス戸を叩く。小さく、けれどなるべく音を立てるようにして。
カーテンの向こうから現れたのは真っ白な顔をした、自分にとって一番近しい二人だった。
口を開けガラス戸を引っ掻き、口からこぼれた血でラインを描きながら二人は俺たちを威嚇するかのように窓越しに唸っている。
……一人で来れば良かった。それができるのならきっとそうしていた。俺がどうこうって話じゃない。自分の中に今も募っていく罪悪感や後悔の念、喪失感をできれば仲間に共有させたくなかった。
「……先パイ」
「……少しだけここで待っててくれないか」
バールを握りしめて一歩ずつ進んでいく。その背中で仲間たちの視線や、俺に掛けるべき言葉を掛けられずにいる葛藤が伝わっている。俺の考えすぎではないと思う。
思えばいつだってお互いの事を考えあっていた。こんな世界になったって、あの部室で笑いあっていたあの時のままでここにいる。そんな俺たちだからきっとこの世界から抜け出せる。
そんな仲間がいてくれるからこのドアだって開けることができる。
この世で一番重い扉を開けて望まない変貌を遂げてしまったわが家の空気に包まれていく。
「ただいま」
遅くなってごめん。
一緒に居てあげられなくてごめん。
靴を履いたまま廊下に上がる俺は聞こえてくるはずのない「おかえり」の一言をどこかで待っていたのかもしれない。
手にしたバールと大きめのトートバッグを下げて家を出た俺を最初に迎えてくれたのは他でもない藤宮だった。その場にいることに耐えられなくなったのか、人目をはばからずに小さな体が駆けだして震えながら俺を抱きしめる。
「大丈夫だから」
胸にうずまった藤宮の頭に手を置いて呟く。他に声の掛けようがないから言葉は拙くなってしまった。
「……音が、音が聞こえたっスよ。ゴンって……!」
「……ああ。でも大丈夫だから。もう行こう」
「大丈夫じゃないっスよ……。何が起こったかなんてみんな知ってるッスよ……それで先パイが大丈夫じゃないことくらい……」
「大丈夫だから」
だからきっと、涙も出てこないんだ。悲しみを感じる余裕すら今はない。先に進め。その思いだけでこの体は動いている。
「先に行こう。目的は全部果たしたから」
「雨宮」
わが家の敷地内から歩き出す俺に最上が声をかける。
「……なんだ?」
「……なんでもないわ。行きましょう。きっと今はそれが正しいことだもの」
なんでもないと最上は言っているが、未だに言葉を探し続けているようにも見えた。
「それで次はどこに行くのかしら?あまりうろうろもできないわよ」
「ああ。最後だ。俺たちの終着駅と言ってもいい」
遠くを見据えた先に、曇り空を穿つように見慣れた建物が立っている。
「この町で一番見晴らしのいいところに行こう」
「最悪だ」
切れる息の中、弱音を誰にも聞こえないように吐く。心臓はいつ破裂してもおかしくないくらいうなりをあげて拍動を続ける。肺の機能なんかとうに壊れてしまったんじゃないかと思っている。吸った酸素を二酸化炭素に変えているようには到底思えない。
走る。ただひたすらに走る。ひた走る。
追っ手はあんなにも遅いって言うのに。
強く踏み込んだ右足の数メートル先でもがれた首が転がり落ちる。
「うわぁっ」
あやうくつまずきそうになったので大股でそれを避けてさらに前に進む。
「っくそ!どこに行ったらこいつらはいなくなるってんだよ!!」
頭頂部から顎にかけて大きく切り開かれた遺体がどさりと目の前で倒れ掛かる。
「この様子じゃ郊外に逃げたっていくらでもいますよ!」
遺体に手を掛けた石井君が苦しそうに叫ぶ。
「逃げる!?馬鹿言ってんじゃねぇよ!俺たちはなんでここにいるのか思い出せなくなったか!?」
「確かにそうなんですけど!!」
「これ以上は進ませないぞ秋津!どのみち彼らがどこにいるかだって手がかりすら掴めていない!今はひとまず安全な場所を探すぞ!」
死地の中でやりとりを交わす仲間たちの少し後方で、俺は結局バタバタと倒れていくゾンビたちを走りながら躱すことしかできていない。ふがいないというか、情けないというか。
大事なものを託されたとか、彼を助けたいとか憧れのセリフを並べただけで、この人たちと同じように未だに俺は前に進めていないと悲鳴をあげる循環器と並走しながら強く思う。
「くたばれやこの!!」
秋津さんのヤクザっぽく荒げられた声が聞こえる。
こんなことを言ったら確実に怒られるのだろうけど、どうしてこんなところにいるんだろう。
「ん」
そんな情けなさすぎる思いが頭に浮かんだ瞬間、倒れ掛かった遺体につまずいて俺の体は固いアスファルトの上に投げ出される。ダウンジャケットのこすれる音がいやに響く。
「大丈夫か!?」
振り返った成塚さんが足を止めて手を差し伸べかける。
「あ……あぁ、大丈夫です!気にしないで!先に進みましょう!」
その手をとってしまったらなんだかひたすら情けないじゃないか。
「ぼーっとしてんじゃねぇ!!前見て走れ!!」
「もとはといえばお前が後ろに気を遣わずに切りかかるのが悪いだろう!!」
「後ろに気回しながら連中が倒せると思ってんのか!!無茶言うんじゃねぇぞ成塚!!」
前方でたびたび聞くやりとりが交わされている。その声が再びBGMみたいにフェードアウトして、俺は白狼や准尉の姿を思い浮かべる。ここで彼らの姿を浮かべるのは、彼らの助けが欲しいからなのか、それともここに来なければよかったという後悔なのか。
とにかく今は、あちこちから出てくるゾンビを突っ切るのみだ。俺が突っ切れているのかどうかは別として。




