13 月と水とめぐる夢と④
イザナミノミコトはあきらめたような大息を吐き、頬を引く。
「想定外ではあったが。計画はこのまま実行する」
よく響く彼女の声に皆の背が伸び、空気が引き締まる。
「オナミとその周辺部に特別な戦闘エリアを設定し、斉木千佳嬢である怨霊をオナミの最奥である『おもとの泉』まで導く。彼女の中に巣食っている【dark】を、【eraser】・エンを中心に浄化し、質の悪い【dark】から生霊の状態へと戻す。生霊の彼女を彼女自身の身体へ戻すことで、彼女の蘇生を促す。大まかな流れはこんな感じで進めたい。ただ……」
彼女はふっと目を伏せる。
「諸君それぞれの潜在能力を顕在化させる今回の戦闘エリア内では。怨霊サイドもやはり、潜在能力のすべてを顕在化させる。彼女はすでに、かなりギリギリまで自分の能力を出し切り、形振り構わず九条円を狙っているから、諸君の潜在能力が顕現される場合のように、桁違いの霊力で向かってくる可能性は小さい。だが当然、油断はできない。そして……」
伏せていた目を上げ、彼女は一同を見渡した。
「戦闘エリアに月のはざかいを重ね合わせれば。物理的にも霊的にも、ここから彼女が逃げ出すことは不可能になる。が、それは同時に、諸君の誰もがこの場から逃げ出せないということでもある。……正直に言おう。このミッションをしくじれば最悪、フィールドの原点を務める私も無事では済まない」
さすがに、ざわッと場の空気がゆらぐ。
九条がことさら驚いたように目を見張ったのが、さくやは、軽い違和感と共に強く印象に残った。
「……ヒトコトヌシノオオカミ」
イザナミノミコトは冴えた視線を、ひたっと美貌の少年へ向ける。
「だからあなたは。わざわざこの場へといらっしゃった。私たちがへまをした場合の尻ぬぐいをするため、【秩序】の代表として。……そういうことですね?」
ヒトコトヌシノオオカミは気障な仕草で肩をすくめた。
「穿ちすぎだよ、イザナミ。私は君ほどじゃないけど、変わり者の【秩序】だ、知ってるだろう? だからこれは、ただの気まぐれってヤツさ」
イザナミノミコトは再び大息を吐いたが、気持ちを切り替えたようだ。
「戦闘エリアの設定を行う」
宣言と共に、彼女の姿はかき消えた。
消えると同時に、不思議な声がそれぞれの耳へ響く。
「【管理者】を原点に、XYZ軸を設定。原点からそれぞれ絶対値38……小波地区とその周辺部の座標エリアを記録体へ【drag】。仮置き。只今よりここを、第一種特別戦場エリアに設定する」
視界が一瞬、くにゃりと歪んで皆がよろめく。
一瞬だったが、ひどい眩暈がした。
さくやは思わずきつく目を閉じる。
「【eraser】及び国津神の末裔たる能力者の、能力の制限を解除。【管理者】が許す、斉木千佳の魂に根深く巣食う【dark】を浄化し、かの者を人間へと戻すため、最善を尽くせ!」
ふわっと身体が浮くような、不可思議な感覚。
目を開けてみると。
白い大地と紺碧の空が、どこまでもどこまでも広がっていた。
「……なるほど」
不意に父の声がした。さくやはあわててそちらを向き、息を呑む。
そこにいたのは……青みがかって見えるほどの白い毛皮に全身を覆われた、片角の大鹿。
幼い頃、しょっちゅう生身の父と二重写しで見えた片角の大鹿――父自身であり、かつ父が見出す神聖なるモノ――一角のミコトこと国津神・オモトノミコトだ。
「身体は軽いし感覚も鋭なっとる。人間の身体っちゅう重苦しい制限が消えると、こんな感じなんやな」
飄々とそんなことを言うところは、いかにも父・結木草仁らしい。
ただ、長くて白いまつ毛に覆われた大鹿の薄青の瞳は、氷河の割れ目を思わせる冷ややかなものをたたえていた。
「……我は月夜見命の末裔に連なる者にして、当代の月の鏡・結木るりなり」
母の声に、さくやはそちらを見る。
白い髪に真紅の瞳の、巫女姿の少女。
話に聞いただけではあるが、母が見ているツクヨミノミコトの姿だ。
少女は母の声で、『月のはざかい』の祝詞を唱える。
「……内にやわらかな光を抱いだく瑠璃色の闇のごとく、ひとに安らぎを与える夜の闇のようであれかし、と名付けられし者なり。我が真名において、ここに月のはざかいを敷く」
言い終わると同時に、かすかに金色のかかったアイボリーホワイトの光が広がる。
月光を思わせるやわらかな光が、天津神の敷いた結界に重なり、隈なく広がってゆく。
「じゃ、そろそろ俺も動きましょうかね」
少々意地の悪い薄笑いを含んだ、九条の声。
「ここから北北東の方角にアレはいるという話だから。迎えに行って、ここまで追い立ててきましょう。今まで隠れて出てこなかった九条が出て来たとなれば、さすがにアレも動くでしょう」
美しい、ほっそりとした四つ足の獣が、額の角を振って言う。
(九条さん……)
夢で見たユニコーンがそこにいた。
潔癖で誇り高い……とても孤独な生き物が。
何故か胸の奥が痛い。
(行かないで)
行けばこの人は帰ってこない。
紺碧の空の果てまで駆けてゆく、きっと。
「九条さん!」
思わずさくやは声をかけた。
ユニコーンは振り向き、黒曜石のきらめきを持つ瞳で真っ直ぐさくやを見ると、少し照れたように、小さく頭を上下に振った。
「やっぱりさくやさん、黄泉津姫だったんですね」
「……え?」
「何でもないです。では行ってきますね。絶対ここまで戻ってきますから、ご心配なく。体調さえ万全なら、怨霊なんかに簡単にはやられません。これでもエンノミコトだなんて、御大層なふたつ名持ちなんですから」
笑みを含んだ声音で彼はそう言うと、疾風のようにその場から駆け去った。
「九条さーん!」
追うつもりで二、三歩足を進め、違和感に立ち止まる。
なんだか足さばきが重い。
何気なくさくやは下を見て、あっと目を見張る。
足許には『おもとの泉』。
話に伝え聞く在りし日のように、満々と清水をたたえた、澄んだ水面に映るのは。
白の衣装に山吹色の肩巾をまとった、古代の乙女。
額に朱色の四弁の花、口許にえくぼにも似た朱色の点。
さくやが『神の庭』でツクヨミノミコトの声を聞く前に必ず現れる、姫神……オオモトヒメノミコトの姿だった。




