14 月と水とめぐる夢とⅢ②
次に蒼司の意識がはっきりしたのは、旧野崎邸の離れの一室でだった。
床が延べられ、蒼司は、額に冷却ジェルシートを貼った状態で横になっていた。
「気が付いたか? 蒼司くん」
イザナミノミコトの声。
蒼司はあわてて半身を起こした。
「そのままで。無理に起きなくていい、君はさっきまで高い熱を出していたんだから」
蒼司は思わず額のジェルシートを触る。
ひどくぬるい。
彼女は小さな盆に冷水を満たしたグラスを乗せ、蒼司が横になっていた寝床のそばまで来た。
「まったく君は無茶をする。アレは怨霊なんだ、いくら君が月の氏族の若子であったとしても、月の鏡の中へ丸ごと捕獲して無事でいられる訳がなかろう」
説教をしながら彼女はしとやかに座り、盆を差し出す。
蒼司は礼を言って頭を下げ、グラスを受け取ると一気に中の水を飲み干した。
身体がひどく渇いているのだろう、冷たい水がたまらなく美味い。
「限界に近いほどの高熱を出して部屋で倒れている君を、さくやくんが見つけたんだ。すぐに我々が駆けつけ、私が#※$%&を処方して……」
「は?」
意味のわからない音の羅列を聞いたような気がして、蒼司は首を傾げた。
「#※$%&……ああ、つまり。天津神の万能薬だよ。九条くんの怪我の悪化を治した薬だ」
「ああ……」
そこの部分はわかったが、自分の状況が今ひとつわからない。
「あの、オ、じゃなくて、僕は一体……」
「なんだ、記憶が曖昧なのか?」
彼女は一瞬大きく目を見張り、次にかすかに苦笑した。
「まあ……当然か。成ったばかりとはいえ怨霊ひとりをまるごと、自らの鏡の中へ閉じ込めるなんて無茶をしでかしたんだ。むしろ命があっただけ僥倖、というものだ」
「あ……」
……そうだ。
思い出した。
蒼司は、怨霊に囚われたナンフウを救いたくて『夢路』から怨霊へアプローチし、油断している彼女を自らの鏡の中へ封じ込めようとして……。
(つまり、ギリギリで成功した?)
じわじわと喜びが湧いてくる。
「喜んでいるようだがな、蒼司くん。事はそう単純じゃない」
渋い顔でイザナミノミコトは続ける。
「君の月の鏡で閉じ込めたことで、確かに怨霊は捕獲できた。しかし、閉じ込めた彼女を浄化するのは大変だったんだ。鏡を割れば怨霊を取り出せることは出来るが、そうすると君が死ぬ」
蒼司は思わず息を呑む。
捕獲のことばかり考えていたが、言われるまでもなく『捕獲した怨霊』を取り出すのは容易ではない。
冷静になった今、本能的にわかる。
それでもあの時の蒼司は、怨霊の捕獲しか頭になかった。
「捕獲してくれたことそのものは、有り難かった。その部分に関して君は誇っていい。だが……先走り過ぎた。そこは大いに反省してもらいたい。君のご家族と九条くんは怨霊の浄化にエネルギーを取られ過ぎ……、身体に支障をきたして、みんな今、入院している」
「え?」
そこまでの事態に至ると思っていなかったので、蒼司は青ざめた。
イザナミノミコトは苦笑を含んだ口許で、大丈夫だと言う。
「入院はしたが、彼らの命に別条はない。要するに過労の状態と表現するのが一番近いだろう。もちろん甘く見るべきではないが、過剰な心配はいらない」
言いながら彼女は、どこからともなくもう一杯、グラスに満たされた冷水を差し出してきた。
軽く頭を下げ、蒼司は一気に水を飲む。
それだけで随分、気持ちが落ち着いた。
「君に関しては、人間の医療機関に任せるより私が治療するべきと判断した。君の不調は、ただの過労じゃないからね」
イザナミノミコトの言葉に、蒼司はうなずく。
そこでふと、彼女は表情を変えた。
「ただ……九条君に関しては。命に別状はないものの、【eraser】……つまり天津神としての力を使えなくなった。今回の浄化で、器そのものが壊れてしまってね。今までの実績から、彼が天津神・エンノミコトであることは打ち消されないが、現役の能力者として仕事をこなせなくなった」
「え? そんなことってあるんですか?」
驚いて蒼司が問う。
この手の能力は生まれつきに備わっているものだから、衰えることはあっても完全に消えることはまずない、それがセオリーだ。
イザナミノミコトは小さくうなずいた。
「ああ。稀にある。もちろん人間として生きてゆくのに支障はないし、むしろ余計な能力がなくなって、彼としては内心喜んでいるのかもしれない。だが私としては……困ることもあるし、寂しくもある」
彼女は遠い目をした。
「力の強い【eraser】がいない期間を、経験しなかった訳じゃないが。ここ最近、【dark】の活動が活発になっているからな。心細いのが正直なところだ」
「イザナミノミコト……あの」
イザナミノミコトがもの問いたげに小首を傾げた。
かなり逡巡したが、思い切って蒼司は、言ってみることにした。
「あの。その。ぼ、僕は、あ、天津神の器には、到底なれませんけれど。イザナミノミコトのお役に立ちたいと、本気で思ってます。僕に、どれだけのことが出来るんかわかりませんし、そもそも僕なんか必要ないかなとも思いますけど。でも。下働きというか雑用係というか、その程度やったらお役に立てるかもしれません。だから……」
不意に彼女は、大輪の薔薇のようにほほ笑んだ。
「ありがとう、蒼司くん。君の志、有り難く受け取ろう。月の若子が味方してくれるなんて、頼もしい限りだ」
憧れの人の美しい笑顔に蒼司は胸がいっぱいになり、思わずうつむいた。
だから。
彼は気付かなかった。
イザナミノミコト……あるいは彼女のように見える、ナニモノカが。
歪んだ、会心の笑みを浮かべて。
蒼司を見ていたことを。




