12 転換Ⅱ③
レッスンが終わり、蒼司は帰路につく。
地元の最寄り駅まで戻ってきた。
フルートの先生言うところの『河川敷で宿敵と殴り合い』(つまり怨霊とのガチンコ勝負)をすることもなく。
まあ、駅から姉の通う津田高くらいまではグレーゾーンというか、正確には小波ではないから、まだ油断はできない……。
(…っと。おいでになったやん。フラグの回収、お疲れさん)
剣呑に薄く笑み、蒼司は歩く速度を変えず前へ進む。
先週の金曜日、高校の塀のそばに夕闇に紛れるように立っていた彼女。
今日は同じ場所に、やはり夕闇に紛れ、どういうつもりなのか黒いベルベットのゴスロリ風ワンピースを身に着け、黒髪を無造作に垂らした姿で立っていた。
「……オレになんか用か?」
彼女の前まで来ると、蒼司はそう声をかけて立ち止まった。
イザナミノミコトの顔を模した彼女は、凶悪に頬をゆがめる。
「ご挨拶だな。私と会えて嬉しくないのか?」
ふん、と蒼司は鼻を鳴らす。
「声と口調はまあまあ、か。せやけどな。コッチとしたらあんたの下手な変装に、吹き出しそうになるんを辛抱して声かけたったんやで? あんた、それでイザナミノミコトのつもりか? 小学生レベルの変装やん、そんなんで引っかかるかい、このくそボケが」
「ふふっ。言うねえボクちゃん」
少女――少女の姿をしたナニモノカ――は、薄く冷笑を浮かべる。
不意に彼女は両腕を前に差し出し、両のてのひらを上に向けた。
「結木蒼司!」
不意に名を呼ばれ、蒼司は思わずピクリと肩を揺らしてしまった。
声が、あまりにもイザナミノミコトに似ていたせいもあったのかもしれない、名と共に存在そのものを縛られた、感触があり、彼は焦る。
彼女の手には、直径30㎝ばかりの銅鏡が鈍い光を放って、あった。
「月の鏡に映る己れを見つめ、己れの真の姿を知れ!」
(なんやて! コイツ、月の鏡まで扱いよるんか!)
見えない呪縛を引きちぎるイメージで、蒼司は一度、目を閉じて大きく頭を振り、一歩後退って姿勢を変える。
「『我は鏡なり』!」
「……あらあら。さすがだねボクちゃん。この程度の呪縛だったら、振りほどいて弾き返せるんだ。さすがは月の若様」
弄るように嘲るように彼女は言うと、冷笑を深める。
「じゃあ、これは?」
彼女の手にあるのは、蒼司自身が最大限に頑張って出現させることが出来る『月の鏡』と同じほどの……直径50㎝ばかりの、重そうな銅鏡だ。
「結木蒼司! 光と闇のあわい・生と死のあわいである蒼においてすら、自らで自らを司る者であれかし、との願いにより名付けられし者よ。月の鏡に映る己れを見つめ、己れの真の姿を知れ!」
(なん……やて!)
真名の意味するところまでを正しく呼ばれ、先程とは比べものにならないほど力の大きな鏡を向けられ、蒼司は息を呑んで硬直する。
青ざめ、硬直した蒼司の顔が、青みがかった鏡面に映っていた。
「だあ! 畜生めが!」
蒼司の身体を突き飛ばす勢いで、何かが不意に、鏡との間に割り込むように入ってきた。
その瞬間、蒼司の硬直が解ける。
鏡面に映っているのは、浅黒い肌の、目鼻立ちがはっきりした綺麗な顔の青年。
(ナンフウ!)
思ったのと同時に、鏡の中のナンフウの顔が硬直した。
「あらあら。可愛いボクちゃんの後ろにはカッコいい木霊のおにいさんがいたんだ。ついでに君も来る? 鏡の中の世界へ」
「やかま……」
悪態を吐きかけ、不自然に止まるナンフウの言葉。
鏡の中の彼の目が、驚愕したように大きく見開く。
彼の唇が何かをつぶやき……ふっ、と、姿が消えた。
「ナンフウ!」
蒼司が叫んだ瞬間、白い衣に黒の烏帽子と沓という、浄衣姿の壮年の男の姿が鏡に映った。
「くそ」
忌々しそうにつぶやくと彼女は、人形のように端正な顔を歪ませる。
そして、鏡を虚空に消したのと同時に姿も消した。
「蒼司さん」
大楠の声だ。
蒼司は思わず息を吐く。
ようやく呼吸を思い出した気分だ。
「蒼司さん、とにかく小波の中へ。そして速やかに帰宅してください」
「大楠さん、ナンフウは?」
「大丈夫。これから私が彼を追います。彼女はそう遠くへは行けませんし、行きたがりません。ナンフウくんは必ず連れ戻しますから、あなたはお家へ帰ってください。いいですね」
うなずく以外、蒼司には何も出来なかった。




