13 月と水とめぐる夢と⑤
(……あ)
水面に映る己れの姿にさくやは、古い古い、生まれるよりもはるか昔の、記憶とも何ともつかないものを見出した。
最初の記憶?は、黄金色の稲穂が輝く秋の日。
田のそばに湧く小さな泉に、さくや――否、水神の娘――は、小さなアマガエルに化身して、いた。
稲刈りに励む人間たちを、彼女は、澄んだその目に映していた。
「こんなところにいると、踏み潰されてしまうよ」
そっと声をかけてくれたのは、まだ少年と呼びたくなるような、小柄で華奢な若者だった。
人間たちの稲刈りが珍しく、ついつい彼女は泉から出て畦にいたのだ。
「泉へお帰り」
若者は彼女を、そっと手ですくい上げ、泉に帰してくれた。
くるる、と鳴いた彼女へ、若者はニコッと笑ってくれた。
「コラァ!さんたー! 何を遊んどる、この穀つぶしがー!」
遠くから叱責が響き渡り、若者は首をすくめる。
「じゃあね」
そう囁いて彼は、大急ぎで田へ戻った。
(さん、た……)
その名が、生まれて以来ずっとなだらかに澄んでいた彼女の心を、最初に波立たせることになる存在だと知るのは、もっと後のこと。
「お願いいたします。村の田んぼは、今にもひび割れそうなほど乾いているんです。稲もぐったりして、黄ばみ始めています。このままでは稲が育たず、米がとれません。米が無ければ村は冬が越せません。お願いいたします、水を分けて下さいませ。分けて下さいましたら子々孫々、水神様を丁重にお祀りいたします」
あの日蛙だった娘を助けた若者が、『神の庭』にいた。
娘の父である、この地域の地下水脈たる水神へ向かって、彼は縷々、嘆願する。
ここへ来るだけで人間は命をすり減らす。
彼もそれを承知で来ている。
旱に苦しむ村を、なんとか救いたい一心で。
娘が泉のそばで彼と出会って、おそらく数年は経っている。
幼さを残していた少年は、すでに一人前の男になっていた。が、まとう空気はあの日と変わらず、清浄で優しい。
しかし父である水神の答えはそっけなかった。
「何故、お前たちに水を分けねばならない?」
「米が採れず、お前たちが冬になって死に絶えようが、少ない水を取り合って他の村の者と殺し合おうが、我に関わりのない話だ」
冷徹な父の言葉。
その言葉自体は間違っていない。
大いなる【世界】の循環から考えれば、人間だけがこの【世界】で生きる生き物ではないのだから。
……でも。
この若者は、自分の欲だけでここへ来たのではない。
いや、広い意味なら自分の欲かもしれないが、彼は、家族同然だと彼が思う、村人たちのことを第一に考えている。
その次に考えているのは水を奪い合う相手、つまり他の村の民のこと。
自分のことは、その次か、次の次。
彼は自分が傷付くことよりも、他人が傷付くことを厭う。
それはもう習い性のように。
(だけど、いつもいつもそれでは駄目)
自分のことは後回しにしてしまうこの人のことを、まず最初に考えてくれる誰かが、この人には必要。
そんな誰かが彼のそばにいないのならば……、私がなる!
(そう……そうだった……)
水神の娘であった頃の記憶と感情。
『オオモトヒメノミコト』という名を、三太からもらう前の記憶。
これは恋。
恋が何か知らないうちに陥った、精霊として最初で最後、唯一の恋。
(……三太!)
彼はもういない、永遠に。
大いなる循環という、輪廻の輪の中へ還って幾星霜。
深い眠りの中で彼の魂はゆるゆるとほどけ、輪廻の中で幾つかの新たな魂として組みあがる。
精霊として死んだ自分も、たどった道だ。
彼の魂の欠片と地下水脈の神気からわかれた水神の魂が、複雑に絡み合った存在として生まれたのが父。
そして彼の魂の、もうひとつの欠片から生まれ出たのが……。
自分のためよりも他人のために怒りを覚える、孤高の天津神の器。
(……九条さん!)
「行かないで」
無意識のうちにさくやはつぶやく。
あなたは自分を粗末にし過ぎる。
他の者が助かるとなれば、簡単に自分の命を投げ捨てる人。
その心根は、博愛精神や自己犠牲と言えなくもないけれど。
あなたのそれは多分、ただ死に場所やきっかけが欲しいだけのこと。
「そんなに、生きていたくないですか?」
許さない。
(小波の)皆が助かればそれでいいなんて、あなたに言わせない。
(生きて。生きて。生きて! 私がそばにいます!)
三太への、オオモトヒメノミコトの思いなのか。
結木さくやの、九条円への思いなのか。
彼女自身わからない。
わからないまま、彼女の思いは水に乗って広がり、小波中を満たす。
生きて。
生きて。
生きて。
水に育まれし、生きとし生けるものよ。
シャララララーン!
響もす鈴の音。
魂の奥深くに刻まれた、神楽を彼女は舞っていた。




