温泉の中から湧き出るモノ
これは困った。俺は久しぶり、というかこの世界に来てはじめての温泉を心から楽しみたいだけなのに、何故だろう。
嫌な汗が出てきた。
「イチノ様……どうしたんですか?」
「あ……あぁ……ちょっと向こうの景色が綺麗でな」
と言いつつ、俺はキャロの反対方向を見た。
「あっちの景色が綺麗ですか? キャロには360度どの方向を見ても同じ森が広がっているようにしか見えないのですが」
「ははは、キャロはわかってないなぁ。太陽の位置、日差し、それが作る影でも景色は変わって見えるのさ。森の四季が移り変われば森の景色も変わるように」
「イチノ様、ここの森の木は落葉樹ではなく常緑樹ですから、それほど変化はないと思いますよ。」
「そうだ、太陽の位置でここの緯度がわかったりしないのか?」
「すみません、その方法はあるにはあるのですが、キャロが太陽から緯度を求める方法は知らなくて」
その声はすぐ近くから聞こえた。
ぴちゃっと、水の音が聞こえたと思うと、俺の背中に何かが当たる。
キャロの背中だ。うん、たぶん背中だと思う。いくら胸が無いに等しいとは言え、背中とお腹は間違えないと思う。
「イチノ様、キャロのこと、見てくれないんですか?」
「……ちょっと……恥ずかしくてな」
「ハルさんのことはいっつも見てるのに」
「……いや、まぁ、そうなんだが」
痛いところを突かれた。
「でも、たぶんこんな環境だとハル相手でも直視できないと思うよ」
俺がそう言うと、キャロは嬉しそうに笑った。
彼女の小さな背中が僅かに揺れる。
「……ふふふ、ちょっと安心しました。イチノ様、私のことちゃんと女性として見てくれているんですね」
「キャロはずっと不安なんです。イチノ様は遠い世界からやってきたんですよね。イチノ様はいつか元の世界に戻ってしまうんじゃないかって。妹さん……ミリさんでしたっけ? その世界に残してきたんですよね。だから、妹さんのために元の世界に戻ってしまうんじゃないかって」
「…………」
戻らない、とは言わない。戻れないかもしれないとは思っているが。
でも、俺はダイジロウさんに会いに行く理由は、お礼を言いたいという事と同時に、日本に戻る方法がないかを聞くという気持ちも僅かに存在した。
もちろん、ハルやキャロの気持ちを無視するつもりはないが、それでもミリのこともまた放っておけないと思っている。
なので、せめてミリに俺の無事を知らせたいと思っている。
「ハルさんもきっと同じ気持ちだと思います。だから、今のハルさんが少し心配です。イチノ様が急に消えてしまった現在、ハルさんがどうなっているのか」
「……ハルは強いよ。きっと俺がいなくなったことの調査をしているさ。もしかしたら、既に原因も見つけているかもしれない」
「イチノ様、ハルさんは強いです。でも、その強さに甘えたらダメですよ。甘えるなら……ちょっとはキャロに甘えてくれても……」
俺は青い空を見上げて言った。
「いつもキャロに甘えてるよ。キャロの優しさに甘えっぱなしだ。ごめんな、ダメな主人で」
「そんな、イチノ様はダメなご主人様なんかじゃ絶対にないです」
キャロが立ち上がる音が聞こえた。僅かに水飛沫が飛ぶ。
そして、彼女の手が俺の首にまわってきた。
後ろから抱かれている……彼女のほんの僅かな胸のふくらみが、俺の背中に押し当てられ、思わず背筋が伸びた。
「たまにイチノ様は自分の事をダメといいますが、絶対にそんなことはないです。キャロは……キャロたちは、ダメな人を好きになったりしません。ハルさんはただ強いだけでイチノ様を好きになったりしませんし、キャロだって命を救われただけでイチノ様を好きになったりしません。マリナさんだって、一緒に旅をするのはカノンさんに言われたからだとか、同じ世界の人だからという理由だけではないはずです」
「……キャロ……」
「キャロは待ちますね。18歳になるか、イチノ様が良いと言ってくれるまで」
そう言うと、キャロが俺の体から離れる。
そして、キャロが離れていく音が聞こえてきた。
このままでいいのだろうか?
そう思った時、再びキャロが近付いてくる音が聞こえた。俺は思わず振り向いた。
「キャロ! 俺は――!」
振り向いた、その時、
「うきっ?」
俺の目の前には大きな白い猿がいた。大きさは、1メートル程度のゴブリンサイズの猿だ。
「キャロが猿になったっ!?」
「違います、イチノ様、魔物ですっ!」
タオルで胸元を隠してキャロが叫んだ。
なっ、くそっ、温泉の気持ちよさとさっきの緊張で魔物が近付いてきたのに気付かなかった。
咄嗟に身構えるが――あれ?
猿は俺を襲う様子もなくのそのそと歩いて行き、温泉に浸かった。
まるで温泉好きのニホンザルだ。
「……イチノ様、あそこ!」
「……え?」
氷の近く、そこで俺は妙な光景を見た。
温泉の中から、猿が湧き出ていていた。
その数、ざっと50匹。
そのすべてが俺を襲う様子もなく、ただただ温泉を楽しんでいた。
「魔物が湧き出る穴……?」
とにかく、ここで襲われたら危ないと、俺は温泉から上がった。
猿たちは俺たちが何をしても全て無視して襲ってくる様子はない。
猿はあれから数を少し増やしたが、60匹に届かないあたりで止まった。これ以上は増えないようだ。
「もしかして、隠された迷宮の入り口なのか?」
「隠された通路があるのは確かだと思いますが、迷宮の魔物が人を襲わないというのは聞いたことがありません。殺せば、死体が残るかどうかで判断できますが」
「それが原因で襲われたらたまらないし、なにより血で温泉を汚したくない」
「理由の序列が逆だと思いますが、キャロも同意見です」
「ならば猿は無視して……潜ってみるか」
虎穴に入らずんば虎子を得ず。ただし、この時点では虎穴の深さも、虎子の貴重性もわからない。
それでもわかることがあるかもしれない。何もわからなくても、わからなかったということがわかるだろう。
穴の中に何かがあり、そして、俺は何らかの理由でこの島に飛ばされた。
その理由が穴の向こうにあるのだとすれば、俺はその穴の向こうに行くべきだと思う。
「キャロ、お前は俺の世界に入っていろ。ここで待たせるのも、海岸に行かせるのもどちらも得策じゃないし」
「わかりました。穴の向こうにたどり着いたら、キャロを呼んでください」
俺は引きこもりスキルにより、マイワールドへの穴を広げ、キャロを中に入れた。
そして、剣を持ち、靴を履いたまま、服を着たまま温泉に入る。温泉のマナーのマの字もないその光景を見ても、猿は動こうとしない。
氷の影響でぬるくなったが、まだ40度近くある水温、あまり長い間潜っていられないな。
猿が出てきた場所を見ると、先ほどまでは気付かなかったが、確かに大きな穴が開いていた。まるで舞台の奈落みたいだ。
俺は大きく息を吸い込むと、その穴の中へと潜って行った。




