第六十九話「真実(後編)」
数分前までの喧騒とはうって変わって家の中は時が止まったかのように静かだった。家の中へと入りゾンビのいる可能性を考えて床や壁を隊員たちが強くノックする。フローリングが傷つくのではないかと無意味で貧乏な心配をするくらいの音が響いて静寂。物音ひとつ返ってこないことを顔を見合わせて確認しあう。
「誰かいませんか」
白狼の声は応答を求めているような声ではなかった。隣の誰かに話しかけるような声量。きっと俺と同様にここがもぬけの殻であることを確信しているのかもしれない。隊員たちが一階を調べている間に白狼はゆっくりと階段を登る。律儀に玄関先で靴を脱いだ俺とは違って土足で上がった彼女のブーツの音がゴトゴトと一段一段を打ち鳴らした。
階段から何かの紐が垂れ下がっているのを発見する。随分と太いその紐が首つり紐を連想させて身の毛がよだったが幸い先には誰も何もぶら下がってはいなかった。
「この家の主は脱出したのだ」そう言い聞かせた俺の目に映ったのは先端で結ばれている頭を通すにはちょうどいいくらいのわっかだった。つい先日俺がこの手で作り上げたものと同じ結び方をしている。わっかは階段の手すりからぶら下がって制止したままだ。
「あんたと同じだったのね」
白狼が同じ方向を見て呟く。
「でも、彼は脱出した」
「本当にここが彼の家だと?」
……確かに白狼の言う通りかもしれない。彼には彼女がいた。二人で籠城しているのならこうする必要はないはずだ。
白狼は二階の閉まったドアを慎重にノックしていく。それに対する返答はない。俺も彼女に倣って紐がぶら下がっている手すりのすぐそばにあるドアをノックした。
冷たい板にこぶしを三回打ち付けて、それからさらに冷たいドアノブを握り静かにドアを開けた。
最初に部屋を感じとったのは嗅覚だった。生活感のある部屋に静かに漂う鉄の匂い。テーブルを挟んで敷かれている二つの布団はぐしゃぐしゃになって放置されている。
微かに香るのは鉄の匂い、それから色々な食べ物の匂い。一つの食品の香りが酷く薄まって、それがいくつも混ざり合って空気中を漂っているような、そんなどちらかといえば不快を示したい匂い。おそらくはここが籠城の場だったに違いない。
布団に埋もれた足元に靴下ごし冷たい何かが触れてつま先が湿った。缶詰の中身だろう。勉強机のようなところに焼き鳥缶とパイン缶の空き缶も置いてある。
部屋を見回しながら憶測を並べて事実のかけらを拾い集めていく。
カーテンを開けてベランダに出ると、てすりから隣の屋根へと続く梯子がかけてあった。
ここにいた住人が何をしたかったのかが目に浮かんでくる。そしてその住人はおそらく……。
手すりに両手をついてベランダから景色を望む。といっても周りには数秒で見飽きてしまう住宅街の景色が広がるのみだ。再び部屋に戻りかけたところで黒い滴が落ちている後を発見する。それは久々に外に出て拝みたくなかった光景を彩っていたゾンビの血を彷彿とさせた。
部屋に戻ると白狼とオーウェン准尉が眉間にしわを寄せながら立っている。苛立ちというよりは何かに思い悩んでいるような表情だ。
「何かあったんですか」
「あった」白狼はこちらに顔写真入りのパスポートのようなものを向ける。0.3の視力を寄せ集めてそれに注目するとそれが生徒手帳であることが分かった。
「それはここで?」
「ええ。ここで生活していた彼のものでしょうね」
白狼に手渡された手帳には奥村大智という名前と近くにある高校の名前、それと写真写りの悪い硬い表情の少年の写真があった。寝癖かどうか判断が微妙な感じで髪がはねている。顔についてはあまり評したくはない。とりあえず自分より目が大きいのは分かった。
