18 コーダⅢ①
少年の姿をした大いなるものは、輝く指揮棒を高く振り上げた。
九条円はいつもの丘、新緑の香りに満ちた【home】の庭に似た丘の上にいた。
丘の上に根を張り、空を目指して伸びようと枝を伸ばす若木の幹にもたれ、木漏れ日を見上げてぼんやりしていた。
『コーダⅠ』『コーダⅡ』と題された、斉木千佳と結木蒼司の心の闘いを、まるで映画を鑑賞するように彼は見た。
というよりも、否応なく見せられたのだろう。
あの大いなるふざけた少年……ヒトコトヌシノオオカミこと、少年の姿をした【秩序】に。
「……」
君にはこれらを見る権利と義務がある。
薄笑いを浮かべ、優雅に指揮棒を操りながら彼がそう言った、記憶がぼんやり残っている。
あれは、彼らそれぞれの心の闘いであり……、円自身の闘いでもある。
かつて自分の中で闘い、そして今も散発的に闘っている、おそらく死ぬまで続くであろう、ヒトが経験する心の闘いの、あれは隠喩。
さすがに血は止まったが、自ら折った角がじくじく痛む。
今回、斉木千佳の望みを、自らを傷付けてまで完膚なきまでに拒絶した、ということは。
意識と無意識の危ういはざまで衝動的に決断したとはいえ、円は自分から『死』を退けた、ということになる。
紺碧の空に吸われ、漆黒の闇の中で『自分』を永遠に解体する、ある意味甘やかでさえある誘惑を退けた。
どうやらまだ、『九条円』でいたいらしい、自分は。
そこに思いが至り、彼は我知らず苦笑いを浮かべていた。
無意識でポケットをまさぐり、煙草の箱とライターを取り出す。
紙巻を一本取り出し、ライターの石を擦って火を点ける。
一本の紙巻を、彼はゆっくり楽しむ。
深呼吸にも似た喫煙。
やがてほとんどが灰になった紙巻を、彼はポケットに(何故か)ある携帯灰皿を取り出し、その中へ落とす。
これからしばらく煙草はいらないな、と、妙に確信的に彼は思った。
こちらへ向かってくる軽い足音に、彼は木漏れ日から目を転じる。
結木さくや嬢、だ。
ジャージにフリースのパーカーという姿の彼女は、一見して地味な女子高生だろう。
その中身に女神……少なくともかつて女神と呼ばれた存在の、欠片があるとは誰も思えないだろう。
「オオモトヒメノミコト……」
円のくちびるが、記憶以前の記憶でよく知る名を紡ぐ。
現世で知ったその名ではなく、もっともっと近しい存在、近しい名だったという記憶がうずく。
少し離れたところで所在なく立ち、彼女は困ったようにかすかに笑う。
「かつて三太やった頃の欠片が、今、私の名を呼んだみたいですね、九条さん」
何か考えながら、さくやはゆっくりと語る。
「私……私の一部は確かに、かつての泉です。九条さんに『オオモトヒメノミコト』って呼ばれると、涙ぐみたくなるくらい懐かしい気分になりますし」
でも。
彼女は不意に頬を引く。
「だからって。生まれる前の記憶や感情に、必要以上にこだわるのは良うない、そうも思います。オオモトヒメノミコトの欠片を持って生まれる子ォは多分、私以外にもどっかにいてはる筈ですし。三太の欠片は、実はウチの父の中にもあります。本人的にはオモトノミコト、水神の部分が強そうですけど」
「そう……なんだ。そういうものなの?」
ナンフウに、九条のにーさんは結木草仁に似てますね、と指摘されたことを、円はふと思い出す。
さくやはやわらかく笑んでうなずいたが、すぐに表情を改めた。
「完全に生まれる前のことを切り離すんは無理ですし、切り離そうと躍起になるのも多分、不健康やと思いますけど。それでも九条さんはやっぱり、今生だけ『九条円』っていう人間として生まれて、生きてはります。『天津神の器』っていう素質を持った、ついつい自分より他人を優先してしまう業を持った、真面目なお医者さん。今生の九条さんは、悠久の過去にも未来にも、いてはりません。今生だけです」
そこで彼女は、ふっと、困ったような照れてような笑みを浮かべた。
「ナンか、生意気なこと言うてますね、スミマセン。でも私……結木さくやっていう一個人として。九条さんが九条さん自身を捨てんで良かった、そない思います。生きててくれはって良かったなあって」
彼女は姿勢を正す。
「生きて下さい。いえ、どうしても嫌やったら死ぬのもアリかもしれんとは思いますけど。ご自分が納得して、生きたり死んだりして下さいね。事故とか病気とか災害とかの理不尽はあるかもですけど、それ以外はご自分で納得して、選んで下さいね」
「……さくやさん?」
何故かわからないが、円はひどく不穏なものを感じた。
彼女の言葉は……何というか、遺言、めいていないか?
「そろそろ、行かなあきません」
さくやは妙に透明な笑みを浮かべた。
「元々弱い霊力しかない私が、神格者を黄泉平坂から引き戻すんは、やっぱり荷が重かったみたいです。このこと、気に病まんといて下さいって言うても九条さんは気に病みはるやろうけど。出来るだけ落ち込まんと、元気に暮らして下さいね」
その言葉を最後に、さくやの姿は陽炎のように消えてしまった。
「さくやさん!」
円の絶叫は、長閑な初夏の空へ虚しく吸い込まれていった。




