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14 月と水とめぐる夢とⅢ④

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 そう思った瞬間、蒼司は、さながら生簀からつかみ取りした大きなマスを魚籠へ運ぶ時のように、全身で獲物を抱える感じで月の鏡を抱え込んだ。

 魚は激しくはね、蒼司の腕から逃れようともがく。

 そうはさせるかと、彼は戒めを強める。


 抱え込み、戒めた状態でイザナミノミコトの許へ戻ろうとしたその時。

 涼やかな笛の音がだしぬけに響いてきた。

 鏡を抱えた状態で、蒼司は思わず硬直する。


(これ……、は……)


 ドビュッシーの『月の光』を思わせる、やわらかな音色で奏でられるメロディーは。

 メタセコイヤの一族に伝わる『子守歌』だ。

 秋の終わりに葉を捨て、冬の眠りへと導くための曲。

 心を落ち着け、あるべきものはあるべきままに受け入れなさいと教えてくれる曲。


 蒼司が学校へ行けなくなった時。

 遥がそばで、彼の気が済むまで繰り返し繰り返し、奏でてくれた曲だ。

 それが……今、蒼司が抱え込んでいる、鏡の中から聞こえてくる!


(蒼司さん。聞こえますか、蒼司さん)


 少し苦しそうな遥の声が言う。


(今年の秋は僕と合奏がしたい。そうおっしゃってましたよね?)


 これは不浄のまやかしだと、頭では思っていたけれど。

 蒼司の心は反応してしまう。


(……それが何?)


(ならば、僕が消える前に。合奏……もしくは、勝負をしましょう)


 『消える前』という穏やかならぬ言葉に心が乱れ、それでも『勝負』という言葉に闘志がかき立てられる。


(……勝負、なら、してもいい。でもオレ、今、フルート持ってないんやけど?)


(そんなことはありません。あなたが持っているのは月の鏡であると同時に、あなたの愛器であるフルートでもあるはず。よく見て下さい!)


「……あ」


 全身で抱え込んでいた彼の月の鏡は、いつの間にか、使い慣れた彼のフルートになっていた。


(月のはざかいは心の世界。心が見るものが真実なのです)


 不思議な言葉と共に、蒼司の目に、ほっそりとした少年のシルエットが横笛をかまえるのが見えた。


(あなたが今、磨き上げようとしている曲はこれではありませんか?)


 ささやくような言葉と共に、柔らかな音色が蒼司の耳朶を打つ。


「バッハの……『シチリアーノ』……」


 遥が奏でる木製フルートの音色はあたたかい。

 が、そのあたたかな音色は、『シチリアーノ』という曲にある哀愁を鈍化させてはいない。

 音色はあたたかなのに、どうしようもなく寂しい。

 寧ろ音があたたかだからこそ、曲に秘められた哀愁がそくそくと心へ沁みてくる。


(……これが僕に奏でられる『シチリアーノ』であり、僕の解釈です)


 最後の一音の余韻が消えた一拍後、遥の声はそう言った。


(あなたはどう、奏でますか?)


「オレ、は……」


 半ば無意識のうちに蒼司はフルートをかまえ、最初の一音を吹く。

 心に刻まれた『シチリアーノ』が、息に乗って銀色の(ふえ)を震わせ、表現されてゆく。


(『シチリアーノ』は寂しい、けれど……)


 同時に、凛としていて端正。

 金管楽器が生み出す、澄んだ音色に相応しい曲でもある。

 それはまるで……。


(イザナミノミコト、のような……)


 思った途端、音色は淡く発光した蔓草に変じた。

 アッと思った瞬間、光の蔓草は蒼司を覆う。

 途端に、すさまじい吐き気。

 たまらずフルートを取り落とし、地面に胃の腑のものを吐き出した。

 白っぽい、ところどころに焼け焦げめいたもののある、ちぎれた付箋紙の欠片のようなもの。

 それがべったり貼りついているのは、どす黒いタール状のナニか。


(これって……)


 タール状のナニか、が、不浄にまつわるモノなのは説明される前に肌感覚でわかる。

 そして、ちぎれた付箋紙のようなものは。

 九条の『月のはざかい』神事の時に拾って、衝動的に呑み込んだ天津神の神器の欠片……。


「蒼司さん」


 声に、蒼司は顔を上げる。

 そこにいたのは、津田高校の標準服をきちんと着込んだ、茶色がかった柔らかな髪の美しい少年。

 彼はその美しい顔に相応しい、キラキラとした笑顔を蒼司へ向けた。


「蒼司さん。まだ勝負は終わっていませんよ? ……合奏をしましょう。よりよい音色を奏でましょう!」


 ふらつきながらも蒼司は立ち上がり、フルートをかまえる。

 高く低く自在に奏でられるメロディ。

 相手のメロディを耳と心へ入れながら、こちらも当意即妙にメロディを返す。

 遥が即興で奏でるメロディへ、蒼司も即興で応じる。

 ジャズのセッションにも似た、楽しくも気の抜けない音楽の真剣勝負だ。

 蒼司はここへ来た当初の目的を完全に忘れ、必死に音を紡いだ。


「……蒼司くん!」


 イザナミノミコトの叫び声。

 蒼司は我に返る。


「何をしている! いつまで不浄と遊んでいるんだ!」


 焦れたような彼女の声に蒼司は、羞恥と罪悪感に苛まれ、固まる。


「蒼司さん」


 美しい少年は唇からフルートを外し、哀しい目で蒼司を見た。


「僕を、不浄だと本気で思うのですか? ……本当の、本気で?」


 混乱と迷いに目を泳がせる蒼司へ、遥――あるいは遥に似たナニモノカ――は、再び笛をかまえ、奏でる。

 曲はヴィヴァルディ『四季』から『冬』の第二楽章。

 蒼司が去年、発表会で吹いた曲だ。


 冬の日、暖かな部屋から外を眺めて春を待つ、そんなほのかな期待を音にしたような、短くも印象的な曲。

 練習している蒼司のそばで、彼はいつもこう言っていた。

 まるで、僕らが冬の眠りの中で見る夢のような曲ですね、と……。


「……遥さん!」


 叫びと同時に、自らの意思で戒めていた術がゆるむ。

 術に込めた霊力が、反動として自らへ返ってくる。

 弾き飛ばされ、蒼司は地面にたたきつけられた。


「……役立たずが。所詮は子供だな」


 身動きも出来ずに地面に横たわる蒼司を見下ろし、吐き捨てるようにイザナミノミコトが言う。

 歪んだ顔、罵る声。

 強いショックを受けると同時に、蒼司は、強い違和感を覚えた。


(……コレ。誰やねん)


 全身くまなく真っ白。

 それがイザナミノミコトの中身だ。

 でも……この……中身が全身、くまなく真っ黒といって過言でない、コレ、は?


「見つけたぞ! 結局お前、津田高校近辺にしかいられないんだな!」


 鋭い声と共に、蒼司のそばに風を切って現れたのは。

 額に鋭く細い角を持つ、銀のたてがみの真白のユニコーンだった。

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