「……俺の志望校じゃないか」印字をなぞりながら呟く。結局は落ちて私立の高校に入ったのだけど。
「彼の他にもう一人いるって言ってたわよね」
他に何も書かれていない生徒手帳をパラパラとめくる俺に白狼が声をかける。「はい。女の子が一人」そう答えながら白狼の方へと向くと、白狼の目はこちらを向いてはいなかった。
「そこに布団が二つ敷いてありますよね。それも間にテーブルを挟んでるからきっと友人関係とかだったのかも。だって、男同士だったらテーブルは邪魔だし、兄妹とか恋人とかだったとしても間に置く理由はないじゃないですか」
白狼がそこまで聞いていないのは分かっていた。けれど、無線の向こうにいた彼が、俺を助けてくれた彼がこの部屋の住人かもしれないだなんてそんな奇跡みたいなことを信じたくて、俺は証拠を並べて話をつなぎ合わせる。
半ば興奮気味の俺の話を白狼は頷きもせずに聞いていた。
「確かに二人いた可能性は高いと思う。……けれど、ここの住人が彼らだったなんてことはあまり信じたくはないわね」
オーウェン准尉はその場でしゃがみこんで両手で口と鼻を覆って大きくため息をついていた。
真実というものは大抵の場合、受け止めたくないものばかりだ。確かに十回に一回くらいは声をあげて喜びたくなるような真実だってあるのかもしれない。無線の向こうの彼が俺を助けてくれたという真実はまさにその一回だった。
受け止めることを拒絶すると、無意識のうちに真実から目をそらして都合のいい方へと考えてしまうものだ。俺は自分がそうしてしまっていることに気づけずにいた。
ぶらさがった首つりのロープ、靴下を湿らせた液体。点々とした黒い滴の跡、部屋に漂う本来するはずの無い匂い。
この事実から目を背けられるほど、俺は愚鈍じゃない。それでも白狼が布団をめくったところで俺は初めてそれを受け入れるかどうかという選択に立たされた。
文字通り、自分の目を疑った。
「……嘘だろ?」
薄いピンク色の掛布団は粘質の黒い血がぶちまけられ、おそらくは頭の中身だと思われるものがテーブルを中心にして飛散している。小さなテーブルの角は削れてささくれていて五センチ大の肉片がその上に乗っかっている。
それは紛れもなく、ゾンビと対峙した跡だった。
「……でも、家の中には」
答えは頭の隅に出ていた。ただそれを細かく深く考えることも、言葉にすることも叶わない。
「遺体がどこにいったかは分からない。ただ状況を見るにきちんと終わらせたみたいね」
白狼の声は耳を通り過ぎるだけで頭には入らない。
そんなはずはない。彼らは脱出したはずなのだ。
幾重にも重ねた憶測の前にはあまりにも残酷な真実が立ちはだかっている。彼らは無事なはずだと言い聞かせる行為はただただ無力でしかなかった。
「……大丈夫?」
「……大丈夫です」
食いしばる歯の表面は粘ついている。喉は渇きを訴えているのに汗が額を湿らせている。
「……ちょっと失礼します」
俺は静かに部屋を出て、そのままふらふらと力なく家の外まで歩いた。かかとを引きずりながら視界の隅にゾンビやその血液が映らないところまで離れると狭い通りの中心で崩れ落ちる。
「……なんで……」
彼らがこんな目に?
この国のほとんどの人が生ける屍としてこの地を歩いているのなら悔やむべきは彼らだけではないのだろう。それでもどうしても無事に生きていてほしいと思った二人が悲惨な事態に陥ったことは俺にとってなによりも悔やむべきことだった。
最後に交わした会話の彼の声は希望に満ち溢れていた声だった。
絶望的な状況だったはずだ。けれども二人は前を向いて生き延びようとしていた。
彼が何を見たのか、俺はその片鱗すら想像したくはなかった。




