表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/106

13 月と水とめぐる夢と⑤

(……あ)


 水面に映る己れの姿にさくやは、古い古い、生まれるよりもはるか昔の、記憶とも何ともつかないものを見出した。



 最初の記憶?は、黄金色の稲穂が輝く秋の日。

 田のそばに湧く小さな泉に、さくや――否、水神の娘――は、小さなアマガエルに化身して、いた。

 稲刈りに励む人間たちを、彼女は、澄んだその目に映していた。


「こんなところにいると、踏み潰されてしまうよ」


 そっと声をかけてくれたのは、まだ少年と呼びたくなるような、小柄で華奢な若者だった。

 人間たちの稲刈りが珍しく、ついつい彼女は泉から出て畦にいたのだ。


「泉へお帰り」


 若者は彼女を、そっと手ですくい上げ、泉に帰してくれた。

 くるる、と鳴いた彼女へ、若者はニコッと笑ってくれた。


「コラァ!さんたー! 何を遊んどる、この穀つぶしがー!」


 遠くから叱責が響き渡り、若者は首をすくめる。


「じゃあね」


 そう囁いて彼は、大急ぎで田へ戻った。


(さん、た……)


 その名が、生まれて以来ずっとなだらかに澄んでいた彼女の心を、最初に波立たせることになる存在だと知るのは、もっと後のこと。



「お願いいたします。村の田んぼは、今にもひび割れそうなほど乾いているんです。稲もぐったりして、黄ばみ始めています。このままでは稲が育たず、米がとれません。米が無ければ村は冬が越せません。お願いいたします、水を分けて下さいませ。分けて下さいましたら子々孫々、水神様を丁重にお祀りいたします」


 あの日蛙だった娘を助けた若者が、『神の庭』にいた。

 娘の父である、この地域の地下水脈たる水神へ向かって、彼は縷々、嘆願する。


 ここへ来るだけで人間は命をすり減らす。

 彼もそれを承知で来ている。

 (ひでり)に苦しむ村を、なんとか救いたい一心で。


 娘が泉のそばで彼と出会って、おそらく数年は経っている。

 幼さを残していた少年は、すでに一人前の男になっていた。が、まとう空気はあの日と変わらず、清浄で優しい。

 しかし父である水神の答えはそっけなかった。


「何故、お前たちに水を分けねばならない?」

「米が採れず、お前たちが冬になって死に絶えようが、少ない水を取り合って他の村の者と殺し合おうが、我に関わりのない話だ」


 冷徹な父の言葉。

 その言葉自体は間違っていない。

 大いなる【世界】の循環から考えれば、人間だけがこの【世界】で生きる生き物ではないのだから。

 ……でも。


 この若者は、自分の欲だけでここへ来たのではない。

 いや、広い意味なら自分の欲かもしれないが、彼は、家族同然だと彼が思う、村人たちのことを第一に考えている。

 その次に考えているのは水を奪い合う相手、つまり他の村の民のこと。

 自分のことは、その次か、次の次。


 彼は自分が傷付くことよりも、他人が傷付くことを厭う。

 それはもう習い性のように。


(だけど、いつもいつもそれでは駄目)


 自分のことは後回しにしてしまうこの人のことを、まず最初に考えてくれる誰かが、この人には必要。

 そんな誰かが彼のそばにいないのならば……、私がなる!


(そう……そうだった……)


 水神の娘であった頃の記憶と感情。

 『オオモトヒメノミコト』という名を、三太からもらう前の記憶。


 これは恋。

 恋が何か知らないうちに陥った、精霊として最初で最後、唯一の恋。


(……三太!)



 彼はもういない、永遠に。

 大いなる循環という、輪廻の輪の中へ還って幾星霜。

 深い眠りの中で彼の魂はゆるゆるとほどけ、輪廻の中で幾つかの新たな魂として組みあがる。

 精霊として死んだ自分も、たどった道だ。


 彼の魂の欠片と地下水脈の神気からわかれた水神の魂が、複雑に絡み合った存在として生まれたのが父。

 そして彼の魂の、もうひとつの欠片から生まれ出たのが……。


 自分のためよりも他人のために怒りを覚える、孤高の天津神の器。

 

(……九条さん!)


「行かないで」


 無意識のうちにさくやはつぶやく。


 あなたは自分を粗末にし過ぎる。

 他の者が助かるとなれば、簡単に自分の命を投げ捨てる人。

 その心根は、博愛精神や自己犠牲と言えなくもないけれど。

 あなたのそれは多分、ただ死に場所やきっかけが欲しいだけのこと。


「そんなに、生きていたくないですか?」


 許さない。

 (小波の)皆が助かればそれでいいなんて、あなたに言わせない。


(生きて。生きて。生きて! 私がそばにいます!)


 三太への、オオモトヒメノミコトの思いなのか。

 結木さくやの、九条円への思いなのか。

 彼女自身わからない。

 わからないまま、彼女の思いは水に乗って広がり、小波中を満たす。


 生きて。

 生きて。

 生きて。


 水に育まれし、生きとし生けるものよ。 


 シャララララーン!

 (とよ)もす鈴の音。

 魂の奥深くに刻まれた、神楽を彼女は舞っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