15 月と水とめぐる夢とⅣ②
今回、少々R15要素あります。
……深い夢から覚めた。
いや、深い夢に取り込まれたのか?
【Darkness】と初めて接し、幻惑された時の感触に似ている。
身体中に残る気だるさの中で、円は大きく息を吐きながら思う。
身動ぎすると敷布団と掛け布団のすきまから、もわっとしたぬるい空気が鼻先に立ち上る。
これは……あゆと付き合い始め、名実ともに『恋人』と呼べる関係になって間もない頃の記憶を基にした『夢』だなと、どこか冷めた頭で彼は思う。
左の二の腕に、こちらへ後ろを向けているあゆの頭があった。
左腕が完全にしびれている。
よほど血行が悪かったのだろう、指先が冷たい。
彼の腕枕で眠るというのをやってみたい、とあゆからねだられたので、笑って左腕を差し出した記憶がある。
そのまま深く寝入ってしまったので後のことは覚えていないが、どうやら一晩中、左腕にあゆの頭を乗せたまま眠っていたらしい。
「マド? 起きたの?」
こちらに後ろ頭を見せたまま、あゆが言う。
ああそうだった、彼女はいつも自分を『マド』と呼んでいたなと思い出す。
一浪して入学した円とは違い、彼女は優秀だったので現役で合格していた上に『早生まれ』だったので、同学年ではあったが一歳半ほど、彼は彼女より歳上だった。
だからか彼女は最初の頃、円のことを『九条さん』と呼んでいた。
『さん』呼びはさすがに最初の三ヶ月ほどで、後は他のクラスメート同様『九条くん』になった。
クラスメートとして一年過ぎ、クラスメート以上に親しくなって付き合い始めた後しばらく、彼女から『マドくん』と呼ばれていた。
『マドくん』は母が自分を呼ぶ時の呼び方でもあるからちょっと……と、遠慮しながら言って以来、呼び名が『マド』になった。
そんなどうでもいいことを、彼がぼんやり思い返していると、
「ねえ。これ、どうしたの?」
と、彼女の声がした。
(ああ、あれの記憶か)
円は内心、苦笑する。
彼女の小さな指が、円の左親指の付け根にある傷跡をなぞっていた。
自分のものではない指が、動脈に近い皮膚に触れる。
他意のない触れ方なのに、ぞくぞくする。
「ああ、それ? 別に大したことじゃないよ」
円はわざと軽く、苦笑いを付け加えながら答えた。あの時と同じように。
「高校生の時、間違ってカッターナイフで切っちゃってさ。いやあ、あの時はメチャクチャ焦ったなあ。思いがけないくらいどんどん、血が出てきちゃってねぇ……一瞬、死ぬかと」
あはは、と彼女は笑った。
「やだ、そんな訳ないじゃん。マドったら、その頃からドジだったんだ?」
……そう。
その反応でいい。
そういう反応がほしくて、俺はそういう演技をした。
……でも。この虚しさは何だろう?
少しは……心配、してくれてもよくないか?
君、俺の恋人だよね?
痛かったね、くらいは言えないの?
そもそも君、医者を目指しているんだろう?
他人の痛みに敏感でなくて、いいの?
彼女に対して言葉になり切らないモヤモヤが湧いた、最初の出来事だったと今にして円は思う。
虚しさをごまかすようにその後、彼女を抱き寄せてキスをし、身体を繋げた。
甘い香りを放つ滑らかな肌に溺れ、なし崩しに虚しさを忘れたけれど。
なくなることはなかった……。
「九条先生」
腕の中の女が不意に顔を上げた。
ぎょっとし、円は行為を止める。
瞬くうちにリビドーが落ちた。
思わず女を振り払う。
斉木千佳だ!
「寂しかったんですね。私もそうでした」
振り払われても女はほほ笑む。
「あなたの寂しさを理解できるのは、多分、この世で私だけ。私の寂しさを理解できるのも、多分、あなただけ」
歌うように彼女は言う。
「あなたは世界のすべて。私にとって世界のすべて」
歌うように紡がれる言の葉は、祝詞であり呪文。
「あなたの名前が示すように、欠けることのない全き形の世界で宇宙。そして私は……」
多幸感に満ちた目で、女はうっとりと円を見る。
「そして私は、あなたのすべて」
言霊の網が円を覆う。
窒息しそうな圧迫感。
振りほどこうともがくうちに、円は本性であるユニコーンの姿になっていた。
「あなたは私のすべて。私はあなたのすべて。生まれる前から決まっていたこと。愛しています、私のユニコーン。一緒に、闇の底で眠りましょう」
「彼は生きるの! 生きるんや!」
叫び声に、円はハッとして振り向く。
黒々と輝く結い上げた髪、額に描かれた四弁の朱の花。
口許の、えくぼに似た朱色の点が震えている。
後ろ脚に巻き付くのは山吹色の肩巾。
しっかりと巻き付き、強く強く、彼を引っ張る。
「九条さん! あなたは人間です! 本質はユニコーンでも、人間なんです! 誰かのために用意された、世界のすべてじゃありません!」




