第六十八話「真実(前編)」
『……これが衛星写真だ』
軍曹によってテーブルに広げられた画質の荒い写真は住宅街を真上から映していたものだった。
『……少尉、どう思います?』
『どう思うも何も見たままだろうオーウェン』
住宅街に建つ一件何の変哲もない一軒家の屋根には、テープのようなもので作られたHELP!という文字がある。分かりやすい救難信号であり、人がそこにいる……或いはいた証拠だ。
すぐにでも助けに行くべき状況にチームが険しい顔をしている理由は家を囲むような黒い影にあるのだろう。いわずもがな影の正体はゾンビだ。
『人の出入りは確認されたか?』
『いえ、たった数日限りですが今のところ他に救難信号を送るような動きもないようです』
『……そうか』
俺の頭の中には今までの籠城生活といつか引きこもりとした無線での会話が浮かんでいた。俺もあいつも同じような状況にいた。なんとしてでも助けてあげたい。救助チームの一員ではない俺だけれどその思いは強くこの胸に宿っている。
「……助けに行くんですよね?」
「ええ、もちろん」
白狼は俺の顔を見て頷いた。返答こそ早かったもののその表情は硬いようにも思えた。
「俺も行かせてください」
できるだけ力強い声で白狼に言うと、なぜか准尉も軍曹も俺の方に顔を向けた。俺の言っていることを理解している様な行動だった。
『……日本人は付いていきたいって言ったんですか?』
『彼の名は陽平だ。名前で呼んでやれチャーリー』
『分かりましたよ。それで……?彼は付いていきたいと?』
『そうだ。何か問題でも?』
聞き取れた英語から白狼は「問題があるのか?」と言ったのだろう。顔を向けられた軍曹は口を結んだまま返答を考えている様だった。
『……まっ、この前の地獄のようなミッションだってテレビのクルーを同伴して成功したんだ。このくらいの数、気にすることはねぇさチャーリー』
オーウェン准尉は衛星写真を指さしてにこやかに笑った。
「……決まったわ。付いていきたいならあたしたちの後方にいて。完全な安全は保障できないけどね」白狼は顔を緩ませると俺の肩を叩いた。「……まぁあんたが前に出てくるような人間だとは思ってないから大丈夫だと思うけど」
きっとこの時俺は分かりやすいくらいに苦い表情を浮かべていたのだろう。でも、まさに白狼の言う通りだった。
再び東京を離れ、道だけで言えば俺は帰路についている気分だった。自分の近くにある大きな町まであと何キロと終末世界後も青く輝く看板に書かれているのをみると不思議と気分が高揚した。
そして考えを巡らせてもう家には戻れないことを再認識すると言いようのない不快な郷愁感が胸を襲う。戻りたいけれど戻りたくはない。俺が戻りたいのはきっと場所よりも時間の事だから。
どうせ惜しいものなど何もない。惜しいものはいつだって取り返しのつかない事だ。
衛星写真の家の近くに止まるころ、ようやく日が傾き始めていた。無事救助活動を終えることが出来れば日暮れまでには基地に戻ることができるだろう。
「あんたは最後尾にいて」
ジープを降りた白狼が俺に向けた人差し指を道路の後方に動かしながら言った。俺は後続のジープから隊員たちが降りて家に向かうのを見計らって一番最後にジープのドアを開けて降りる。
いつもの癖で普通にドアを閉めるとバタン!と大きい音が鳴った。前を行くライフルを所持した隊員が何人かこちらを向くと、ゾンビが立ちはだかった時と同じくらい心臓が縮みあがりそうだった。ちなみにそんな経験はありがたいことに、ない。
サイレンサーをつけた銃の奇妙な銃声が前方から聞こえている。銃撃戦ではないのに聞き慣れない音を聞いた俺は頭を深く下げて前かがみで隊員たちの後をついていく。頭をあげられないのは隣に立つ肥満気味の男が自分の首の下あたりに手を置いているせいかもしれない。
奇妙な銃声が止むと隊員たちが足を速めて前に出た。俺は心の中で「クリア!クリア!」と一度は言ってみたかったセリフを叫びながらその後に続いた。
目の前に現れたのはごく普通の一軒家だった。駐車場と思われるスペースに今さっき撃ち殺された死体が重なっていること以外は。
自分なりに安全を確認しつつ家の前に立つ白狼の元へと向かう。言葉が通じるという安心感は彼女の元へ行かないと味わえない。
『轍だ』
白狼は地面を見て何かを呟いていた。白狼の視線と同じ場所に目をやると、彼女が何を呟いたのかがなんとなく俺にも分かった。駐車場スペースの白いコンクリートから轍が真っ黒に道路側へと伸びている。轍の周りには誰のものかも、どこのものかもわからないような肉片が地面にこびりついている。唯一はっきりと分かったのは奥歯を残した黒ずんだ歯茎の一部だった。それを分かりたくはなかった。数時間前に覚えていた吐き気がぶり返す。
黒い轍は陽の光に照らされてうっすらと厚みを保ちながら存在している。これは轍ではなく、ゾンビの血そのものだろう。
俺は知らず知らずの拳を固く握りしめていた。沸き上がる思いと事実が当てはまっていればいい。
『少尉!こっちもクリアーだ』
オーウェン准尉が道路から奥まった場所にある庭先から出てきた。准尉の隣に立つ隊員は、おそらく玄関があるであろう方向をむいたまま怪訝な顔をしている。
『准尉、何があった?』
『それが……』准尉は言葉に詰まっている様だった。『とにかくこっちに来てくれ』
クリアという単語は聞き取れたので指示を仰がずに白狼の後に続く。振り返った先に先ほど隣にいた肥満気味の隊員がこちらを見ながら慌ただしく手招きをしている以外は俺の行動を咎める人も居なさそうだったので構わず庭先へと足を踏み入れた。
『まるで虐殺現場だ』
庭先はどこにでもある一般家庭のものだった。とりわけ花壇がすごいというわけでもなく、金柑の木とホームセンターで買ってきたような植木鉢の数々に花を咲かせそうなつぼみと咲かせた黄色やピンクの花がひっそりとそれぞれの場所に咲いている。これが日常という一つの絵画ならそこにバケツ一杯の絵の具をぶちまけたように、庭は内臓やどす黒い血で塗りたくられ、屍体の死体がゴミのように放置されている。その中にはまだ数体他のゾンビの下敷きになりながら動いている者もあった。隊員はそれらを確認すると静かに額を撃ち抜いた。
白狼はそんな中、何も言わずに准尉や軍曹ではなく俺の方へと向いた。まるで信じられないものを見たような顔をしていた。
「まるで、脱出した後みたいですよね……」
そう言った俺の声も手も震えていた。
『……准尉、中へ進むぞ』
ライフルを再び上にあげて玄関のドアに張り付く。カギはかかっておらず、オーウェン准尉は荒々しいノックの後で勢いよくドアを開けるとライフルを構えて中へと侵入した。数分の間重苦しい静寂が続いたあと、白狼たちは中へと入っていった。
「陽平、入っても大丈夫だ」
俺は自分の中の期待を確信に変えたくて薄暗い一軒家へと足を踏み入れた。




