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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第八十四話「蜘蛛の糸・3」

 認めようと認めまいとに関わらず、私の腕には焼き印のように熱い痛みが迸っている。痛みの発生源である私の腕に食らいつくのは顔つきからして人でなくなった化け物の姿。黄ばんだ前歯と犬歯が皮膚を突き破り流れる神経をいたずらに刺激しぶちぶちと食い破る。


 私は声を聞いている。大の男が声帯を破壊せんとばかりに声をあげ、耐え忍ぶべき痛みに耐えられずやがて苦しみ悶えながらアスファルトの上で狼狽する男の声を。


 男は自分の腕に歯を立てる化け物を引き剥がそうとするほかなかった。噛まれていない方の腕で男の顔面を掴み力任せに外そうとするが、欠け落ちる歯にすらなんの感慨も示さない化け物を自分の腕から引き剥がすことは容易ではない。

 強引に持ち上げられる頭が男の肉をすりつぶしながら傷口を広げていく。まるで拷問器具だ。ざっくりと腕を切り落とされる方がまだ楽というものだろう。重石のように次々とのしかかる痛みに男の絶叫はすでに枯れたまま響く。


「うあああああああ!!!!!!」


 男には別の男の声が聞こえてきていた。


 哀れみを感じるほど情けない声の持ち主が精いっぱいに振り絞った咆哮。男は固い衝撃を化け物の体越しに感じている。自分の腕に立った歯が(のみ)のように衝撃とともに深く刺さっていく。あまりの痛みに男は失禁し、ビクビクと自分の足が意図せずに痙攣し、跳ね上がる。


「このっ!!山本さんから離れろぉっ!!!!」


 声の持ち主は手に持ったスコップで化け物の頭蓋を殴打する。男の顔には黒いしぶきが飛沫する。化け物は割れた頭から細切れになった脳をこぼし、果たして男の腕に打ち付けられた腕からは鑿が抜けて、そこには痛みと身悶えするようなおぞましい傷跡が残る。


 仰向けのまま男は遠のく意識を深呼吸でどうにかつなぎとめる。やがて男は頭を起こすと神妙な面持ちで彼を見つめる仲間の姿が視界に入る。


「助けてくれ・・。早く止血を・・!」


 一瞬見えた傷口に眩みながら仲間に助けを求める。柏木はおもむろに包帯を取り出して震えた手でそれを巻く。傷口と包帯がかすれあい男は悲鳴を上げる。柏木自身、自分が何をしているのか理解していないようだった。


「まだ血が出てるだろう!もう少し上で縛ってやれ!」


 根本が一喝して柏木はハッとなったように上腕を縛る。腕の感覚はほとんどなく縛られたようには思えなかった。

 

「くそっ……なんでこんなこと……!なんであんたは自分から丸腰でゾンビに近づいて行ったんだ!」


 根本は私に向かって言う。


「……何があったんだ?」


「あんたが近づいて行った途端、奴は大きく振り返った!そん時に手に握っていたバールがあんたの頭を叩いたんだよ!なんであんなことしようとした!?」


「私は……」


「できれば、いや、絶対にこの中から負傷者を出さないと決めていたんだ!ましてや奴らに噛まれるなんて……!」


「噛まれる……?」


 私は確かに手に残る腕をじっと見る。傷はそこにあって、痛みも伴っている。なのに私にはそれが他人のように思えてならなかった。自分の傷ではない。これは自分の腕ですらない。


「……私は……噛まれたのか……?」


「何を今更言ってるんだ……!あんたは噛まれたんだよ!まだ数分と経ってないぞ!」


「……そんなはずがない」


「……気持ちは分かる。だがしっかりしてくれ。あんたは腕を噛まれたんだ。おい、そこのあんた!持ってきた物資を彼のバッグに詰めてやれ!」


 指を指されて目黒はいそいそと水や食料を私のカバンに詰め込んでいく。


「これはあくまで憶測でしかないんだが、俺が見てきたものによると頸動脈を噛まれて即死しない限りは感染までそれなりに時間はかかる。あんたが人間でいられるまでの猶予は早くてあと数時間、長くてあと数日ってところだろう。それまでに自分の死に場所を見つけてくれ」


 私は唖然としていた。彼の言葉が音として脳内を過ぎ去っていく。

 この男は何を言っているのだ?


