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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第八十九話「かくして糸は断ち切られる・2」

 薄明りの中で倒れて動かなくなった彼の姿を今でも鮮明に覚えている。


 目黒や根本、その誰よりも呆気なかった。まるで道端に捨てられたゴミのように横たわる彼を見てこんなにも簡単に人は死んでしまうものなのかと思った。彼は若く、勇敢な戦士だ。けれど頭部に放った一発で彼の指先までもが動きを停止した。

 起床してからもピクリとも動かない彼を見て私は不思議と安堵したことを覚えている。それが間違いだった。


 その安堵がもたらしたのが目の前の光景だ。


 彼が確かに倒れていたフローリングには小さな血だまりがあるだけ。起き上がり、この場から動いたのだろう。彼はどこへ?少なくとも逃げ出したりはしないだろう。彼が彼女たちを置いて逃げ出すような愚図なら私はさっさと頭を潰していた。そうしなかったのは彼への敬意と称賛があったからだ。


 ともすれば彼は暗がりから私に刃を向けている。私から彼女たちを開放するために。


 しかし実際はどうだろう。彼の手には刃はない。奇襲をするのだろうか?殴り掛かるか、蹴り飛ばしに来るのだろうか。


「いるんだろう?」


 今や腐臭があふれ出した部屋で私は彼に声をかける。


「隠れているのは分かっている。戸棚でもクローゼットでもなんだっていい。ともかく君は私に襲い掛かろうとしている。どこから来ようと私はそれに対応するだろう。こんな狭い部屋で、隠れた場所が分かり切っている小さな部屋で、君に何ができる?」


 返事はない。


「まぁいいさ。すぐにでも見つけ出す」


 圭一が横たわっている部屋のふすまを開け、圭一をまたぎ、バールを構えながら押し入れを開ける。


「こんな小さな部屋じゃあすぐにでも君は見つかってしまうだろう」


 わずかな音でも聞き逃すまいと耳を澄ませて周囲を見張る。


「そうなったときは確実に君を殺す。君が自ら手をあげて出てきてくれるというのなら少し猶予をあげよう。つまりは生き残るための時間と、選択肢を与えるということだ」


 もっともそんな選択肢など頭には浮かんですらいない。そんな猶予、私が欲しいというものだ。


「機会を窺っているのかい?」


 クローゼットを開ける。やんわりとカビ臭さが鼻を撫でる。コートをかき分けた先に彼の姿はない。


「ならやめた方が良い。お互い時間はないぞ。まず、三分だ(・・・・・)


 私は玄関の方へと戻り、さるぐつわをつけ、手を縛り付けた小さな彼女を連れてくる。


「見えるかい?見えないのなら聞かせてあげよう」


 彼女にしたさるぐつわをずらし彼女に声の出所をやる。


「……ぐっ……」


 さるぐつわを外してやったにも関わらず彼女は歯を食いしばったまま私を睨みつけて一言も発さない。拒絶の瞳は私を捉えている。


「……何か言わないのかい?君を助けてくれるかもしれないぞ」


 恐怖は人を従わせるに必要な感情だ。例えば鬼の教官。例えば銃を突きつけた強盗。従わせるには強い言葉か武器さえあればいい。今どき果物ナイフでだって相手を黙らせることができる。

 彼女たちはそうやって自由を奪わせた。「君たちが頼りにしていた少年は、このバールのたった一振りで死に追いやった」彼女たちにそう強く言い、これ見よがしにバールを見せつければ抵抗などしなくなった。

 つくづく人は単調な生き物だ。生ける屍と同じで簡単に動かすことができる。

 彼らが音に敏感なら、人間は人の放つ感情に敏感なのだ。

 だからこうして、


「言え。何か言うんだ。私はここにいると、彼に助けを乞え。でないと君は二分半後には死んでしまうぞ。彼に君の姿が見えていないのなら、君が誰だったかもわからずに彼は一人仲間を失うことになる。私が顔の判別も不可能なほどに君の頭を潰すからだ」


 脅し、逆らえばどういう結果が待っているかを伝える。彼女の口から震える息とともに嗚咽が漏れる。


「……後二分だ。出てくるならゆっくりと出てきなさい。飛びかかろうものなら、その前に彼女の頭を殴りつける。意識が飛ぶのは簡単だろうな。二打目には確実に君の頭を打ち抜こう。お互い慣れているだろう?他人の頭を叩き潰すことには」


「……藤宮」


 沈黙を破る彼の声。必然的に私は耳を澄まし、どこから聞こえるものなのかを探る。


「俺がどこにいるのか、三上さんには絶対に分からない。だからまず落ち着いてくれ」


 声はこもったようにも聞こえるが、そうでないようにも聞こえる。方向は不明だ。こんな小さな部屋なのにどの部屋から聞こえているのかすら私には分からない。


「お前に残された時間が何分だろうと、何秒だろうと、お前を絶対に助けるからひとつだけ頼みがある。……目をつぶっていてくれないか。今から俺がすることをお前に見られたくはない」


「……何をする気なのかは知らないが、時間はもう一分と少ししかないぞ。踏みとどまれ。手をあげてこちらにゆっくりと出てくるんだ」


 彼女の名前を呼んだあたり、彼には私たちの姿が見えている。ならこちらからも視認はできるということだ。絶対に見つからない?とんだハッタリだ。私はいつでもバールを振れるように周囲を見渡しながら身構える。


 時間は一分を切る。


 彼が行動を起こすならもうすぐだろう。まだ捜索していない場所、台所や浴室方面に目を見張る。ただ向こう側にいるならこちらとの距離がある。飛び込むにしても時間がかかりすぎて、彼女が殴られてしまうことは彼の目にも見えているだろう。

 自信のある口調からして向こう側にいる可能性は極めて低い。


「目はつぶったか?」


 ならどこにいる?声からは距離も測れない。


「……はいッス……」


 二十秒を切る。正面か背後か。私は彼女の背中を軽く押しバールを振り上げる。


「分かった」


 あと十五秒。

 けれど、それを待ってはいられない。今の私に余裕はない。

 彼にもう時間は与えられない。


 現実とは残酷なものだ。

 他人と、まして敵同士で交わした約束に意味など無い。


 あと十五秒を待つ意味は?

 あと十五秒を守る義理は?


 無い。そんなものはありはしない。


 決まりなど、約束など守る必要はない。


 でなければ生きていけない。でなければ殺されてしまうのだから。


 十三秒、私は手に持ったバールを振り下ろす。



 そして、止まったのは彼女の息か、私の息か。


 ともかく私の時間はそこで長い間止まったのだ。


 それはきっと一瞬の出来事で、何が起こっていたのか分からないのは私だけだったのだろう。


「……できないと思ったか?こっちの覚悟は決まってる」


 止まった時の中、彼女たちを踏み越え地獄から這い上がる私を、確かにその腕が掴み引きずり降ろそうとする。


「でもあんたとは違う。自分の存在まで否定して、他人の足まで引きずり降ろして助かるための行為じゃない」


 その腕が食い込むのは足ではなく首だった。


「あんたが選んだ結果だ。あんたが俺にそうさせたんだ」

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