第六十五話「とある引きこもりの籠城日誌(未収録)」
ホームセンターで買った背の低い白いテーブルの上にはノートが一冊、表紙を上にして放置されている。表紙には黒いマジックで「日野陽平の籠城日誌」と殴り書きの文字がある。
ノートは無記入のページを何ページも残して、隣に転がるボールペンは半分以上のインクを残して、自分がもう必要とされなくなったことに対して文句も言わずに、変化に対して後ろ向きな部屋の一部となっている。
動かすことすら辛くなった指を動かしてノートをめくり、「十八日目」とだけ書かれたページを数秒見つめた。日付の感覚があっていれば今日はこのページを書くことになっている。
「十八日目」
鏡を見なくても自分が虚ろな目をしているというのは分かる。声にもならない声で小さく日誌の文字を読みあげた。
自分のすぐそばにあるボールペンに手を伸ばす気はなかった。それはやる気が無いだとか、飽きてしまったとか、そういうものから来るものではなく、そこにはただ純粋な恐怖があった。
一昨日、最後の会話を交わした男女二人が家から出て行った。それから連絡はない。わけもわからず散々泣いてふと気がついたのは「次は自分の番だ」という事実だ。
ゾンビに怯え、何より死に怯え、震えて、毛布にくるまって、ノートと向き合い、書く内容を考えると「これが本当に最後の書き込みになったら」という考えに行きつく。
これ以上日誌を書くのならそれは死と向き合うのと同義だ。自殺志願者が遺書を書くことで踏み留まるのか、踏み切るのか、そのどちらかの意志を確認するように、日誌を書けば遠かった死が鼻に息がかかるくらい近くにやってくる。そして自分とそっくりな声で尋ねてくるのだ。「そろそろ準備はいいか」
背中をもたげたふすまの表面がざらざらとしている。猫が床に背中を擦りよせるように背中を動かすと少しだけ気持ちが良かった。
大学をやめて数日後にホームセンターで買ったのは今も視界の中に居座る白いテーブルと、テーブルと明らかにサイズの合わない椅子、丈夫なロープ数メートル、それから危ない考えを持っているんじゃないかと疑われないように日曜大工やキャンプ用品も合わせて買った。
ロープをぶら下げて、その下に椅子を置くところまで準備したこともある。あの時は空腹が原因で諦めた。お腹が空いたままでは死にたくなかった。
それらは今も背後のふすまを開ければすぐ見つかるところにある。唯一の問題はそれができるかどうかだ。
立ち上がり、玄関の方へと力なく歩いていく。下駄箱を無理やり動かして作ったバリケードも数日前には元の位置に戻した。ドアは外側からガンガンと大きな音を立てている。覗き窓を覗くと見たことのあるような、ないような人が小さくうなっている。
ゾンビと俺を隔てるドアのカギはガチャガチャと音を立てて揺れ、数日もすれば立て付けも悪くなりいつかは開いてしまうのだろう。
居間に戻り、カーテンを開けると夜明け前の淀みのない濃い青が広がっていた。そろそろ寝る時間だ。このまま死んでしまえればそれがいい。
「十八日目」
時計は十時を指している。そこそこ強い日差しに目をこじ開けられて、ねばついた口をポカンと開けながら今日の日付が変わっていないことを誰もいない部屋に向かって報告する。
「……っるんせぇんだよ……!」
未だにドアを叩き続けるゾンビに怒鳴りつける。きっと起きたのはお前らのせいだ。
布団の上からふいにノートに視線がうつった。それからずるずると床を這いずってノートの前に座る。二十日目のページから先は日付すら書いていない。ふと、それが自分の寿命なのだと思った。ノートに自分の生を刻々と書き記さずとも自分の死と向き合ってしまっていることに気づいた。
「十八日目」
冬なのに汗が滲んでいるのは久々に体を動かしたからだろう。体力が明らかに無くなっているのをたかが数分動いただけなのに起こる息切れとともに実感する。充電がすぐにも切れそうな俺の体。このまま生きていたとして摩耗した精神とこと切れるのはどっちが先だろう。……大丈夫、もう終わりだから。
布団に飛び込むと体がギシギシと鳴った。力の抜けた四肢が切り離されたような感覚に陥って、これ以上の活動は望めないことを知る。
もう日誌を書くつもりはない。けどもし書くならこうやって書こう。
「今日は鴨居からロープをぶらさげました」
「十九日目」
小さな椅子の上に座ってかれこれ一時間。時刻は午前四時。ゾンビたちが出す音以外は随分静かなものだ。
ぶら下がったロープを見つめてため息をつく。
さんざん頭を巡っていた葛藤もいつしかその姿を消して、今はもうすべてがどうでも良かった。今ならきっとこの首に縄をかけて椅子を蹴とばして宙ぶらりんでこのクソ素晴らしい世界からおさらばできる。それをしないのは体が動かないからだ。
誰か介助してくれないものか。そしたら無抵抗で死んでみせるのに。
椅子に座ってうな垂れた体を起こしたのは十九日目の午前十時。滲んだ汗が流れ落ちて、心拍はありえないほど強く早く体を内側から叩く。
胸の内側から沸き上がるのは「ヤバい」という言葉。俺は今目覚めたばかりだ。一体何がヤバい?
ふと、ドアに目をやる。耳を労することも無くなったドアのノック音が今日はいつもより激しい。
そうか、もう限界なのか。だから体が俺を起こしたのだ。
ゾンビはすぐにでもドアを開けてやってくる。最後まで迎え入れようとしなかった彼らがついにこの部屋に入ってくる。
ほとんど最後の力を振り絞って、ロープを握ったまま小さな椅子の上に立ち上がる。
ドアはいつもより硬質な音でガンガンと強く叩かれ大きく揺れている。もう限界だ。
首に縄をかける。毛羽立ちが首に刺さってチクチクと痛む。立ってみて初めて気がつく部屋の狭さと、つま先立ちの不安定な足場。蹴ろうと思わずともすぐに椅子は床に倒れてしまいそうだ。
低い声で喘ぎながら揺れる扉の方へと向く。
「さぁ……、こい……きて……みろよ……。」
お前らが入って来た時には俺はもう死んでる。魂は人間のままで召されるんだ。
大きな音を立ててついに開け放たれるドア。
差し込む真っ白な光は天国の扉にも思えた。
俺はつま先立ちで立った椅子を思い切り蹴とばして宙ぶらりんになる。気道を締め付けられ、喘ぐことさえも許されない、天国に行くまでの地獄のような一瞬。
最後に俺が見たのは、ドアを蹴破って現れた銃を構えた天使みたいに真っ白な女性だった。




