15 月と水とめぐる夢とⅣ③
斉木千佳の鏡に、九条が囚われた!
「九条さん!」
さくやは叫ぶ。
が、魅了されたかのように鏡を見つめる、額に細い角を持つ青年の視線は動かない。
ただ、遥のものより幾分濃い、ウェーブのある柔らかそうな髪がふるふると細かく揺れている。
何かに抗うように彼の顔が歪んだ。
激しい逡巡が見て取れる。
「九条さん! 鏡に取り込まれたら簡単には戻れません! ダメです、あきません、行かんといて下さい!」
しかし次の瞬間、ヒトの姿がゆるりと溶け、九条はユニコーンの姿へと変わった。
「私のユニコーン! 来て!」
震える甘い声は、歓喜に満ちて九条へ呼びかける。
イザナミノミコトの擬態を完全に解いた千佳は、最初に会った時と同じ白っぽい寝間着のような服を着ていた。
否、これは寝間着というよりも……。
「死に装束……なんや」
ゾッとする。
彼女は本気で死ぬこと、それも九条と共に死ぬことしか、望んでいない。
今まで何度か、イザナミノミコトや母から聞かされてきた。
怨霊である斉木千佳の望みは、掛け値なしで『九条と共に死ぬこと』のみ。
それ以外、本当の本気で何も望んでいない、と。
改めて実感したその思いの強さに、さくやは眩暈がしそうだ。
何故そこまで迷いなく、誰かと共に死ぬことを望めるのか、さくやにはまったく理解できない。
(……死にたいんやったら。どうしても死にたいんやったら、自分だけで死んだらエエやんか!)
誰かと一緒に死のうなんて、甘ったれているとしか思えない。
自分の自殺願望に、他人を巻き込むな!
「……三太は渡さない!」
さくやの中にあるオオモトヒメノミコトが、不意に吠える。
村の者のためならあっさり命を投げ捨てるつもりだった、三太の危うさを彼女は思い出す。
無私の志は貴いが、彼の場合は、他の者に比べれば自分に生きる価値はないからという、虚無や絶望の裏返しといっても過言ではなかった。
何より良くないのは、彼自身がその虚無や絶望に気付いていなかったこと。
そんなことはない。
あなたは、あなただからこそ貴い。
他の皆と同じか、それ以上に!
オオモトヒメという名を彼からもらう前も後も、彼女はそう思っていた。
でも彼がヒトとしての生を終えるまで、その思いをちゃんとわかってはもらえなかった。
少なくとも、わかってもらえたという実感はなかった。
今度もしあなたと会ったなら。
もう二度と、そんなことは言わせない。
精霊としての死を迎える直前、オオモトヒメはそう思っていた。
永遠の眠りの向こうまで、持ち続けた静かで強い決意。
「彼は生きるの! 生きるんや!」
もし彼が本当の本気で、能動的に死を望むのなら。
悲しくてもあえて止めはしない、おそらく。
だけど、単に自分を投げ捨てて楽になるため、あるいは誰かに望まれ流されるように選ぶだけの死は、オオモトヒメである自分も結木さくやである自分も、納得なんかできない!
彼女は無意識で山吹色の肩巾を振る。
オオモトヒメの装いに、気付くとさくやは変化していたようだ。
ユニコーンの細い後ろ脚に、鮮やかな山吹色の肩巾が巻き付く。
驚いたのか、初めてユニコーンは鏡から目を離し、振り向きざまさくやを見た。
「九条さん!」
呼びかけに、ユニコーンは大きな瞳を見張る。
「あなたは人間です! 本質はユニコーンでも、人間なんです! 誰かのために用意された、世界のすべてじゃありません!」
「うるさい! 黙れ! 邪魔するなクソ女!」
両目をつり上げ、般若の形相で千佳は叫ぶ。
「俺は……人間」
九条は呟いた。
ふっと、彼の姿がヒトに戻る。
「俺は……お前の【全き形の世界】じゃない。もちろんお前のすべてでもない」
彼は言うと、ひとつ大きく息を吐き……、
「俺は、俺で……、人間、だ!」
叫びながら彼は、やにわに額の角へ手を伸ばす。
獣じみた、低く野太い呻き声を上げて彼は、力づくで角を折る!
細く美しい角が半ばほどで折られ、折り取った箇所から鮮血を噴く。
千佳は絶叫した。
自らの血を頭から浴び、血まみれになりながら九条は、肩で揺らして大きな息を吐きつつ、千佳を睨む。
「俺は、お前の、【世界のすべて】じゃない! ……だから。どうしても死にたいんなら、ひとりで、勝手に、死んでくれ!」
言いながら彼は、折り取った自らの角を、彼女が抱える鏡に向かって投げつけた。
ガラスが割れるような甲高い音が、芝生の広場いっぱいに響き渡り……、不意に力を失くしたかのように、千佳は、かくん、と地面に落ちて倒れ伏した。