 私は負傷し、立つのすら困難なほど激痛に喘いでいる。それなのに「死に場所を見つけてくれ」だと?馬鹿な。そんな話があるか。


「最初に決めた通りだ。噛まれたら俺らから離れてくれ。水と食料……それから何か欲しいものはあるか?何でも言ってくれ」


 根本の声は非情に穏やかなもので、声質は病人や負傷者に向けるのにはふさわしいと思う。だが言っていることはあまりにも非情で無責任だ。怒りに打ち震え歯を鳴らして根本に詰め寄る。


「何を言っている……!?目黒もだ!その手を止めろ!!」


 目黒はびくついて手に持っていた二リットルペットボトルをアスファルトの上に落とす。


「私は無事だ!それに足を負傷しているのならまだしも負傷しているのは腕だぞ!足手まといにはならない!私を追放しようなど絶対にさせないぞ!」


「……言いたいことは分かるが、どこを負傷したとかしてないとかそういう問題じゃあないんだ。あんたは噛まれている。感染したんだ。いずれあんたに噛みついた奴のようになる。それくらいは分かってるんだろう?」


「冗談もたいがいにしろ!!!これは現実だ!!!噛みつかれた人間はゾンビになる!?ガキが考えた話じゃないんだぞ!!そんなことがあってたまるか!!!!」


「落ち着け……!落ち着けよ……!いいか?まず、その手に持ってるバールを置くんだ。地面に置け」


 気がつくと私は怒りのあまり衝動的にバールを振り上げていたようだった。


「こういう時はお互いに心を落ち着けて話し合うべきだ。安心しろ。俺は職業柄心を落ち着けるのには慣れてる。ゆっくり息をはいて俺の目を見ろ」


「それでどうする?上手いこと言いくるめて私を追放しようということなのだろう!?見え透いてるぞ!!」


「そうじゃない。確かに今まではそうするべきだと思っていた。だが別の方法もあるかもしれないんだ。まずそれを話し合おうじゃないか」


「そ、そうこうしてるうちに山本さんが転化したら?」


 根本の後方にいた矢木はさすまたを構えてあきらかに私を警戒している様だった。


「少なくとも数時間の猶予はある!だからあんたもそれを彼に向けるな!彼はまだ人間だ!!!」


「でもいずれはそうなる!山本さん!悪いけど俺たちから離れてくれ!!もうあんたとは行動できない!!」


「……黙っていればお前もふざけたことばかり抜かしている!!お前は人様に向かって何を言っているんだ!?」


「もう人じゃないんだよ!!!」さすまたを構えたまま、矢木は一歩ずつ詰め寄る「あんたはもう人じゃないんだ……!」


 その一言を聞いて、私の脳天に上がったのは怒りではなく明確な殺意だった。彼の脳天にも同じものが上がっていたのが分かった。私も彼と同じく一歩ずつ詰め寄る。


「何やってる!?止まれ!!あんたら二人ともだ!仲間割れしてる状況か!?」


「最初に決めたはずでしょうが!!噛まれたらもう仲間じゃない!!」


「仲間じゃないとは一言も言っていない!!だからこそ最後まで感染者の尊厳を守るようにみんなで決めたんだろうが!!」


「……もういい。私はこの愚図こそ追放する。話が通じないのならそれこそ人じゃない」


 矢木と私は根本を挟んで向かい合う。彼からは強い警戒心が感じられるが、手に持っているのはさすまただ。それで一体何ができるというのだ。私はバールを握る力を強める。


「おい、それ以上動くなよ」


 根本は矢木との間合いに入る前に私にバットを突き付ける。矢木をかばうように身を乗り出して。


「……これはどういう意味だ」


「今言っただろう。動くな」


「私よりもその愚図を信用しようというのか」


「そうじゃない。彼の言う事も間違っている。だがあんたも同じだ。それを振り下ろそうってなら容赦はしない」


「……容赦はしない?容赦はしないだと?それが仲間に向かって言う言葉か?」


「今はまだ仲間だ。だが、そいつを地面に置かなきゃあんたはもう敵だ。いずれゾンビにだってなる。仲間として送ってやることもできなくなる」


 その言葉に面を喰らい、思わず乾いた笑いすら沸き上がった。


「……分かった」頭の中で何かがプツリと切れて上がっていた熱が急激に冷めていくのが分かった。「もういい」


 振り上げた腕を振り下ろす。鈍く固い感触がバールを通して伝わる。打楽器のように頭蓋がゴンっと音を響かせ、目の前に立っていた根本は両眼をぐるりと回して地面に伏した。アスファルトの上でバタバタと痙攣する彼の腕を踏みつけて後頭部を二度力強く叩きつける。


 顔をあげると矢木がさすまたを構えたまま顔面蒼白で立ち尽くしていた。それが私に向かって突き出ることは無いだろう。私はさすまたを握り彼の手から強引にもぎとってそれを地面へと投げ捨てる。我に返ったように後ろを向いて走り去ろうとする矢木の服を掴み、くぎ抜きを彼の柔らかい首筋に突き立て、肉を抉るように引っ掻く。

 ほんの少しの痛みとありったけの恐怖に身をよじりながら早朝に鳴く小鳥のようにギャーギャーとわめく矢木の耳を先ほどの根本と同様に殴りつける。


 動くことも無くなった矢木を見下ろして、私は仲間(・・)へと向き直る。


「そうだな……今度は……君たちの考えを聞きたい」

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